翌日、瑛理は六花子の『朝よ、ご飯ができてるから起きなさい』という言葉で目を覚ました。
「ん~…」
 まだ少し眠気が取れていない状況で目をこすっていると、葉月が雪見障子を開けて朝日を入れる。その光で瑛理ははっきりと目を覚ました。見ると、もう着替えた葉月がにっこり笑って声を掛けてくる。
「おはよう、瑛理さん。よく眠れたみたいね」
「ああ…はい、葉月さん。お布団が気持ちよくって、よく眠れました」
「そう、良かった」
 よく見回すと弥生がいない。瑛理は葉月に問い掛ける。
「ヒナさんは?」
「今顔洗ってるわ。今の内に着替えて、瑛理さんも顔洗うといいわ。そうしたらご飯よ」
 瑛理の事情をそれとなく不知火から聞いていたのだろうか、葉月は気を遣う様にそう言葉を掛けると、障子と入口の襖を閉め、出て行った。瑛理はその気遣いに感謝してさっと着替えると洗面所で顔を洗い、隣り合わせた台所へ行く。そこにはご飯と味噌汁と目玉焼きが用意されていた。六花子はにっこり笑って口を開く。
「さあ、簡単だけどしっかり食べてね。一日観光って事は歩きでしょ?」
「うん、市街地は車使えないから歩きになるか。本当は自転車が一番いいんだけどね。鴨宮とか栢山まで遠出もできるし…」
「まあ市街地だけでも一日潰せるんじゃないの?見所は色々あるでしょ」
「そうだね…おっと早く食べないと柊達が来ちゃう。食べよ?ヒナ、瑛理さん」
「うん。おばさん、いただきます」
「いただきま~す」
 そう言うとまず瑛理は豆腐とわかめの味噌汁に手を付ける。温かく、おいしい味噌汁に瑛理は感嘆の声をあげる。
「おいしいです~!」
 瑛理の感嘆の言葉に、葉月はにっこり笑って言葉を紡ぐ。
「でしょ?ついでにちょっとだけ。お豆腐だけ食べてみて。ヒナも」
「うん…うそ、お汁はもちろんだけど、お豆腐だけでもいけるじゃん!」
「こんなにおいしいお豆腐、珍しいです」
「でしょ?ここのお豆腐食べたら、他のお豆腐は中々口に合わなくなるわ。美月ちゃんもね、離乳食ではスーパーのお豆腐より、このお豆腐がお気に入りなのよ。食べる勢いが違うってお姉ちゃんも認めてるわ」
「あ~買って帰りたい!はーちゃん、お店案内して!」
「う~ん、お店はここのすぐ傍だけど…今日休店日で、スーパーにも品卸さないのよね~」
「そっか…残念」
 残念そうに言葉を紡ぐ弥生に、六花子がにっこり笑って言葉を紡ぐ。
「大丈夫。お土産にって思って、お豆腐じゃないけどがんもどき二人に買ってあるわ」
「ホントですか?」
「ありがとうございます!」
「がんもの種類は煮ないで生でも食べられるもの選んだから、食べるのに手間もないわ。少しフライパンかオーブントースターで焼いておしょうゆで食べると、煮るのとは違ってまたおいしいのよ」
 六花子の言葉に、葉月が感服した様に手を叩いて言葉を紡ぐ。
「お母さん…お見事」
「あんたの考える事くらいお見通し。それに、伊豆谷のお豆腐のファンは増やしたいしね、私も…さあ、早く食べて出かける支度しなさい。いつまでも台所占領してたら、お父さんがお腹すかせて待ちくたびれちゃうわ」
「そういえばお父さんは?」
「スポーツ新聞買いに、駅まで行ってるわ。ついでにコンビニで暇つぶししてくるって言ってたから、帰ってくるまでに食べちゃいなさい」
「うん、分かった」
「は~い」
 三人は朝食を食べると、着替えなどは一旦残して出かける支度をする。そうして9時ごろ、呼び鈴が鳴って、柊司達が訪れた。
「おはようございます、おばさん、おじさん。皆もおはよう」
「おはよ、柊。将さんも犬飼さんも微笑さんも、おはようございます」
「おはようございます~守さん」
「おはよう、三太郎君」
「おはよう、葉月、朝霞さん、瑛理ちゃん」
「おはよう、瑛理、宮田さん、朝霞さん」
「おはよ、弥生さん、宮田さんに盾野さん」
「おはよう。宮田、盾野、朝霞」
「じゃあ皆、行くか」
「そだね。じゃあ行ってくるね、お父さん、お母さん」
「いってらっしゃい」
「楽しんでおいで」
「は~い」
 一同が葉月の家を出ると、小次郎が葉月をからかう様に言葉を紡ぐ。
「そういや、今朝は大変だったんだぜ?土井垣が御館さんのお袋さんに責められてよ」
「…っていうかあれは完全に俺に対するあてつけだったろ。土井垣、悪かったな」
「ああ、いえ…いいんです。事実ですし」
 三人の言葉に葉月は不思議そうに問い掛ける。
「何かあったんですか?」
 葉月の問いに、三太郎と不知火がおかしそうに答える。
「いや、朝飯食べてたら、御館さんのお袋さんが『こんなむさくるしい集団じゃなくって、たまには可愛い女の子でも連れてくればいいのに…ほら、葉月ちゃんとか前良く泊まりに来てたじゃない。連れて来なさいよ』って言ってね」
「御館さんが『葉月はここにいる土井垣の許婚なんだから、うちに連れては来れないだろ』って返したら、『だって、ずっと結婚延期してる様な人じゃない。こんな不誠実な人には、葉月ちゃんはもったいないわ。取っちゃいなさいよ。まんざらでもないんでしょ』って来てな。御館さんも土井垣さんもいたたまれなくなってたんだ」
「おば様ったら…ごめんね、柊」
 申し訳なさそうに言葉を紡ぐ葉月の気持ちを汲み取り、柊司は自分の想いを抑えながら、葉月の頭を軽く叩き、言葉を紡ぐ。
「いいんだよ。お袋にとっちゃ、お前は5歳位で年齢が止まってんだよ。うちは兄貴の子ども含めて男所帯だから、尚更可愛い可愛い、娘みたいな女の子ってな。だからお前がまだ小さい頃に俺がお前を可愛がって、『お前を嫁さんにする』って言ってたのが頭に残っちまってるんだろうさ」
「そっか…」
 柊司の言葉に葉月は顔を赤らめる。それを見た土井垣は不機嫌そうに苦い顔を見せて、葉月を抱き寄せると口を開く。
「こら、葉月。よろめくな…駄目ですからね、御館さん。葉月は俺のです」
「将さん…」
 土井垣の言葉に、葉月は恥ずかしそうに更に顔を赤らめる。それを見て瑛理は何だか嬉しい気分になり、不知火と顔を見合わせて笑う。三太郎は楽しげににやにや笑いながらその光景を眺め、弥生は呆れた様に言葉を紡ぐ。
「はいはい、愁嘆場は後にして下さいね。とりあえず今は観光を楽しみましょう」
「そうだな…とりあえずどこに連れて行ってくれるんだ?」
 弥生の言葉に続けた小次郎の言葉に、葉月はぱっと土井垣から身体を離すと、考え込む様に言葉を紡ぐ。
「う~ん…とりあえずここの近所も回ります?色々ここもありますし」
「そうだな…まずは外からになっちまうが松永記念館と『山月』と古希庵でも見てもらうか」
「そだね」
 そう言うと葉月の案内でまずは道路を進み、ここも歴史的には有名だというお寺の傍にある瀟洒な建物を外から見せ「ここが松永記念館、松永耳庵って言う電力王のおうちだった所で、今でもお茶会とか色々展示会やったりしてます」と葉月が案内する。そこにある壁は『なまこ塀』と言って日本でも珍しい塀だという説明に一同は感心する。その後裏道を通って、葉月の家の通りにある坂を途中まで上り、正面向かいに立っている門をそれぞれ柊司が「こっちは『山月』って言って旧男爵邸で、今は旅館兼料亭だ。中が当時のままで史跡的価値もあるから、時たま中を公開してたりするな。で、こっちの門だけ残ってるのは古希庵って言って山縣有朋の別荘があったとこでな。この坂も地元民は『古希庵坂』って言ってるんだ。一見もう建物は取り壊されて保養所になってるが、奥に行くと『山縣水道』っていう当時は珍しい水道とその頃からの庭園が残ってる。ついでに言えばこの上上ると上には俺と葉月の出身中学の八幡中学があって、道沿いに行けば古城高校にも行けるし、陸上の瀬古が日本記録残した陸上競技場もあるぜ。行ってみるか?」と説明する。その言葉に一同は興味が湧き、行ってみたいと言葉を返したので、柊司と葉月はそのまま坂を上って上の道路を渡り、更に柊司が口を開く。
「そこに見えてんのが八幡中の入口だ」
 瑛理は祭りの時にここを通った事を思い出し、口を開く。
「そうなんですか~。あそこが葉月さんの通った中学だったんですね」
「うん、そう。ホントは陸上競技場含めて、春に来てもらうと、もっと楽しいんですけどね」
「何でだ?宮田」
 小次郎の問いに、葉月は更に口を開く。
「八幡中は、地元の間じゃ桜の名所って事で有名なんですよ。実際100本近く桜が植えられてて」
「そっか。陸上競技場とその上の慰霊塔も桜が一杯で、うちらそれ使って花見がてら部員勧誘活動してるもんね。春のこの辺は、確かに見所だわ」
 葉月の言葉に、弥生も同意する様に続ける。その言葉に不知火が感心した様に続ける。
「ふうん…それは見てみたいな」
「オープン戦時期か開幕時に二軍落ちすれば、割合簡単に見に来れますよ」
「そうだな。平塚ならこっから近いし小田原はイースタンなら試合やってたか。落ちるか?不知火」
「監督…冗談にしてはきつすぎます」
 葉月と小次郎のからかいに、不知火は苦い顔をして言葉を紡ぐ。それを見て瑛理と弥生と三太郎は笑う。土井垣も苦笑していたが、ふと思い出した様に言葉を紡ぐ。
「まあ、冗談抜きで小田原は初春から初夏にかけては花が見事らしいな。初春はここからは遠いが曾我の梅林があるし、春は今言った通り桜、特に春日局菩提寺の枝垂桜、少し遅れてさつきと御観の藤、初夏には菖蒲とお堀に蓮が咲く…だったな、葉月」
「はい。御観の藤は今元気ないらしいですが、他は当たりです。『梅か桜か御観の藤か、あの娘かわいや小田原育ち、人の噂の中に立つ』って歌もあるくらいで」
「あ~懐かしい!『小田原小唄』!踊らされたわ~体育祭で」
「まあ、小田原じゃ盆踊りの定番だからな。俺なんか小学校の陸上記録会でも踊ったぜ」
「へえ…そんな盆踊りがあるのか」
「はい。じゃあそのもう一つの桜の名所に行ってみますか」
 そう言うと葉月は一同を案内して道路を歩き、しばらく行った側道にそれ、道路を歩きながら見えるグラウンドを指差して口を開く。
「はい、ここが私とヒナと柊の出身高校、古城高校のグラウンドです」
「あ~、こういうルートもあるのか~。前回来た時とは違う新発見だぜ」
「そういえばはーちゃん、雨の日はこっち回ってたよね」
 三太郎と弥生の言葉に、葉月がにっこり笑って言葉を返す。
「そう、駅回りしてたのは小田原で本とか買うのに便利だったからだし。公立の進学校だしこういう立地条件だから、この高校選んだって言うのもあるの。でも校風と何より演研の存在が大きかったけどね。公演見て一目惚れだったから」
「ま、な。進学だけ考えりゃ、私学だが色んな制度がある隣の東郷選んでもいいもんな。実際智は学費免除制度も考えて、中学までは特待生で東郷通ってたんだし」
「でもね~…東郷には『有名な噂』があるのよね~」
「そうそう」
「おい、その話は止めとけ…ってかこっちも向こうから言われてんだろうが」
 弥生と葉月と柊司の古城OB三人組の会話が不思議に思えて、瑛理と三太郎と小次郎がそれぞれ口を開く。
「何ですか?その噂って」
「気になる言い方するなよ、弥生さん」
「黙ってるなんて水臭いぜ。話せよ」
 三人の言葉に、弥生がくすりと笑いながら、説明する様に言葉を紡ぐ。
「いえ、見れば分かるんですが、東郷の校舎のすぐ隣の土地に競輪場がありましてね。校舎からトラックが良く見える位置関係で。だから古城の生徒の間では、有名な噂なんですよ。『東郷の生徒は競輪開催日にはノートとシャーペンじゃなくって、新聞と赤鉛筆持ってる』って」
 弥生の言葉に、土井垣が呆れた様に言葉を紡ぐ。
「それは根も葉もない噂だろう…酷いな、君らは」
「いえ、その代わり東郷の人達には『古城の生徒はストレス溜まると競輪関係なく半鐘鳴らす』って言われてて」
「こっちは紛れもねぇ事実だからな…」
 苦笑して呟く柊司の言葉に、土井垣が不思議そうに問い掛ける。
「半鐘なんてあるんですか?」
 土井垣の問い掛けに、柊司は答える。
「それが、あるんだよ。OBが何を思ったか『鎮遠』の鐘を学校に寄付しててな。昔はチャイム代わりだったらしいが、今はお飾りになっててよ。ストレス溜まると生徒が鳴らしてストレス解消してんだ」
 柊司の言葉に、瑛理は不思議に思って問いかけ、小次郎は愕然とした風情で言葉を紡ぐ。
「何ですか?その『ちんえんのかね』って」
「…まさか、『まだ沈まぬや、定遠は』の定遠の片割れの鎮遠か?」
「当たりだ、犬飼」
「何でそんな由緒あるもんが、そこらの高校に転がってんだよ!」
「昔の古城のOBってのは、宮様とか結構社会で有名な人間が多いんだよ。そういう中でいた一人が鎮遠の廃船時に買って、寄付したらしい」
「しかもそれをストレス解消に叩くたぁ、罰当たりにも程があるぜ…」
 柊司と小次郎の会話が分からず、とはいえ小次郎には話しかけづらいので、瑛理は不知火に問い掛ける。
「あの~守さん。何で監督さん、あんなに驚いてるんですか?」
「いや…正直な所、俺も良く分からない。土井垣さん、分かりますか?」
 不知火の問いに、土井垣は丁寧に噛み砕いて説明する。
「『定遠』『鎮遠』というのは、日清戦争で日本が撃沈して拿捕した船でな。その後、『鎮遠』は日本海軍が使っていたんだよ。つまり、それだけ歴史的価値がある船という訳だ。確かにそんな価値のある物の遺品がこんな所にあって、使われているとは意外だったな」
「そうなんですか~色々すごいんですね。葉月さん達が通っていた高校って」
「まあ、無駄に歴史はあるから。旧制中学から数えると、100年ちょっと…か」
「そうだね。白梅さんと合併はしたけど、名前が残ったのは古城だしね」
「そうなんですか~」
「全く、罰当たりの集団だな、お前らは…」
 感心する瑛理とは裏腹に、小次郎はぶつぶつとまだ文句を言っている。それを苦笑して見詰めながら、更に陸上競技場と慰霊塔を案内し、もう一度道を戻ると山道を降り、更に競輪場を案内した後、お堀の方向へ向かい、石橋の所で藤棚を指して葉月が口を開く。
「はい、これが御観の藤です。今は花ないですし、咲いても元気ないですけど」
「そうか。ここにあったんだな。ほう、これか…」
 土井垣は感心した様に言葉を紡ぐ。更に歩いてお堀を指して葉月は言葉を紡ぐ。
「で、ここのお堀に蓮が咲くんです。説明はそこの看板に」
 そう言って指した看板を見て、三太郎が口を開く。
「へえ…、大昔に咲いていた蓮の種が発掘されて、それを咲かせたのか…すごいな」
「でしょ?三太郎君」
 三太郎の言葉に、弥生が楽しげに口を開く。と、小次郎が前方の門を指して問い掛ける。
「あの門は何だ?」
「ああ、あれは銅門…かな?前の市長の意向で、史跡がどんどん復活して。ちなみにあの校舎も市長の意向ですよ」
 そう言うと葉月は苦笑して後の建物を指す。そこにはお城と見まごう様な瓦葺の建物が建っていた。その言葉に瑛理は驚く。
「え?あの建物、学校なんですか!?」
「そう。元々あそこにあった小学校と、お城の敷地内にあった木造の小学校が合併する事になった時に、校舎建て替えてああなったの。前の市長、徹底して城下町作りしたがってね。その代わり、これから行く市民の憩い場だった動物園とかは嫌がられて寂れさせられて、何か嫌だったな」
「まあ、成人式の記念品に直筆の『愛』って一文字金箔でプリントしたテレホンカード贈る様なセンスの市長だぜ?市長の愛なんていらねぇから、俺速攻で使い切っちまった」
「ああ、一部で伝説の『愛のテレホンカード』ですか…」
 柊司の言葉に、弥生も苦笑して言葉を続ける。その言葉に、小次郎が頭を抱えて呟く。
「どんな市長だったんだか、知りたい様な知りたくない様な…」
「知らない方が身のためですよ…じゃあお城見がてら動物園行きましょうか」
 そう言うと葉月は一同を案内して階段を上り、立派な門を通ると、まず真っ直ぐに象の飼育場に向かい、象に向かって嬉しそうに声を掛ける。
「あ~ウメちゃん、元気だね~良かった~」
「うんうん。ウメコ~まだまだ元気でいなよ~」
 葉月に続いて弥生も声を掛ける。瑛理は驚いて声をあげる。
「こんな所に象がいるんですか?」
「ああ、もう50年以上いるぜ。確かおばさんが幼稚園だか小学校の時だよな、ウメコが来たの」
「そうそう。その時お母さん仕舞舞って歓迎したって、おばあちゃまが言ってた」
「象舎が狭くて、ちょっと可哀想なんだけどな。でも人懐っこくて市民に可愛がられてる象だぜ」
「そうなのか。で、名前がウメコ…か」
「ああ、小田原の梅から名前を取ったらしいな」
「で、昔はライオンとか、アシカとか、クマとかもいたんだよね~。で、この下にある遊園地にはコーヒーカップとか飛行塔とか観覧車があって、100円足らずで乗れてさ。小田原市民だけじゃなくって、真鶴のあたしも良く来たわ。この辺の住民の気軽なレジャー施設だったよね」
「へえ…すごい所だったんだな」
「…今はライオンもアシカもクマも死んじゃって、後はあそこのサル位しか目だった動物いなくなっちゃったし、遊園地も今残ってるのは豆汽車位ですけどね。それにこのウメコが死んじゃったら、ここの動物園はおしまい。なくなっちゃうんだよね…」
「葉月さん…」
 寂しそうな葉月の言葉に、瑛理は何も言えなくなる。と、土井垣が宥める様に引き寄せて言葉を紡ぐ。
「…でも、象はまだいるじゃないか。だからいつまでも元気でいてもらえるようにすればいい」
「そうだね…」
 柊司も葉月の頭を叩き、励ます様に言葉を掛ける。
「大丈夫だ。象の寿命をとっくに越えても元気に生きてんだぜ?ウメコは。100年だって生きるぜ、きっと」
「…ありがと、将さん、柊」
 二人の言葉に、葉月はにっこり笑う。瑛理は二人の想いに心が温まり、不知火の方を見て、にっこり笑う。不知火もふっと笑い返した。弥生と三太郎と小次郎も温かい目で見詰め、明るく盛り上げる様に弥生が口を開いた。
「じゃあ、お城の中入りましょうか」
「そうだな、でもいつ見ても立派な城だよな~これは北条時代から残ってんの?」
「ううん。戦後に江戸時代の城を再現したの。三太郎君も去年芝居で見たでしょ?本物は壊れちゃって維持もできないし、取り壊しになったって」
「ああ、そうだった」
「そうなのか…じゃあその城の中に入ってみるか」
 そう言うと一同は城の中に入り、中の資料館を見学した後、お昼になったので葉月と弥生の案内で小田原駅側に降り、魚屋直営の料理屋で食事をする。新鮮な魚料理に小次郎は大喜びだった。
「土佐の鰹もうめぇが、この金目鯛もうめぇな」
「ここは下の魚屋さん直営ですからね。干物やかまぼこが有名ですが、新鮮なお魚も小田原の名物ですよ」
「そうか。いいとこに来たな」
「良かった。喜んでもらえて」
 そう言うと葉月はにっこり笑う。そうしておいしい魚料理でお腹一杯にした後、今度は昨日も通ったお堀端をゆっくり歩きながら見学する。お堀にかかっている橋を見て、三太郎が問い掛ける。
「何でこの橋『学橋』なんて名前が付いてるんだ?」
 三太郎の問いに弥生がにっこり笑って説明する。
「さっきはーちゃんが言ったでしょ?ここに木造の小学校があったのよ。昔人口が多かった頃はそれだけじゃキャパが足りなくて、今建ってる小学校の前身と二校で生徒を受け入れて。その内市長の城下町計画で統合されて校舎は取り壊されちゃったけど、体育館とかが一部残ってるわ」
「そうなんだ」
「で、ここのお堀端通りもこれ全部桜並木でとっても綺麗で、お堀端にはさつきが咲いて、お堀とのコントラストが見事なんですよ」
「そうなのか…」
「じゃあそこを通って一番の名所、行きますか」
 そう言うと葉月は一同を案内して国道に出させると箱根側に戻る様に歩く。と、またお城の様な豪奢な建物が目に入って来た。その建物の前に行くと、葉月が口を開く。
「はい、ここが有名な『ういろう』の店です。ちなみに本当に名字も外郎って書いてういろうさんなんですよ」
「え?でもういろうって名古屋の名物だよな?」
 三太郎の言葉に、弥生が更に説明する。
「あれはお菓子。本当のういろうはここで売ってる薬なのよ。で、その苦さを隠すために作ったお菓子もういろうって言って、名古屋が名物にしたって言うのが経緯みたい。ういろうを売る口上は、歌舞伎十八番にもなってるわね。早口言葉連発の」
「ああ、あの『外郎売』のういろうはこれだったのか。知らなかった」
 弥生の言葉に土井垣が納得した様に頷く。葉月がさらに続ける。
「この建物建ったのは10年位前ですけど、多分建物はその口上通りに建て直したんでしょうね。この町並みだと妙に目立ちますが」
「ちなみにどっかとっつきにくい雰囲気だが…俺らでも買えるのか?その薬のういろうは」
「いいえ、一見さんや持病がある方には売らないんですよ。まあ裏道はありますが。欲しいですか?」
「そうだな…土産に欲しいかもな。でも、裏道ってどういうのなんだ?」
 小次郎の言葉に、葉月はにっこり笑うと、柊司と弥生に声を掛ける。
「じゃあ、裏道で買ってきますか…ヒナも柊も協力お願い」
「分かった。じゃあ行くか」
「そうね、久し振りに」
 そう言うと葉月と柊司と弥生は店に入っていき、数分後に袋を持って店から出てくると、土井垣、瑛理、不知火、小次郎、三太郎に持っていた袋を渡す。驚いて受け取る五人に、柊司がにっと笑って五人を寄せると、小さい声で言葉を紡ぐ。
「…『裏道』ってのはな、地元民が代わりに買う事なんだよ。いきつけの客のふりして。で、持病聞かれたら『ないです』って答えれば、大抵売ってくれる。それでも一人二包みが限度だがな。良くここ歩いてる地元民は、観光客から小遣いもらって代わりに買ってるぜ」
「はあ、どこでも穴があるものなんですね…」
 土井垣は感心した様に呟く。小次郎は嬉しそうに言葉を紡ぐ。
「いい土産ができたな。ありがとうございます、御館さん」
「お~よ、気にするな。ちなみにそのういろうは喉だけじゃなくて車に酔ったとか、胃の調子が悪い時とかに飲むと特に効くぜ」
「そうなんですか~」
「じゃあ今度は昨日の劇団にも関係あるし、文学館行きますか」
「そうだな。ここから少し行ったとこだし」
 そう言うと葉月と柊司の案内で、国道から一本入った落ち着いた通りに足を踏み入れると、促されるままに文学館に入る。中には小田原に関わった文人の資料が数多く収められていた。その中には北原白秋、北村透谷、岸田國士などの小田原に関わった文人と一緒に、北條秀司と荒久の関わりも紹介されていた。それを見て、改めて一同は劇団のすごさを実感する。
「葉月が言っていた北條秀司とは、俺でも知っているあの有名な『王将』を書いた人だったのか…で、劇団の創設期に色々世話をして、交流を深めていた…と」
「そです。でも芝居に関してはかなり厳しい方だったみたいですね。その資料でも分かる通り」
「でも脚本家として一流の人間に親しまれたというのは、誇りと言っていいのではないかな」
「そですね。北條氏のおかげで劇団の基礎ができたも同じらしいですから」
「そんな恩ある方なのだから、ちゃんと身に通すように、神保さんに言ってくれ」
「ええ、お姫は後藤さんだけじゃなくって、若手では珍しく座長の教育もあって、北條氏の思想も大切に思ってる一人ですよ」
「そうか。ちゃんと分かっている人なんだな。いい事だ」
 そう言って土井垣は満足そうに笑う。他の一同も笑った。そうして文学館を見た後今度はまた国道に出て、道路沿いに裏道に入りながら葉月がそこにある店々を指して言葉を紡ぐ。
「…はい、ここがかまぼこ通り。屋号が入っているのはほぼ全部かまぼこ屋さんです。ここに古くからのほとんどのかまぼこ屋さんが集まってるんで、町の人達が通称にしてたのを市が正式に名称にしたんですよ」
「へぇ…そうなのか」
「でもそうつける時に、徹底的に抗議した業者が一つだけあるんだよな」
「あ、柊も知ってるの?」
「ああ、おじさんが『あそこに怒鳴られると市は弱い』ってぼやいてるって、文から聞いた」
「そうなんだ」
「どういう事ですか。御館さん」
 二人の会話になっているので、土井垣が不機嫌な表情になって問い掛ける。葉月はそれに気付かない風情で、逆に問い返す様に言葉を紡ぐ。
「よ~く見て下さい。有名なのに、ない屋号がありませんか?」
「え?…ああ!そういう事か!あそこは一番大きいけど、一つだけ離れてるもんね!」
「どういう事?弥生さん」
 一人恵心した弥生に、訳が分からない三太郎が問い掛ける。弥生はヒントを出す様に言葉を紡ぐ。
「駅の看板思い出して…そこの名前ある?」
「ええと…ああ!確かにあれがないや」
「ええ~?わたしには分からないです~!」
「はっきり答え出せよ、気分悪いぜ」
 瑛理と小次郎の言葉に、葉月が説明する様に、悪戯っぽく言葉を紡ぐ。
「この市で一番のかまぼこ会社で、駅前だけじゃなくって市内中に看板も出てる『鈴廣』が、ここから離れた場所に工場持ってるんで『うちが入らないじゃないか』って怒ったそうですよ。あそこは経営上手で見る工場とかビアガーデンとかレストランとか手広くやってますけど、土地を求めてここ離れちゃったんで」
「で、確か先代だか今だかの社長が『ういろう』の社長と並び称されてる市じゃ有名な女傑で、二人とも白梅出身で仲がいい上ダブルで市に強い影響力持ってたから、市からしたら尚更頭の痛い話だったらしいな」
「ほう…そういえばそうだった。俺も工場には葉月に連れて行ってもらったものな。確かにあそこは一つだけ離れているな」
「でしょ?将さん」
「でもこんなにたくさんかまぼこのお店があると、どこがいいのか目移りしちゃいますね」
「そうね。地元民もそれぞれごひいきのお店が違うし。有名どころだと今言った『鈴廣』、『丸う』、『一久杉兼』、『籠清』とかかな。買って食べ比べて自分だけのごひいき見つけるとかもありですね」
「宮田さん…商売上手だな」
「うふふ」
 三太郎の言葉に、葉月はにっこり微笑む。そうしてそれぞれ適当に気になった店のかまぼこを買うと、柊司が口を開く。
「…おっと、そろそろ不知火と犬飼は駅行かねぇと飛行機に間に合わねぇな。駅に行きながら、今日最後の観光スポットに案内するか」
 そう言うと柊司はそこにあるバス停から一同をバスに乗せ小田原駅まで戻すと、傍の歩行者天国から細い通りに入り、その通りにある無数の鈴が奉納されている二つの質素な墓を見せて説明する様に言葉を紡ぐ。
「これが、後北条氏四代目北条氏政とその弟氏照の墓だ。ただでさえ死んでから相当経って建てられたもんだし、ここにあった寺も移転したり地震で埋まったりもして、今じゃ本当に遺体があるかも分かんなくなってて意味がねぇとも言えるのに、どんなに市街地の開発が進んでも、これだけは動かさなかったんだよな。こんな場所にあるとは意外だから皆気付かねぇが、小田原語るにゃここは外せねぇ。何せもう一つの意味で小田原北条五代の最後を飾る二人だからな」
「そうですか…」
「どんなに栄えたとしてもいつかは終わりが来る。だからそれまでは精一杯やって、散り際も見事に散ってやろうって、俺はこの墓来る度に思うんだよな」
「御館さん…」
 穏やかな眼差しで言葉を紡ぐ柊司に、瑛理はその心を感じ取り、死ぬためにレースをしていた過去の自分も思い出しふと胸が痛む。その様子に気付いた不知火が、ふと宥める様に瑛理を引き寄せた。それを見た柊司は今まで見せた事のない表情でふっと笑うと、申し訳なさそうな口調で言葉を紡ぐ。
「…悪いな、盾野。嫌な気分にさせたみたいだ」
「いいえ…大丈夫です」
 ふと重くなった空気を軽くする様に、葉月がからかう様に言葉を掛けた。
「柊に今の言葉は似合わないよ。柊は何があっても、ゴキブリみたいにしぶとく生き延びるタイプじゃん」
「葉月、そこまで言うか~?」
 葉月の言葉に隠された思いやりを感じ取り、柊司はそう言うと今までの雰囲気を拭い去る様に、からりと笑った。その笑いに釣られて一同も笑う。そうして駅に戻り、小次郎と不知火と三太郎は新幹線の切符を買うと、それぞれ別れの言葉を紡ぐ。
「じゃあな、楽しかったぜ。いい気分転換になった」
「また東京でね。弥生さん」
「瑛理、元気でな。日本シリーズにまた招待してやるから」
 三人の言葉に、葉月と弥生と土井垣と柊司はそれぞれ言葉を返す。
「はい。また来て下さいね。今度はまた違うとこ案内しますから」
「じゃあね、三太郎君。また連絡するから」
「小次郎、守。日本一を取れよ」
「じゃあな。また会おうぜ」
「…」
 そんな一同の様子を見ながら、瑛理は黙って不知火を見詰めていた。その視線に気付いた不知火が、ふと瑛理に問い掛ける。
「…どうしたんだ?」
「え?…いいえ。守さん、それじゃあまた」
「…?ああ。またな」
 そう言うと三人は新幹線の改札に入っていった。それを見送る瑛理の視線に気付くと、葉月はにっこり微笑み、瑛理に言葉を掛ける。
「…さて、追いかけましょうか」
「…え?」
「不知火さんと別れたくなかったんでしょ?…追いかけて四国に飛べばいいじゃない。大丈夫、不知火さんならきっと大喜びで迎えてくれるわよ」
「葉月さん…」
 葉月の優しい言葉に、瑛理は思わず涙を零し、言葉を紡いでいた。
「…すいません…お芝居も、観光もとっても楽しかったんです。…それもずっと守さんと一緒で…本当に楽しくて…でも、こうやってお別れってなったら…楽しかった分…もっと寂しくなって…」
「…そう」
 葉月だけでなく、弥生も宥める様に瑛理を抱き締めて背中を叩く。土井垣と柊司はそれを優しく見詰めていた。そうしてしばらく時が経った後、柊司がにっと笑って言葉を紡ぐ。
「じゃあ、少しでも早く追いつける様に、早く帰らねぇとな…タクシー乗りゃ葉月んちはすぐだ。乗るぞ」
 そう言うと柊司は一同をタクシーに乗せ、葉月の家に帰る。葉月はすぐに瑛理に帰り支度をさせると、六花子が用意したお土産のがんもどきを持たせて、にっこり笑って言葉を紡ぐ。
「じゃあまたね、瑛理さん。そのがんもどき不知火さんにもってってあげて、二人で食べなさい」
「はい、ありがとうございます。こんなに色々してもらって、ありがとうございました」
「いいのよ。ほら、早く行きなさい。バイクならもしかしたら飛行機、間に合うかもよ」
「そうね。ファイトだ!盾野さん」
「ヒナさんも…ありがとうございます」
「じゃあな、瑛理ちゃん。守によろしく」
「盾野、行って来い」
「はい、土井垣さんも御館さんも、また会いましょう」
 そう言うと瑛理はバイクを走らせる。バックミラーには手を振る四人が写り、遠くなっていく。瑛理は最短ルートでバイクを走らせ、家に帰り着替えを詰め込みなおすと、空港まで急ぐ。幸運にも最終便の飛行機に間に合い、席もあり乗る事ができた。そうしてはやる心のままに飛行機に乗り、松山に着くとタクシーで不知火のマンションまで行き、インターホンを鳴らす。ドアを開けた不知火はそこに瑛理が立っているのを見て、心底驚いた表情を見せた。
「瑛理…」
「どうしても来たくて…来ちゃいました」
「…」
 瑛理の言葉に、不知火は無言で彼女を抱き締める。それだけで彼の想いが伝わる気がして、瑛理は呟く様に言葉を紡ぐ。
「最後の御館さんの言葉で、わたしはこうしようと思ったんです。最初は過去を思い出して胸が痛みました。…でも…今から思うと御館さんは『精一杯想いを大切にして生きるんだ』って、言いたかったんだって思ったんです。だから、わたしも守さんに対してそうしようって…」
「…そうか」
 そうやって二人はしばらく抱き合っていたが、やがて身体を離すと、不知火は瑛理を部屋に入れ、お茶を出す。
「少し…冷えただろう?飲むといい」
「…はい」
 そうして二人は無言でお茶を飲む。しかしそのお互いの心は、充実した喜びで溢れていた。そうしてしばらくお茶を飲んだ後、瑛理は六花子からもらったお土産のがんもどきを出して、言葉を紡ぐ。
「あの、これ…宮田さんのお母さんがお土産にって…だから…食べて下さい」
「…」
 不知火は無言で受け取ったが、やがて、ぼそりと口を開く。
「じゃあこれは明日の夕飯にするか。…瑛理と半分こで」
「守さん…?」
 瑛理の問いに、不知火は悪戯っぽい口調で、しかし真摯な心は伝わる口調で更に言葉を紡ぐ。
「いてくれるんだろう?…しばらくはここに」
「…はい!」
 瑛理は自分の心が伝わったが嬉しくて、最高の微笑みを見せる。不知火はその微笑みにふっと笑い返すと彼女を抱き締め、キスをした。