義経と若菜の仲は互いの両親に認められてから急速に深まり、シーズン中時折翌日が移動日でないオフの時に彼が彼女の家に泊まりに行ったりもしているが、彼女の父も二人の仲を認めたからか、市役所の職員であり、休日のイベント等がない限り土日が休める彼女が週末の休暇に合わせて、遠征でいない時以外は彼の東京のマンションに通う事を許し、そこで過ごす事が多くなった。かといって彼女は彼の身の回りの世話はあまりしない…というか彼自身が今までの道場での暮らしが身に付いているせいか自分の事は大抵自分ですべてこなしてしまうし、それが本人も当たり前だと思っているので、彼女が手伝える事というものが余りないのだ。それでも彼女が彼の部屋に通うのは、彼が心から『何もしなくていいから、傍にいてほしい』と言ってくれる気持ちが嬉しくて、自分も彼の傍にいたいという気持ちが抑えられないからで、こうして彼のマンションへ通い、ほんの少しだけ手伝える事をそっと手伝い、二人で過ごす甘く暖かい時間をお互いに大切にしていた。そうした暮らしを成立させるためにも普段は自らの仕事をきちんと、また効率よくこなす事によって金曜日はなるべく残業はしない様にして、そのまま朝のうちに駅のコインロッカーに入れていた泊まり用の荷物を持って、新幹線で東京へ出て、彼のマンションへと足を運ぶ。合鍵はこうした仲になってからすぐに手渡されていたのでその合鍵でオートロックの鍵を開けたところで、マンション内に共同のゴミ捨て場があるためゴミ捨てにでも出てきていたのか、こんな中途半端な時間なのに井戸端会議をしていた同じマンションの奥様集団が声を掛けてくる。
「あら、義経さんの奥様、こんばんは。この週末はこちらで過ごされるの?」
「あ、はい…皆様、今晩は。その、光さん…夫…が、いつもお世話になっております」
 若菜は礼儀正しく挨拶を返す。このマンションで初めて彼女が義経と一緒にいた所を見られた時、彼らの仲が公認ということになっている上、それを知らない住人にも彼が何の悪びれもないどころか本気で『僕の妻です』と言い切った事で、籍を入れていない事はばれているため、個々の住人からは彼女は揶揄も含まれて『奥様』と呼ばれている。とはいえ本来なら二人ともすぐに籍を入れたいのだ。それなのに入れられない理由は、お互い一人っ子の上お互いの親同士が『うちがそちらに娘を嫁に出すのが本筋です』『いいえ、息子を道場に預けた時点でもううちは断絶したと思っていますから息子こそそちらの婿に』と強硬に譲り合っていて、二人の意志とは裏腹にどちらの姓にするかが未だに決められないためである。それでも義経が話がつけばすぐに籍を入れるのだから形式がどうなどは関係なく、若菜は自分の女房だと本気で言ってその通りに接してくれているのが分かるので、彼女はここではその想いを受け取り、控えめにだが彼の『妻』として振る舞っている。そんな彼女に奥様一同は畳み掛ける様に口々に言葉を掛けていく。
「単身赴任も大変でしょう。それに帰った時に奥様がいないなんて、義経さんも寂しいんじゃなくって?」
「旦那様、一軍定着してらっしゃる上成績もよろしいプロ野球選手でしょう?経済的には何の問題もないのでしょうし、お仕事お辞めになって主婦として旦那様を支えた方がきっとよろしいわよ?」
「旦那様は華やかな職業ですし、まだ内縁状態でしたわよね?こんな暮らし方をなさっていらしたら浮気されて捨てられても、何も言えないでしょう?」
 彼女達の勝手な了見で自分達の暮らし方にあれこれ言う彼女達に若菜は不快感があるのだが、彼女の住んでいる大分新しい人間が増えて昔ほど強くはないが、それでもまだ地域内のつながりが強い小田原という土地柄と、そうした土地柄故、近所づきあいは大切にする様にという育てられ方を彼女はされているため、その教えに従い付き合いは壊さない程度にそつなく、しかし彼女達の意見に対してやんわりと反論する。
「…はい、夫にとってもそちらの方がいい事なのかもしれません。でも、夫は自分のために私が折角今まで頑張ってきた仕事を犠牲にしてまで尽くすのは辛いと言ってくれているので…それに甘えさせてもらっているのです。それに夫は何でも気がつけば自分でしてしまうし、オフも含めて普段飛び回っているのもあって、私の出る幕がなくて。かといって家事をすべて受け持って趣味で時間を埋めるのにも限りがありますし。外で働かないと私はする事がほぼ何もなくなってしまうのです。ですから、もちろん仕事は精一杯やっておりますけど、お互いとしては私が家庭で暇を持て余さない様にあえて『働かせてもらっている』という感じなのです」
「…」
 若菜の言葉に奥様一同は何も言えなくなった。それでも一瞬の沈黙の後更に淫靡な揶揄がこもった言葉をかける。
「…まあ、本当に仲のよろしいこと。義経さん、あなたを本当に愛していらっしゃるのね」
「でもこうしていつも離れているお二人ですものね。きっと一緒にいらっしゃる時は片時も離れないのでしょうね」
「それに夜も…ね?ふふ」
 奥様集団の想像力たくましい話口にやはり不快感を多少持ちながらも、若菜はそれを見せず、にっこり微笑んで柔らかな雰囲気のまま言葉を返す。
「それはどうとでも…では失礼いたします」
 そうして微笑みながら一礼してエレベーターに乗り、義経の部屋の階のボタンを押すと、若菜はため息をついた。
『よくあの人達が『こちらと違ってお二人の地元の人付き合いは、郊外な分遠慮がなくて下世話でしょう』って、何となく私達の地元が田舎だって馬鹿にした感じで言うけど…渋民の皆とか小田原の皆の方が同じ話であけっぴろげで乱暴だったとしても、その場だけで後引かなくてさっぱりしてるし気持ちがあったかいのが伝わって来るわよ。よっぽどこっちの方が言葉が丁寧な分生々しいし、何だか嫌らしい方向で探られてるみたいで余計に下世話だわ』
 そんな事を思いながら義経の部屋へ行き、ナイターでいない事が分かっているので部屋の鍵を開け、中に入って電気をつけ、いつもの様に寝室に荷物を置いた後キッチンに行くと、やはりいつもの様に彼が試合に行く前に作ってくれた若菜の夕飯と、彼女宛ての短い手紙が置いてあった。

――お帰り、仕事お疲れ様。この夕飯を温めて食べて、俺が帰るまでゆっくり休んで待っていてくれ。汁物は俺も帰ったら食べるから残しておいて欲しい。それからいつも通りその汁物は味付けをしていないから、どう味付けるかはあなたに任せる――

「…いつもありがとう、光さん」
 義経の心のこもった手紙と夕飯に、仕事の疲れも今までの不快感も和らぎ、代わりに嬉しさが湧き上がって若菜は微笑む。こうして部屋に通う様になった最初の頃、元々食が細い彼女が夕飯を食べずに小田原から東京へ来ているだけでなく、彼が特にナイターの時は彼の料理の段取りもあるから勝手に冷蔵庫の食材も使えないし、と気を遣って彼を待った末、帰ってきた彼に合わせた夕飯を作り少ししか食べなかったせいで、一時元々華奢な程細い身体が更にやつれてしまったので、心配になった彼は考えた末デーゲームの日に彼女が来る時は調理に使って欲しい食材を、ナイターの日にはこうして自らが夕飯を作り仕上げをどうして欲しいかを手紙に書いて、彼女が夕飯をきちんと食べられるように気遣ってくれる様になった。その思いやりが嬉しいと思い、彼女はそれに甘えて彼のために言われた食材と、それだけでは足りないものを適切に買い足して夕飯を作って彼の帰りを待ったり、彼が作ってくれた夕飯を食べたりしていた。また、そうしてデーゲームの時はもちろん一緒に彼女が作った夕飯をとるのだが、ナイターの時も彼は帰ってからの夜食に汁物は色々手を加えて口にしていて、彼女も一緒に少し口をつけるので、彼も大方は自分が作ったとしても自分が食べる一品くらいは彼女の手料理が食べたいのか、汁物だけは彼女に味付けを任せている。彼女は鍋の中の汁物の具材と冷蔵庫の中の食材や棚の調味料を確かめ、いつもの様に彼が食べたい物を推理する。
「具は人参と、大根と、ぶつ切りのおねぎと…冷蔵庫にとき卵の残りがある…だとすると光さんが今日帰ってから食べたいのは和風か中華…かしら。で、合成だしで今あるのは…買いたてのかつおだしの素に、中華スープの素はほとんどない…光さんうっかり足りない物を片方だけしか買わないって事はあんまりないから、私にも分かる様にわざと買わなかったのかしら…じゃあ和風でお雑煮かおうどんか、すいとんとか…だとすると光さんも私もおねぎをくたくたに煮たのが好きだから、おだしの素入れてもう少し煮た後、おすましでいいかな」
 予想が当たれば本当に幸せそうな笑顔を見せてくれるし、外れても『次は絶対に当ててもらうからな』と悪戯っぽく微笑む彼の反応が嬉しく、どちらの笑顔になるだろうと自分も笑顔になりながら若菜は粉末合成だしを入れねぎが柔らかくとろける少し前まで煮て火を止めると塩と醤油で味付けをして、その間に彼が作ってくれた自分の好物の厚揚げの卵とじを電子レンジで温め直し、できた澄まし汁と炊きたてになっていたご飯を自分用の汁椀とお茶碗によそって、やはり彼が作ってくれていたほうれん草のごまあえと共にキッチンのテーブルに並べ、彼がこの場にいない事が少し寂しいと思いつつも、その代わり彼の想いが充分込められた事が分かるこの献立を、ゆっくりと口にする。相変わらず自分の好みぴったりの味付けになっているおいしい彼の手料理。彼女は嬉しさと寂しさに足して、味覚がぴったり合う事に関しての相反する感情が同居する複雑な感情でその手料理を味わう。
「東北と関東…味付けで相当対立するかと思ってたけど、それは運がよかったかな。…でも、ちょっとくらいは味付けで喧嘩っていうのも…してみたかったかも」
 そう、付き合い始めた当初から義経は外食では若菜の好みの料理を頼んでいた上、彼女の前ではいつも何を食べても『おいしい』と言うばかりだったので、彼は自分に気を遣っているのかと思っていたのだが、改めて彼の母に彼の家の料理や彼の好物を教わってみると、食べ物や味付けの好みはほとんどが誤差程度の微妙なさじ加減の差で、だしの取り方からみその種類さえ一緒。正反対の味付けや調理法の料理も多少はあったが、それすらお互いに本心から『どちらもおいしいから他の料理とのバランスでどちらも作れると幅が広がるし、覚えよう』となってお互いのレパートリーに加えてしまい問題にならなかったので、食の対立で仲が悪くなる事もある微妙な男女の仲は、あっさり乗り越えてしまった。それに『東京にいる時は遠征もあるし、いちいち最初からだしを取っていたら鰹節や昆布は使いきれずもったいない』という事で合成だしを使っているため更に問題がなく、全く二人とも食に関しての問題で…いや、お茶のいれ方でも洗濯の方法でも掃除の方法でも、お互いの違いを受け入れてよりよい方法を選択して…つまり行動全般で多少の言い合いはあっても、喧嘩らしい喧嘩はした事がない。食に関しては親友二人と話した事があり、お互い駄目な物もあるが、それ以外は割合何でもこだわりなく食べていると言っていた三太郎と付き合っている弥生はともかく、食に関してこだわりというより好き嫌いが結構あるらしい土井垣と付き合っている葉月は、東西ほぼ両端とはいえ同じ神奈川の上、彼女自身のレパートリーもかなり広いというのにそれ以上に食に関して相違があって、付き合い出した当初肉じゃが一品からですら大喧嘩をしたそうで、その話を彼女から聞いた若菜は驚き、こちらも自分の話を返すと、葉月も二人の味覚の一致に驚いていた。葉月は『食べ物の好みとか味付けの好みとかがそんなにぴったりなんて、相性最高じゃない。羨ましいな』と心から羨ましそうに言っていたが、若菜は葉月こそが羨ましいと思っていた。自分も彼もお互い意味のない事でむやみに争ったり喧嘩をする事が嫌いだし、彼が自分を心から大切にしてくれている事も充分分かる。それに喧嘩というのはすると心が辛いものでもある。それでも親友二人と他愛もないものから深刻なものまで数多くの喧嘩をして今の仲を作ってきた(と彼女は思っているが、実際は大半の喧嘩においての当事者は葉月と弥生であり、彼女は仲裁者であったのだが)その道のりを考えると、喧嘩ができるというのはその分お互いの正直な面を出している証拠にも思えるので、喧嘩らしい喧嘩をした事がない自分達は、心も身体も繋がっていると思っているけれど本当の意味で通じ合ってはいないのではないか、とほんの少し寂しく思う事があるのだ。そんなほんの少しの寂しさを感じながら彼女は食事を口にしていった――