翌朝義経が起きると、若菜はもう着替えて義経の母と朝食を作っていた。起きてきた義経に気がつくと、彼女はにっこり微笑んで言葉を掛ける。
「光さん、おはようございます」
「あ、ああ…おはよう」
 昨日の事は夢ではなかったのだと義経はそれで実感し、未だ熱く、満たされない想いも感じているが、それ以上に幸せな気持ちが湧きあがってくる。自分に朝の挨拶をして自分の朝食を作ってくれている若菜の姿が愛しくて、目を細めてその姿を見詰めていると、不意に義経の母が咎める様に声を掛けた。
「ほら光、ボーっとしていないで着替えていらっしゃい。若菜さんはもう着替えているのに、失礼でしょ」
「え?…ああはい、すいません」
 義経は部屋へ戻って着替えると居間へ足を運ぶ。しばらくすると義経の母と若菜の手で朝食が運ばれてきて、一家で朝食をとる。食事をしながら彼は今日自分は総師の所へ行き、若菜は武蔵坊の工房へ連れて行くと伝え、朝食の片付けを手伝った若菜を連れて家を出る。そうして玄関口へ行った時に、父が不意に彼に声を掛けた。
「光…昨日言った事は覚えているな」
「はい」
「自分が選ぶ道を間違えるな。若菜さんを選んだのなら守り通すんだ、いいな」
「…はい」
「…お父様?」
「…さあ、行ってこい」
「はい、行ってきます」
 家を出た時に、若菜は義経にふと問い掛ける。
「光さん、お父様の言った事は一体…?」
 不安げなその表情に義経は彼女の頭を撫でると、宥める様に微笑んで応える。
「つまり、俺には若菜さんがいれば充分だって事だよ」
「光さん…」
 若菜はしばらく無言で俯いていたが、やがて俯いたまま静かに言葉を紡ぎ出す。
「…駄目」
「若菜さん?」
「私がいれば充分なんて思っちゃ駄目。私はそんな事を望んではいないわ。それに…私も、光さんがいれば充分なんて思っていないわ」
「若菜さん、それは…?」
「総師じゃない、別の道を選んだ上で私と一緒にいたい、って言うならいいの。…でも、私しかいらないなんていう光さんは嫌。それに…私も今の立場を捨てる事になっても、光さんしかいらないなんて言わない。別の道を選んだ上で、光さんと生きて行きたいの…私の言いたい事、分かる?」
「…」
 訳が分からず沈黙する義経に、若菜は更に言葉を重ねていく。
「お互いしかいらないなんていう世界は、すぐに壊れるわ。人は…周りの様々なものがあってこそ、その人として生きているのよ」
 義経は若菜の言葉でやっと自分が心得違いを犯していた事に気付き、それを言葉にしていく。
「そうか…そういう事か…ありがとう、若菜さん。俺の目を覚ましてくれて」
「光さん?」
「どうやら俺は父さんの言っていた事を間違って理解していたみたいだ。…父さんはお互いに捨てるものは捨てて、守るべきものは守って添い遂げろって言いたかったんだな…きっと」
「光さん…」
「これからの展開によっては、若菜さんにも苦労をかけるかもしれない…それだけじゃない。なるべく若菜さんが一番いい道を選ぶつもりだけれど、仕事か、芝居かは分からないけれど…捨ててくれと言うかもしれない。それでも…一緒に生きて行ってくれるか?」
 義経の言葉に若菜は彼が自分の言った事を理解してくれたと分かり、最高の微笑みを見せて応える。
「…はい」
「…ありがとう」
 二人はお互いに微笑み合いながら道を歩いていき、やがて武蔵坊の工房へ辿り着く。外で窯を見ていた武蔵坊は二人に気付くと、近付いて声を掛けてきた。
「ああ義経、来たのか。それから…神保さんも」
「はい、お約束通り…寄らせて頂きました」
「武蔵坊。俺はこれから道場へ行くから、帰るまで彼女を預かっていてもらえないか」
「ああ分かった。神保さん、むさくるしい所ですがどうぞ」
「いえ、お邪魔させていただきます…じゃあ光さん、行ってらっしゃい」
「ああ、行ってくる。じゃあ武蔵坊…頼んだ」
「ああ…難しいかもしれんが…認めてもらえ」
「ああ」
 義経は決意を込めた表情で頷くと、二人に背を向けて去って行った。若菜はしばらく義経を見送っていたが、武蔵坊に呼ばれて家の中に入ると、彼に出されたお茶で一息ついた後、断りを入れて彼の作業や家の中に飾られている作品を眺めていた。やがて、あの個展で見た作品を見つけてまた優しい眼差しで飽きる様子もなく眺めている。それを見ていた彼はふと彼女に問いかける。
「神保さん」
「はい」
「あの時はあえて聞きませんでしたが…どうしてこの作品が一番気に入ったんですか」
 武蔵坊の問いに、若菜は優しい微笑みを見せて答える。
「何だかこの作品は、他のどこか気取った感じがした作品と比べて…武蔵坊さんの本当のあったかさが出ている感じがして…それに、私は茶道の心得はありませんが、このお茶碗でお茶をたてて飲んだら、きっとみんな幸せな気持ちになれるなって…そんな気がした時、そうして皆でお茶を飲んでいる風景が見えた気がして、それが現実になった時の事を考えて本当に幸せな気持ちになって…だから気に入ったんです。すいません、陶芸の事は何も分からないのに勝手に解釈して」
 若菜の言葉に武蔵坊はしばらく考え込んでいたが、やがてゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「いえ…あなたは正しい。そして初めての人だ。僕がこの作品に込めた魂に…気づいてくれた」
「え?」
 問い返す若菜に答えるともなしに、武蔵坊はぽつり、ぽつりと話し始める。
「僕がこの作品を作ったのは…本来の茶碗の意味を忘れ、ただ飾る事のみに適した華美な作品を望む、蒐集家や鑑定士に対して挑戦がしたかったからなんです。飾るためではなく、本来の役目通り使う事でその人の心を潤す、だからこそ華美ではなくても飾って見る事でも心が和んで、それでも見ているうちに使いたくなって、そうして使う人が本当に幸せな気持ちになれるものを…と思いながら。…本当にいいものはどんなに素朴でも良さは失われず心を潤してくれると、今までの人生から僕は思っていましたから。…でも、駄目でした。鑑定士や評論家達はこの作品を酷評しましたよ。何でも『僕らしさがでていない、片手間の作品だ』…そうです。おかしいですね、僕としたら自分が持てる精一杯の魂を込めたつもりの作品だったのに」
「武蔵坊さん…」
 寂しげな武蔵坊の表情と言葉に若菜は何と言っていいか分からなくなる。若菜の表情に気づいて武蔵坊は宥める様に笑うと、更に言葉を重ねる。
「でも、あなたは僕の魂を分かってくれた。だから…いいんです。まずは一人僕の魂を分かってくれる人がいる、それだけで僕は嬉しいんです。それに…この作品に関してだけは、どんな高名な鑑定士や評論家の評価よりも、陶芸の事を何も知らないごく普通の人の感想こそが…本当の評価だとも思っていますから。こうしてこの作品に込めたかった真の価値が、陶芸は詳しくないとおっしゃったあなたにちゃんと伝わったのですから…この作品に込めた僕の魂は間違っていなかった、と確信できました。ありがとう、神保さん」
「武蔵坊さん」
「きっと…あなたは素直に物事をとらえる事ができる人なんですね。だから義経もあなたに惹かれたんでしょう」
「そうでしょうか…」
「そうですよ」
「…そうですか」
 若菜は恥ずかしげに微笑んだ。それを見て武蔵坊も微笑むと彼女に断りを入れて作業に戻り、若菜は楽しそうにまたその姿を見詰めていた。

「…世迷言をほざくな、義経」
「総師!」
 道場に足を運んだ義経は総師に全てを話し、許しを得ようとする。しかしその答えは予想していたとはいえ厳しいものだった。
「お主以上に総師にふさわしい人間はこの道場にはおらん。そのお主が女にうつつを抜かすとは何事じゃ。目を覚ませ、義経。お主はその女に惑わされているだけじゃ」
「いいえ、私は惑わされてなどおりません。本当に彼女の事を愛しています。確かに俗世に出ず、道場の中にいたままならば何ら疑問もなく総師の道を歩んだ事でしょう。しかし私は土井垣監督の言葉で俗世に出た時から、きっと運命が変わってきていたのです。そして私は俗世に出て…彼女と出会いました。その時点で変わった運命がその形で固まりました。どうしても総師の道を選ばなければならないというならば禁を犯してでも彼女を娶り、ここへ連れて来ます。それが私の決意です」
「…」
 総師はしばらく決意を込めた眼差しを向ける義経を見詰めていたが、やがてふっと一息つくと、ぽつり、ぽつりと話し出した。
「…そこまで言うならば…お主には話しておらなんだこの山にまつわる、ある『昔話』をしよう。それを聞いても…お主は今と同じ事が言えるかの」
「『昔話』?」
「うむ。…その昔、歳若くして実力と人柄を認められ総師となった若者が、修行中にこの山で迷った娘と出会い、恋に落ちた。無論、妻帯を認めていない道場の山伏…しかも手本となるべき総師自らの戒律に対する裏切りじゃ。道場の人間はもちろん、村の者も二人の恋を咎めた。しかし若者も娘もひるまず想いを貫き通し、若者は娘を娶った。…しかしじゃ」
「しかし?」
「その後娘は道場で暮らしたが、山の怒りを買ったかの様に日に日に身体を弱らせていき、身篭ったものの赤子…女子じゃったと聞いておる…を産んで時おかず死んだ。そして若者はその後の荒行に失敗し…これも死んだ。そして両親に先立たれた幼子は、村に住む祖父母に引き取られた…」
「…」
「村の者達も、道場の者達もこの偶然とは思えぬ二人の死を山の怒りと恐れ、これ以上犠牲者を出さぬ様にと、その後は女人を入れるべからずというしきたりを強めたんじゃ。…もう遠い昔の話故、町の者達はとうに忘れておるが、道場ではこの二人の事はたとえ具体的に語られずともまだ過去とはなっておらぬ。じゃからこそ、ここでは女人禁制の戒律がこれ程厳格に残っておるのじゃ」
「…」
「分かったろう…その娘ごを本当に愛しているというならば離れろ。お主は総師として道場で生きる身。その若者と同じく、山の怒りを愛しきその娘ごに被らせる気か」
 総師は厳しい眼差しで義経を見詰める。義経はその言葉で視線を落として沈黙した。そうして彼はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げ、先刻よりも更に決意を込めた瞳で総師を見詰め返すとその言葉に応えた。
「…分かりました」
「…そうか。では疾く立ち戻り、娘ごに別れを告げよ」
「いいえ、違います。私を…即刻この場で破門して下さい。私は道場を捨て、この山を降ります。無論、戒律通りそれに伴う責めは全てお受けします」
「義経!」
 驚く総師とは裏腹に、義経は落ち着いた態度で言葉を紡いでいく。
「今の私にとっては…彼女の存在の方が、道場や総師の立場よりも大切なものとなりました。ですから、山の怒りがあるというのならば…彼女を守るために、私が今の立場を捨てましょう。そのために負う責め苦など、彼女と離れる心の痛みに比べたら耐え抜けます。いえ…彼女と離れず添い遂げると総師達に誓うための試練として…私は破戒者としての痛みを耐え抜かねばなりません」
「…そうか」
「…はい」
 総師は静かな眼差しに戻り、義経を見詰める。義経は決意に満ちた眼差しのまま見詰め返す。そうしてしばし見つめ合った後、総師はほうっと一つ溜息をつくと、ぽつりと口を開く。
「お主を道場に呼んだ時に今度こそは、と思うたのじゃがの。…やはり血は争えぬか」
「総師、父も昨日その様な事を言っていましたが…それはどういう…?」
 義経の問いに、総師は静かに言葉を紡ぐ。
「今の話の若き総師とは…お主の曽祖父じゃ」
「何ですって?」
「儂はそやつの死後跡を継ぎ、総師となった。そして陰ながら里に引き取られた幼子の成長を見守り、成長したその幼子が娘を産み、そしてその娘が息子…つまりお主を産んだと聞いて、この道場へ呼んだのじゃ。今度こそ曽祖父の遺志を継ぎ、総師としての役目を全うしてもらおうとな。…しかし、どうやら実力や求心力と共に人を愛する熱き血と魂もそやつから…いや、更にそやつの妻となった娘ごのものも加えられ、色濃くなって…お主の中に受け継がれてしもうた様じゃな」
「総師…」
「…分かった、認めよう。但し破門はせぬし、次期総師はやはりお主じゃ」
「総師!それでは若菜さんは…!」
 反論しようとする義経を遮って総師は続ける。
「誰が道場に常にいろと言った。お主は常時町暮らしじゃ。そして時折ここへ戻り、行をこなしながら外から統率して行け。おそらく当時娘が弱っていったのは山の怒りなどではなく、山の過酷な暮らしに女子の身が耐えられなかったからじゃ。…そして、あやつの荒行の失敗とはおそらく…妻を失った哀しみから逃れられなかった故の覚悟の死じゃろうと今の儂は思うておる。じゃから町にいれば、きっと全てはうまくいく。そうして総師としてその娘ごを守り、お主も総師としての役目を全うせい。されば、道場の者達も山の怒りなどないと納得するじゃろうて」
「はあ…」
「そうじゃ、その娘ごは今この地へ来ておるのか。ならば儂も会いたい。お主がそこまで惚れ抜く娘がどんな娘か見たいからのう」
 そう言うと総師はカラカラと笑った。義経は認めてもらった嬉しさはあるものの、狐につままれた様な表情を見せていた。

 そうして総師と義経は武蔵坊の工房へと足を運ぶ。戻って来た義経に、武蔵坊と彼の仕事を見ていた若菜は気付き、声を掛ける。
「お帰りなさい、光さん。そちらの方は…?」
「お帰り、義経。…それから総師、お久し振りです」
「久しいのう、武蔵坊。そちらの娘ごが、義経の想い人か」
「はい。…若菜さん、この方が山伏道場の現総師だ。挨拶してもらえないか」
 義経の言葉に、若菜は慌てて挨拶と無作法に対しての謝罪の言葉を総師に返す。
「ああ、そうなのですか。初めまして総師様、神保若菜と申します。ご挨拶が遅れた上に知らなかったとはいえ失礼な物言いをして、本当に申し訳ありません」
「いやいや、その様な些末な事、気にするでない。…しかし可愛らしいし、今の挨拶で気立ても良いとすぐ分かる娘ごじゃ。これでは義経が惚れ込むのも無理はないのう」
「!」
「総師!」
 総師の言葉に義経は思わず声をあげ、若菜は顔を赤らめる。それも気にせず総師はカラカラと笑うと明るい、しかし優しく真摯な心は伝わる口調で言葉を紡ぐ。
「これ程によき娘ごじゃ。道場を捨てようと決意しただけの価値はあるぞ。じゃからの、しっかり守ってやれ。そして曽祖父の分まで幸せになる事じゃ」
「…はい」
「光さん、どういう事…?」
「つまり、若菜さんを一生守れという事だよ。認めてもらったんだ。総師に」
「…本当ですか?」
「ああ」
「ありがとうございます。私達の勝手を認めていただいて」
「いや、お主らの一途な想いには正直負けた。幸せになるがよい」
「はい」
 若菜は恥ずかしげに顔を赤らめながらも総師に一礼してお礼の言葉を述べた。それを見て総師は目を細めると、呟く様に言葉を零した。
「どこか…静殿に面差しも、物言いも…似ておるの。偶然なのか…それともあやつの執念かの」
「総師様?」
「…いや、何でもない」
 自分の呟きを聞いて不思議そうな表情を見せた若菜に、総師は取り成す様な笑顔を返した。