「…結局、私も、殿馬さんも留学はしなかったんですよね」
「そうづらな…俺はあの曲を完成させるために野球を続けたづらから留学をしなかったづらが、おめぇは何で留学をやめたづら?俺の言った事だけであの頃のおめぇがやめるとは思わねぇづらが…」
殿馬の問いに、葉月はにっこり微笑んで答える。
「…簡単な事をまず言うと、あの頃の私には、一人で留学に耐えられる位の体力はもう残っていませんでしたから…先生達は何とか留学させようとしていたみたいですが、両親がきちんとその辺りを分かって説得してくれましたし。それに何よりあの頃の私は、歌より部活の方が楽しかったんです。人形を動かしたり、紙芝居や絵話や手遊び、歌遊びを小さなお友達…つまり子ども達と一緒に楽しんで、そんな皆の笑顔を見て、自分も笑っている…そんな嬉しい事をやめてまで留学する気にはとてもなれなかっただけです」
「…そうづらか」
「はい。でも、今こうして歌っていると、その選択は間違ってなかったって思います。あの時留学していたら、きっと私はプロになったとしても歌の再生機械のままで、その事で結局はいつか心が壊れてしまったと思います。でも留学しないで本当にその時やりたかった事を続けて、本格的な音楽はその後身体の事もあって止めた事で、私の本当の音楽を取り戻せた…と自分では思ってます。趣味になりましたからその分下手になりましたけど、その分私にとっては今の歌が心も、命も込められる私の本物の歌なんです」
そう言ってにっこり微笑む葉月を殿馬は一瞥すると、さらりと言葉を零す。
「…そんな事ねぇづら」
「…はい?」
「…おめぇ、下手になんかなってねぇづら。それどころか、歌に命と心が入った分、腕が上がってるづら…これがおめぇの本当の歌なんづらな。拍手なんざ空々しいくれぇ…いい歌だったづらぜ」
「…そうですか?」
「そうづら」
「…そうですか」
そう言うと二人は沈黙する。しばらくの沈黙の後、ふっと殿馬がまた言葉を出す。
「あんな事言っておいてなんづらが…今のおめぇの歌とだと…一遍俺のピアノと合わせてみてぇづら。どんな音楽が飛び出すか分からねぇおもちゃ箱みてぇで、ちょっと楽しみづらぜ」
殿馬の言葉に、葉月は恥ずかしそうに微笑むと、ぽつり、ぽつりとその言葉に応える。
「私こそ、殿馬さんのピアノで歌ってみたいです…一つだけお願いがあるんですが」
「何づらか?」
「すごい…わがままかもしれませんが…私の本当の音楽を取り戻させてくれた『仲間』と一緒に…殿馬さんのピアノで歌わせて欲しいんですが…駄目ですか?」
葉月の言葉に殿馬は即答する。
「一緒が当然づら。俺が明訓の奴らや今はスターズの奴らとやってる野球が俺の野球づらと同じ様に、おめぇと『仲間』でおめぇの歌なんづらって、あれを聴けば俺も分かるづらからな」
「ありがとうございます」
「じゃあ俺は行くづら。今の件は監督通してまた話すづら」
そう言うと殿馬は踵を返して飄々と去っていく。葉月はそれを微笑んで見送ると、片付けを手伝うため、無意識に過去を解放する様にドアを開け、ホールへ入って行った――
「おい殿馬、どこに行ってたんだよ」
問いかける里中に殿馬は飄々と答える。
「過去の清算と、未来の構築に行ってたづら」
「…?…」
訳が分からず一同は首を傾げる。殿馬は飄々としたまま歩き出す。
「飲みに行くづんづら?早く行こうづらぜ。…監督とちっと話してぇ事もあるづらし」
「あ、ああ…じゃあ行くか」
飄々としながらも心なしか機嫌のいい殿馬に釣られて一同は歩き出す。そんな一同をあの日と同じく、夕焼けが包んでいた――