「監督、この間宮田さんに頼んでおいた料理についての資料、もらえましたか」
それより少し後の、スターズの勝利に終わった試合のミーティング後、義経は土井垣づてで葉月に頼んでいた若菜の好物のレシピが届いたか土井垣に確認する。土井垣は持っていたバッグから綺麗にファイリングされたレシピを差し出しながら義経に言葉をかける。
「ああ、そうだった。…ほら、これだ。レシピは大体が本のコピーだが、加えてポイントを分かりやすく書いておいたからこれを読めば細かい作り方もすぐ分かるだろうと言っていた。…しかし義経、甘いものが苦手とはいえ、菓子まで自分で作るとはまめだなお前も」
「それは…?」
「いや、お前らがどういう料理交流をするのか興味が出たから、中身を俺もざっと読んだんだが、一割位菓子の作り方が入っているぞ。…おい、元々このレシピはお前が頼んだのに、何鳩が豆鉄砲を喰らった様な顔をしているんだ」
「ええと、その…」
土井垣には『最近食事の献立が決まってしまって飽きたので料理の幅を広げたいから、レパートリーが広い葉月にレシピをもらいたい』としか言っていない。一応その場で連絡を取ってもらった葉月にもほぼ同じ言葉で頼んだのだが、彼女は二人の暮らしについても知っているのでちゃんと裏の意味を理解して、若菜の好物や好みの味付けについてのレシピを渡すと言ってくれていた。弥生にも本当は頼みたかったのだが、彼女のつては勘がいい上何かと自分達の事を誇張して茶化す三太郎だ。下手に若菜の好物を習得しようとしている事がばれたら、どんな話に発展するか分かったものではない。故にこういう事にはいい意味でも悪い意味でも自覚はないが男女の機微に疎い(と義経は考えているがいい加減自分も疎い事には気付いていない)土井垣のつてが頼りなのだが、まさかこうした形で疑問を持たれるとは予想外だった。
「どうした?義つ…ぐぇっ!」
言葉を濁している義経を不思議そうに眺めている土井垣の後ろから、彼らの会話を聞いていたらしい三太郎と里中が土井垣の首に腕を回してぶら下がる様な形で後ろから義経に声をかける。
「義経~料理開拓とは熱心な事で~」
「別にいいだろう。料理とはかつて伊達政宗も凝ったという創造的なものだ。それにできて悪いものではないだろうが」
「ふ~ん?…ところでちょいそのレシピノート見せて下さい土井垣さん」
「それはいいが…たのむから、うでを…はなせ…くび…が…しまる」
「あ~はいはいすいませ~ん。じゃあちょいと拝借……あ~、やっぱりじゃん」
「やっぱそうだったか?」
「ああ、大当たりだぜ」
「…何がだ」
(結果的にかけた形になった)チョークスリーパーを外し、土井垣が渡したレシピファイルを読みながら意味ありげににやにや笑って話している里中と三太郎の様子に、義経は虫の居所が悪くなり無愛想に言葉を返すと、里中がにやにや笑いなが口を開く。
「おやつにも向いてるほっくり煮るか蒸したかぼちゃに…人参と大根のぬたに…洋風の物はだしかコンソメスープに酒と醤油で煮てかんぴょうで縛ったロールキャベツに…お菓子はみつから作った黒みつときな粉かけた白玉か葛餅っと。…ちょっと見義経好みの年配向けに見えるけど、このレシピ、若菜ちゃんがちっちゃい頃から大好きなものばっかりだ」
「な…!里中!お前が何故それを!」
思わず赤面して口を滑らせた義経に、里中と三太郎はにやにや笑いながら更に言葉を畳み掛ける。
「俺が保育園行ってた頃、乳児保育と延長保育できる保育園が近くに一つしかないって事で、俺おんなじ様な生活環境の葉月ちゃんと若菜ちゃんと一緒の保育園だったんだよ。保育園は給食だし、葉月ちゃんと若菜ちゃんが小学校一緒だった2~3年位までだけど、そっから葉月ちゃん通して若菜ちゃんともそこそこ仲良くやってたから、お互いの家で遊んでおやつ食べたりだけじゃなくって、たまに一緒に食事とかもしてたの。葉月ちゃんもそうだけど、それ以上にその頃から葉月ちゃんのおばあちゃんとか彼女のおばあちゃんの手料理食べてたせいか、彼女結構味覚が大人の所があってさ。んで最近付き合い再開してから何度か皆で食事してた時に見てて分かったけど、味覚とか食べ物の好みはキャパが広がっただけで、軸は昔と今、ほとんど変わってないみたいだしな。つまり俺もこれが好物だって知ってる位って事は、このレシピは若菜ちゃんのその頃からの筋金入りの大好物って事なんだな、これが」
「愛だねぇ義経~惚れてる女のために、その女の好物を習得しようなんて」
「…悪いか。好きな相手の好きな料理を作るというのは女性のする事、とかいう古臭い事を俺は言わんからな」
「あ、開き直りやがった」
「んな事言ってるんだったら、ぐだぐだ言い訳しながらこっそりじゃなくって堂々とやれっての。そういう事ばっかりするから、お前みんなからムッツリスケベって言われるんだぜ?」
「ムッ…!…お~ま~え~ら~!」
羞恥心の限界を超え殴りかかろうとする義経を避けながら、里中と三太郎はレシピファイルを掲げてからかう様に言葉を紡いでいく。
「『料理は愛情』って昔CMかなんかで言ってたけど、若菜ちゃんのために彼女好みの料理のレパートリー増やすなんて、ホント義経は愛情たっぷりの男だよな~?」
「『胃袋を掴めばその人の心を掴んだのと同じ』っても言うよな~?姫さんはもちろんだけど、むしろ二つの意味で義経の方が、がっちり姫さんに胃袋掴まれてんじゃん」
「やかましい!それを返せ!」
じゃれあっている(というには義経がかなり殺気立っているが)三人を苦笑して見つめながら、土井垣は『俺も義経の様にしないと、葉月をさらわれてしまうかもな…』と料理上手な上、体調に合わせたものまで微に入り細に入った葉月の食べ物の好みを子どもの頃からの付き合いで熟知している手ごわい『ライバル』を思い、ため息をついた――
「…光さん?」
義経を待ちながらお茶のための湯も沸かし、テレビ放送していた彼の試合もちゃんと観た後、若菜が一息お茶を飲んでいると、オートロックのドア側のチャイム音がする。義経は鍵があるのに何故かいつも自分に入口のオートロックのドア(と部屋のチェーンロック)を開けさせるのだ。九割がたこの時間なら彼だと確信しているが、念のため部屋のインターホンの防犯モニターは使い方を彼が教えてくれないせいもありうまく使えないので受話器のみを使って確認で問いかける。実は初めて彼女が出迎えた時からのこの初々しい反応が可愛くて嬉しくて仕方がないので、義経はわざと使い方を詳しく教えないで開けさせているのだが。それはともかく、受話器からは『ああ、俺だ。ただいま。こことチェーンロックを開けてくれないか』と返ってくる。その声と話し方で彼だとすぐ分かるので彼女は『はい』という返事をした後、オートロックのドアを開け、チェーンを外す。しばらくドアの前で待っていると、カチャリという静かにドアノブが回る音とともにやはり静かに彼が微笑みながら部屋に入ってくる。その微笑みに返す様に彼女も微笑んで『お帰りなさい。それから、お疲れ様。勝ってよかった』と言葉をかける。その言葉に彼は更に微笑んで彼女を抱き締めると『ありがとう…ただいま』と囁きかける。その暖かくて広い胸に顔を埋めている自分を感じて何となく気恥かしさもあるが、それ以上に嬉しくてそのまましばらく抱き締められるままになっていた。そうしてしばらく後に身体を離すと彼は鍵をしめ、バッグをやはり寝室に置き、洗濯物をランドリーボックスに入れた後彼女に声をかける。
「それで…帰ってすぐで夜食もなんなんだが、今日の汁物の味付けはどうしてくれたんだ?」
義経の問いに、若菜は出されたクイズの答えを言う様に、少しためらいがちに答える。
「えっと…具とだしの素の量で考えて普通のお澄ましにしちゃったんだけど…それでよかった?」
若菜の言葉に義経は心から嬉しそうな笑顔を見せた。
「大当たりだ。冷蔵庫に卵とじで余ったとき卵があるだろう?あれにすまし汁を合わせて雑煮が食べたいと思っていたんだ。…ありがとう。最近外れなしだな」
「そうだったかしら…」
「ああ。ここ二ヶ月はずっとその時俺が欲しい味付けをちゃんとしてくれている」
義経の心から幸せそうな笑顔が嬉しくて幸せで、でも彼の予想を外せないくらい一体感を持ってしまっている自分に気づいて、もしいつか別れる事があったらこの一体感の幸福の分、身を切るくらい苦しい事になるんだと無意識に気づいていたから、味覚の一体感に対する寂しさを感じていたんだと分かって――その胸の痛みのままの表情を見せているらしい自分に気づいた彼が『…どうした?』と問いかけてきたのに気づいて、若菜ははっと気付くと、取り成す様ににっこり微笑んで言葉を返す。
「え?…何でもないわ。ごめんなさい。じゃあ、お餅焼かないと。軽くだから一つよね?」
「ああ。…そうだ、あなたはどうする?」
「ちょっと食べたいけど…一つでも私は食べ過ぎになっちゃうから」
若菜の言葉に義経は呆れた様な、でも愛と優しさは充分伝わる口調で言葉を返す。
「あなたの場合は、まだ体型を気にするには余裕がありすぎるぞ」
「そうじゃなくって…この時間に下手に食べると朝胃がもたれるの」
「ああ、そういう事か。…だったら、その…俺のを一口分けるか」
「あ…じゃあ…そうして」
二人はお互いの言葉に照れくさくなりながらも更に言葉を交わす。
「じゃあ俺は明日の試合の準備をしているから、その間に作ってもらえるか」
「はい」
そうして義経が翌日の試合の支度をして部屋着に着替えている間に若菜は餅を焼いて残った汁を温めた中に入れ、最後に冷蔵庫に入っていたとき卵を流しいれてかき玉にし簡単な雑煮を作る。入れてみると丁度雑煮用の大きめの汁椀にぴったり注ぎきる量で、相変わらず彼の食事を作る量の絶妙さに感心しながらキッチンにお茶とともに用意して彼の席の前の椅子に座ったところで丁度彼が部屋着に着替えてキッチンにやって来て、また心底幸せそうにふっと笑う。
「…相変わらず、出来上がるタイミングまで丁度ぴったりだ」
「…そう?」
「ああ」
「…そう」
「?」
若菜は先刻の胸の痛みをまた感じ、寂しく微笑む。その微笑みを見て義経は怪訝そうな表情を見せていた。それに気づいて彼女はまた宥める様な微笑みに変えると言葉をかける。
「ああ、ごめんなさい。とりあえずどうぞ」
「ああ、じゃあいただきます。…ふむ、相変わらずおいしい。ねぎもちょうどいい甘さに溶けているし」
「そう?でもこのおねぎ自体も本当においしいわ。こんないい品置くなんてここの八百屋さん、うちの傍と同じ位いい所よね」
「確かに、若菜さんの家の傍の八百屋も一緒に買い物に行ったら品がよかったな。お店のおやじさんもここのおやじさんと一緒でいい方だったし」
「そうね。こんないい品だもの。一味足すのにお浸しにもできる三つ葉でも買い足せばよかったかしら」
「まあそこまでこだわらなくても。…でも添えられる物というと、部屋で作れるかいわれとかな」
「ああ、それもいいわね。味が反発するから玉子入れた時は好き嫌い分かれるけど、それがなければ香りづけに柚子の皮をちょっとだけとかもいいのよ。皮をむいた後の絞り汁もレモンみたいに使えるから、香りが嫌じゃなければレモンと同じ様にお菓子の香りづけとか、お湯とはちみつを足して簡単な飲み物にもなるし」
「確かに、それもおいしそうだ。冬のオフになった頃が柚子はいいものが手に入るから、修行に出る前にでも作って欲しいな」
「…そうね」
「…どうした?何だかずっと沈んでいる様だが」
「ううん、大丈夫…さっきから言っているけど…何でもないの」
「そうか…ならいいが。…そうだ、ほら」
「え?」
不意に義経が立ち上がり、汁椀とともに餅を彼女の眼の前に箸で取り出して差し出したので不思議に思い首を傾げると、彼は照れ臭そうにぼそりと呟く。
「さっき…『一口なら食べる』と言っただろう。ちょうどいい具合に汁が染みているから…どうぞ、食べなさい」
「…ええと…このまま?」
「…嫌か?」
「…ううん…ありがとう」
若菜は少し恥ずかしかったが、彼が促すままに彼の手づから餅にかぶりつき一口噛み切って食べる。彼の言う通り程よく汁が染みた甘辛い味。味わって飲み下した後『…おいしい』と呟くと、彼は『あなたが仕上げたものだぞ』と呆れた口調だが、心底嬉しそうな微笑を見せ更に『これくらいなら…いいだろう』とねぎも箸で差し出して食べさせる。やはり汁が染みていて、甘くとろけるが、同時にほんの少し辛くてほろ苦いこの味達が自分の心を表わしている様な気がして、胸の痛みが増してきて――