『そうですよ。…どうして俺を待っててくれなかったんですか…』
 その後不知火は彼らと一緒に基礎的なトレーニングをしながら受験勉強も教えてもらい、入学前から白新野球部に馴染んでいった。その中で誠は誰よりも熱心にトレーニングや勉強に付き合ってくれたが、『まだ入学しているわけじゃないから、申し訳ないけどここだけはボーダーを引かせてくれ』と彼らの練習自体には不知火を参加させず、もちろんピッチングもさせずキャッチャーとして球を受けてくれる事もなかった。不知火はそんな融通が利かないと言われそうな程実直な誠を見て、そんな誠だからこそ必ず入学して自分の球を受けてもらおう、そうしてバッテリーを組んで彼の素晴らしさを知ってもらうんだと逆に力を入れていった。そうしながらも山田を挑発し、高校野球へ心を傾けさせ、彼のバッティングを見た事で自分は打倒山田こそが生きる道だと確信する。そうして無事山田もライバルになるべく明訓高校に合格し、不知火は学費免除の特待生として白新高校に見事合格。野球部に新入部員として改めてやってきた。ところが、それと入れ替わるかの様に誠は病に倒れ、病名は軽度の心疾患という事で野球部から一時的という条件付きだが身を引いていた。他の部員と同じく彼も誠がすぐに帰ってくると思っていた。ところが通学の関係で転院した眼科のある病院が誠の入院している病院と同じだった事で、悲しい偶然から誠の真実を知ってしまった。本当の病名は悪性の心筋炎、しかも後遺症が残る可能性が高く、そうなるとスポーツはもうできない、それどころかこのまま悪化すると死ぬ可能性もある――それを知ってしばらく不知火は荒れた。何も知らず楽観的に誠が帰ってくると信じている先輩達にも尊大な態度をとった。しかし誰かから、おそらく誠と一番親しい大崎か森脇から聞いたのだろう。誠自身からその態度をたしなめられた。「お前がそんな態度を取っていたら、復帰しても俺はお前の球を受けさせてもらえなくなるかもしれないぞ。お前の目も生かせる最高のリードを今じっくり考えてる所なんだから、そうなったら困るじゃないか」と――ごく自然に出た諌める言葉だとは分かっていた。しかしまるで自分がもう不知火の球を受ける事ができないと分かっているかの様な静かで穏やかなその口調に不知火は何も言えなくなった。そこから心が切り替わった。皆と同じく奇跡を信じ、誠が帰ってくる日を夢に見つつ、ピッチャーとして、何より野球選手として最高であるために心身ともに磨く事を怠らなくした。しかし奇跡は起こらなかった。夏の予選に敗退し、片や勝ち進んだ明訓が甲子園で優勝するのと時を同じくする様に、誠はその命の炎を消した。最後に不知火へたった一球の『リード』、自分の角膜を移植するようにとの言葉と段取りを残して――その『リード』の通り、彼は誠の角膜を受け取り、最高の状態になって白新野球部に復帰し、誠の遺志を誰よりも色濃く受け継ぎ野球部を牽引していき、秋季大会での対明訓戦で夏に隻眼だった事で勝利を奪われた雪辱を晴らすツーランホームランを明訓に対して叩き出したが、結局その時も最後の精魂込めた一球を山田に満塁サヨナラホームランにされ、明訓に勝つ事はできなかった。負けた事を実感した時、マウンドに、何より広いグラウンドにいるはずなのに、ふっとまたどこかから金木犀の香りがした気がした。この一年の劇的な変化。パーフェクト投手から敗戦投手へ、何より球を受けてほしいと心から思った誠が同じ香りがしているのにこの世にはもういない――その事を実感させられ、どんなチャンスもものにし打つ事ができる山田に誠の遺志の影を何故か見つけ感服しつつも、それ以上に胸の中に小さな痛みと空虚を感じていた。そしてそれからこの季節になる度にその痛みは強くなっていく気がした。甲子園には一度も行けなかったものの、その後プロ野球選手になってエースピッチャーとして第一線を走り続けてきた。しかし自分が栄光の中にいる事を自覚するたび、その道筋を作ってくれた誠に対する胸の痛みが強くなる。彼こそがこの栄光の中にいるべきなのに、その入り口にすら立てなかった誠。最高のバッテリーを組んだのは確かなのに、それが他者に理解される事はおそらく永遠にない。誠の努力が誠のものとして報われない事が金木犀の香りを感じる度に鋭く不知火の胸に突き刺さる。そんな胸の痛みに涙が零れるのを感じながら家路につこうとした時、不意に「守さん」と呼び止められる。振り返ってそこにいた『声の主』は――
「真理…来てたのか」
 そこには誠の妹であり、何よりドナー家族のため二度と会ってはならない仲を乗り越えて想いを貫き通した真理子が静かに微笑んで立っていた。真理子は静かに彼に並ぶと言葉を紡ぐ。
「今日登板だって知ってたからこっそり観に来てて、そのまま先回りして帰ろうと思ってたんだけどね…土門さんから連絡があって『例年の事なんだが、不知火の様子がおかしくなってきたから、慰めてやってくれ』って言われて…だったら一緒に帰った方がいいのかなって。…守さんがおかしい理由あたし知ってるから、慰めるのは無理ってちゃんと分かってるけど、思い出話なら一緒にできるでしょ?だから…」
 そう言って寂しげに微笑む真理子に彼女の心遣いの温かさを噛みしめ彼女に感謝するのと同時に、同じ様に、いやともすると不知火以上の哀しみを背負っている彼女を更に傷つけてしまいかねないのに止まらない自分のこの胸の痛みと空虚感が悔しくて、哀しくて、不知火は涙を流しながら途切れ途切れに呟く。
「すまない…真理、分かってるんだ。…時間は戻せないし、過ぎてしまった時間はもう変えられないって事も…でも…いつもこの頃に…誠さんと出会った頃になると悔しくて、哀しくなるんだ…俺の球を受けてもらえなかった事が…名実共にバッテリーが組めなかった事が…何より世間に誠さんの素晴らしさが伝えられなかった事が…」
 真理子は不知火を抱きしめて静かにその涙を自分の肩に染みとおらせながら呟きを返す。
「うん…うん…そうね。…あたしも守さんがそうやってお兄ちゃんの事忘れないでくれるのは嬉しいし、お兄ちゃんも守さんがそう思ってくれるの嬉しいってきっと思ってるよ…でもね」
「でも?」
「そうやって、守さんが自分に対してずっと負い目を感じてるのは…お兄ちゃんきっと…哀しいとも思ってるよ。そういう人じゃない…お兄ちゃんって」
「…」
 不知火は真理子の言葉に目が覚める思いがした。そうだ、挫折から這い上がった後は自分が光を浴びるより、自分は陰に回り、周りの人間が光を浴びる事を何より望んでいたのが誠という男だった。そんな誠が自分の所から旅立ち、第一線にいる今の自分を見たらきっと本望だろう。いや、そうであって欲しかった。彼はそれを口にする。
「俺が…俺だけがこうやって光を浴びているが…それでも誠さんは喜んでくれるかな」
「うん、守さんが第一線にいて、光を浴び続けてくれる事が、お兄ちゃんが間違ってなかったって証明だもの。だからずっと…第一線にいて。それが絶対…お兄ちゃんが喜ぶ事だと思うから」
 不知火は真理子の言葉に、ふっと涙を拭うと、ぽつりとまた呟く。
「まだ、振り返ってしまうが…いつかは、この哀しい気持ちも消えてくれるかな」
「分からないな…でも、哀しい気持ちを一緒に持つことは…あたしもできるよ。そうして一緒に哀しい気持ちをあっためあったら、いつかはあたしも、守さんも…哀しい気持ちが消えて幸せになれるんじゃないかな」
「ああ…そうだな。今思えば角膜だけじゃない…もう一つ…誠さんは『リード』を俺に残してくれてたんだな…『自分の代わりに真理っていうかけがえのない存在を幸せにしろ』っていう」
「うん」
 二人は哀しみをお互いの胸に抱きながらも、その手の中に残った『希望』も共に胸に抱き、その心のままに静かに抱き合う。
「でも…そう考えるといいのかな。誠さんの目を使ってこういう感情で真理を見てるって言うのは」
 しばらく抱き合った後、そう言って複雑な眼差しで真理子を見つめる不知火に、彼女は微笑んで返す。
「いいんだと思う。だって、確かにその角膜はお兄ちゃんのものだったし、あたし自身も最初に再会した時はそう思ってたからああ言ったけど…お兄ちゃんは守さんにもう完全に角膜を譲り渡したんだもん。だからもうその目は守さんのものなんだって思うよ。お兄ちゃんはお兄ちゃんで…その目でじゃなくって…ちゃんと新しい目をもらって、きっと空から見てるよ。あたし達が幸せになるのを楽しみにして」
「そうか」
「うん」
「だったら…幸せにならなきゃいけないな。俺と…真理と…二人で、それから…周りの人間も一緒になって」
「そうだよ。せっかく一番大事な目とあたしを譲ったのに、あたし達が幸せにならなかったら…お兄ちゃんきっと怒るよ」
「…そうだな。誠さんはそういう人だもんな」
「…うん、そういう事」
 そう言って微笑み合った後、喜びと哀しみの相反する思い出を持つ香りの中で、二人は静かにキスをした。哀しい思い出をひと時閉じ込め、それがいつか幸せに変わるように願いながら――