「…大丈夫でしょうか。本当に私を結婚相手として紹介するなんて…」
「…いいんだ。もう決めたんだ。俺は俺の想いを貫き通すと…若菜さんは俺が信じられないのか?」
「そうじゃないんです。私が、光さんの今あるものと引き換えになって…本当にいいのかって…」
「だからいいんだ。俺が今持っている何よりも、俺は若菜さんが大事なんだ。だから…胸を張ってくれ」
「…はい」
 渋民に向かう新幹線の中、義経と若菜は静かに話していた。オールスターに伴ったオフ、彼は休みを取った彼女を連れ、結婚相手として両親と総師に紹介するために故郷へと向かっていた。彼は自分の立場を考えて不安がる彼女を宥めてはいたが、彼自身も一抹の不安を持ってはいた。彼女の周囲は彼の想いと決意を知って彼を認めてくれたが、彼の周囲もそうなるとは限らない。特に山伏道場は妻帯を認めてはいないのだから、道場の総師が次期総師として目している彼に彼女との結婚を認めてくれるとは到底思えなかった。しかし、それでも彼は彼女への想いを断ち切る事はできない。何があっても彼は彼女と添い遂げる覚悟を決めたからこそ、彼女を連れて行くのだ。だから彼女を守り通そうと彼は決意していた。やがて新幹線は盛岡に着き、そこで電車を乗り換え、更に20分程して渋民に辿り着く。爽やかな空気に触れ、少し緊張を解いた様に若菜は微笑んで口を開く。
「小田原もいい所だって思ってますけど…光さんの故郷もいい所ですね」
「そう思ってくれるか?」
「はい」
「冬は雪深くなってしまうから温暖な小田原より住み辛いかもしれないが…」
「いいえ。雪深くても、きっと好きになれます。小田原もここ程じゃないですけど雪も降りますし…何より」
「何より?」
「…光さんが育った所ですもの。きっと好きになれます」
「…」
 顔を赤らめて言葉を紡ぐ若菜に、義経も顔を赤らめる。しばらくの暖かい、しかし気まずい沈黙の後、彼は口を開く。
「まあ、必ずここに住むとは限らないし…」
「…そうですよね」
 義経の言葉に寂しげな表情を見せる若菜の様子に義経は誤解をさせてしまった事に気付き、誤解を解くため更に言葉を重ねる。
「いや、そういう意味ではなく…二人で東京に住むか…俺が小田原に行く可能性もある、という事だよ」
「…光さん」
 義経の言葉に、若菜は恥ずかしげに、しかし嬉しげに微笑む。その微笑みに彼は安心してふっと笑うと、若菜の手を取りながらぼそりと口を開く。
「…とりあえずは…俺の親に会ってくれ」
「…はい」
 手を取られた若菜は更に恥ずかしげに顔を赤らめ俯きながらも、手を引かれるまま義経の案内で彼の家へと向かう。道々知り合いらしき人々に声を掛けられ『その娘は誰だ』と問いかけられる度、彼は『俺の嫁だ』と答え、問いかけた人々を驚かせ、彼女を恥ずかしがらせた。そうしてしばらく歩くと大き目の一軒家に辿り着いた。その佇まいに緊張する彼女に、彼は安心させる様に微笑みかける。
「…大丈夫だ。大きくは見えるが所詮は田舎の一軒家だよ」
「でも、それだけ由緒のあるお家なのでしょう?私…こんなお家だなんて知らなくて…何か失礼があったらどうしよう…」
「大丈夫だ。いつもの若菜さんでいればいいんだ。それに何も知らなくたって一番格の高い礼装をちゃんと選んで着て来たじゃないか。そうやって相手を気遣える若菜さんだから…大丈夫なんだ」
「…光さん」
「…さあ、入ろう」
「…はい」
 若菜は深呼吸をするとにっこり微笑んで頷く。義経もそれを見て微笑むと引き戸を開け、中に声を掛ける。
「ただいま、父さん、母さん」
 その声に奥から割烹着を着た白髪混じりの黒髪の女性が出てきて、義経に言葉を返す。
「光…あなた久し振りに電話を掛けて来たと思ったら『嫁を連れて帰る』なんて…総師様に何て言ったら…」
「それは…ちゃんと考えてある。とにかく彼女を見てあげて欲しい…何の色付けもなしに。彼女が俺の嫁です」
 そう言うと義経は若菜の方を向く。彼女は緊張しながらも静かに、優雅に挨拶をする。
「初めまして…神保若菜と申します」
「あなたが…光が決めた娘さんなの?」
「はい」
 若菜は恥ずかしくなり、小さな声になりながらも、はっきりと頷いた。義経の母はしばらくじっと若菜を見詰めていたが、やがて小さな溜息をつくと、静かに二人を中へと促した。
「とにかく…お入りなさい。夫と二人で話を聞きましょう」
 義経と若菜はとりあえず第一段階を越えた事が分かり、明るい表情で顔を見合わせると、促されるままに客間に入る。若菜は自ら一番下座に座り、居間にいた義経の父親と対峙した。きちんと様々な事をわきまえた態度を取っている若菜を見て義経の母も父も少し驚いた表情を一瞬見せたが、すぐに平静な態度に戻り、若菜に言葉を掛ける。
「…お嬢さん、まずは名前を聞こうかな」
「はい…初めまして、神保若菜と申します。どうかよろしくお願い致します。…それからこれは小田原の銘菓です。どうか召し上がって下さい」
「そうか、気を遣わせたね。ありがたく頂こう」
 そうして三つ指をついて優雅に、しかしきちんと礼をした後お土産のお菓子を渡す若菜を義経の父はしばらく見詰めていたが、やがて静かな口調で彼女に問いかける。
「さて、若菜さん…と言ったな。光がどんな立場か知っているな」
「はい」
「光は山伏道場へと身を置いている。しかも次期総師として目されてもいる。それでも添い遂げると言うのか」
「はい。…私も最初は迷いました。光さんの道場は妻帯を認めてはいないと知っていましたから…でも、光さんは禁を犯してでも想いを貫き通すと私に言って…私の家族にも誓って下さいました。ですから私は光さんの言葉を信じます」
「そうか…」
 義経の父は若菜を見詰める。若菜は決意に満ちた目で見詰め返す。しばらく見つめあった後、義経の父は今度は義経に向き直り、言葉を掛ける。
「光」
「はい」
「若菜さんに言った言葉に…嘘はないな」
「はい。今の俺にとっては、若菜さんと生きる未来が何よりも欲しいものなんだ。女に腑抜けたと言われたら…その言葉、甘んじて受ける。でも…決して俺は腑抜けてはいない。いや、若菜さんが…更に俺を強くしてくれているんだ。そんな若菜さんと俺は…ずっと一緒に生きていたいんだ」
「そうか」
「はい」
「しかし…総師にはどう申し開きをする。事は道場の人間全てに関わってくる事だぞ」
「分かってる…しかし、道場を出て野球の世界に戻った時から、俺の運命はきっと変わっていたんだ。総師にはきっと他にふさわしい人間がいるはず。それでも俺が総師にならなければならないなら…禁を犯してでも彼女を一緒に連れて行く。それが俺の決意です」
「…光」
 義経の言葉に、義経の両親は何故か哀しげな表情を見せ、呟く様な言葉を零す。
「結局…血は争えないという事か…」
その表情と言葉が不思議に思え、義経と若菜は二人を見詰め返す。その視線に気が付いたのか、義経の両親はすぐに真面目な表情に戻り、口を開く。
「とにかく…長旅で疲れたろう、ゆっくりするといい。光は自分の部屋へ。若菜さんには客間を用意してある。そんな堅苦しい恰好はやめて、くつろぎなさい」
「ありがとう…父さん」
「はい…では、お言葉に甘えさせて頂きます」
 二人は両親が認めてくれたと思い、喜びで顔を明るくし頷くと、義経は若菜を客間へ案内した。

 しばらくして普段と同じカーゴパンツにシャツという姿に着替えた若菜は、義経の母に遠慮がちにだが声を掛ける。
「あの…おか……いえ…おば様」
「どうぞ『お母さん』と呼んで頂戴な」
「ありがとうございます。…では…お母様、もしでしたら夕食の支度のお手伝いをさせて下さい」
「いいのよ、今日のあなたはお客様。気を遣わないで。その代わり、次回からみっちり仕込んであげます」
「いいえ、気を遣っているのではなくて、その…光さんが好きな食べ物を…知りたいんです。光さんは、私といると何でも『おいしい』って言って食べていて…何だかそれが寂しいので…」
 若菜の言葉と口調で義経の母は若菜の気持ちが分かり、ふっと微笑むと問い掛ける。
「そう…じゃあ手伝ってもらおうかしら。割烹着かエプロンは持ってる?」
「はい、エプロンを持って来ています」
「じゃあ一緒に作りましょうか」
 そう言うと義経の母は彼女に手ほどきをしながら料理を作っていく。義経の母は手ほどきをしながらも彼女の手際の良さと物覚えのよさに感心して声を掛ける。
「あなた、筋がいいわね。独り暮らしをしているの?」
「いえ…家族と同居です。…料理は母が主で、私は…手伝い程度しか…」
「でも、基礎はちゃんとできているわ。お母様がどんなにいい方か良く分かるわね」
「…ありがとうございます。母まで褒めて頂いて」
 若菜は義経の母の言葉に恥ずかしげに微笑む。そうして和やかに料理を作っている二人をそっと義経が優しい目で見詰めているのを目ざとく見つけた義経の父が、わざと咎める様に声を掛ける。
「こら光、『男子厨房に入らず』とは言わんが、覗き見は失礼だぞ」
「あ、父さん…」
 父親に見咎められて慌てる義経に義経の父はふっと笑いかけると、言葉を紡ぐ。
「大丈夫だ、お前が選んだ娘さんだろう。信じてやれ」
「…父さん」
「少し話しただけでも分かる。意志も強いが根は気立てのいい、気持ちのいい娘さんだ。母さんもちゃんと分かっている」
「…」
「お前が惚れたのも良く分かるぞ」
「父さん!」
「これは野暮だったかな…しかし光」
「何だい?父さん」
 義経の父はふっと真剣な表情になり、言葉を紡ぐ。
「本気で彼女と添い遂げるのなら…総師が最大の難関だぞ」
「父さん、それは…?」
「時が来れば分かる…しかしこれは言っておく。禁を犯すという事は、お前が考えている程、生易しいものじゃない。本気で若菜さんと添い遂げたいなら…道場の事など考えるな。むしろ道場を捨てる位の覚悟でいろ」
「…はい、父さん」
 義経は父の言葉に何かを感じその言葉を受け取り、決意を込めた表情で頷く。それを見た義経の父は頷くとふっと笑って彼を居間へ促す。
「さあ、役に立たない男は退散して彼女の手料理を楽しみにしよう」
 そうして夕飯時になり、義経達は彼女を囲んで賑やかに夕食をとる。若菜は『お口に合わないかもしれませんが』と控えめな態度で接していたが、彼女の料理は確かに義経の母とは味は違うが、たとえ味の違いはあっても彼らの口に合うもので義経一家は喜んで口にして、若菜を喜ばせた。そうして食事をとりながら義経の両親は彼女の家の事、住んでいる土地の事、仕事の事、趣味の芝居の事などを詳しく聞き、若菜も言葉少なにだが、丁寧に答える。そうして義経の両親は彼女の優しさ、一生懸命さ、意志の強さなどを更に実感し、暖かく彼女を受け入れる雰囲気になった。それを感じ取って義経は嬉しく思い、食事をとった。そうして食事が終わり、若菜は片付けも手伝った後義経の父と義経の晩酌に付き合う。義経の父は久し振りの息子との晩酌に上機嫌で若菜にも盃を手渡す。彼女は遠慮がちに受け取り、少しだけ飲んで後は義経の父が語る義経の幼い頃の話に耳を傾けていた。そうして夜が更けそれぞれ風呂に入った後、客間で寝支度をしていた若菜の所に義経がやって来る。
「…大丈夫か」
 義経の自分を気遣う言葉に、若菜は微笑んで応える。
「はい。お父様も、お母様もいい方ですね。光さんがこんな素敵な人になった理由が分かりました」
「あ、ああ…そうか」
「はい」
「とにかく…あまり気を遣わずに過ごしてくれ。そうだ、明日俺は総師の許しを頂きに道場へ行くが…道場は女人禁制だからすぐには若菜さんを連れて行けないし…その代わりと言っては何だが、前の約束もある事だし、行きがけに武蔵坊の工房へ連れて行こう。きっと武蔵坊も喜ぶ」
「はい。ありがとう、光さん」
 更に嬉しそうに微笑む若菜の笑顔に、義経は酔いも手伝って鼓動が段々高まってくる。そして今夜は彼女が同じ屋根の下にいると思うと、あの別れの時感じた熱い想いが蘇ってきた。その想いのままに義経は彼女を抱き締め、キスをする。初めて自分から与えたキスを、若菜は優しく受け入れた。そうして自分を受け入れてくれる彼女に喜びを感じながら思いの熱さを表す様に唇を首筋に這わせると、彼女は何故かやんわりとそんな彼を押し返した。
「…駄目です」
「…若菜さん」
 自分の想いを拒否された気がして哀しくなり、その心のままに義経が若菜を見詰めると、彼女は彼を宥める様に複雑な表情で微笑んで言葉を重ねる。
「まだ、私達は…総師様からお許しをもらっていません。そんな中途半端な状態でこうした仲になるのは…きっと、駄目です。だから…待って下さい」
「若菜さん…」
 義経は若菜の想いを受け取り、ふっと笑うと頷く。
「そうだな。ちゃんと…みんなに祝福されたいな」
「…はい」
 そうして二人は顔を見合わせて笑い合うと、義経はもう一度若菜をきつく抱き締める。
「じゃあ…お休み。ゆっくり休みなさい」
「はい…おやすみなさい、光さん」
 別れ際に義経はもう一度若菜にキスをした。若菜はやはり優しく受け入れる。熱い、満たされない想いがあるのは確かだが、そうして交わしたキスで、ほんの少しだがその満たされない想いが満たされた気がした。そうして熱い想いを胸に抱きながら自分の部屋へ戻り義経は眠りに就いた。