そうして白新高校に辿り着き、まず彼女を傍にある花壇の縁に座らせて自転車を自転車置き場に置いて、座っている彼女に鍵を渡し、事が事なので戸惑いながら問いかける。
「まずは君を送り届けないとな。申し訳ないが…おぶってもいいかな」
 不知火の言葉に、少女も戸惑いながら返す。
「あ…はい、いいです。足使わない方がいいですし」
「じゃあ…すまないが」
 そう言うと不知火は少女を背負い、更に言葉をかける。
「じゃあまず君を送り届けなくちゃな。お兄さんはどこにいるんだ?」
「あ、はい。多分グラウンドにいると思います」
「そうか。案内してくれるか」
「はい」
 不知火は少女の案内でグラウンドに案内され、その場所に驚く。何と案内されたのは野球部のグラウンドだったのだ。驚きながらもノックをしているのでボールに当たらないように遠回りでホームベース側に行くと、二人に気づいた野球部員の青年が驚いた声を上げて駆け寄ってくる。
「え?川越中の不知火が何で…って背中にいるの真理ちゃんじゃないか!どうしたんだよ」
「自転車で自爆事故起こしちゃって足骨折しちゃって…ここ来る途中のこの人に助けてもらったの。でも森脇さん、その顔からすると、この人何か有名な人なの?」
「真理ちゃん…まあ、真理ちゃんは野球に特別詳しい訳じゃないから知らないか。彼は中学野球の関東大会でパーフェクト優勝をもぎ取った投手だよ」
「え~?そうだったんだ。だとするとここに来ようとしてたって事は、最初から野球部の見学が目的だったんですか?」
「ああ、実はな」
「そうだったんだ…そうだ。森脇さん、お兄ちゃんいないみたいだけどどこかな。この人にお医者さんにかかるお金借りちゃったから、お父さんに連絡取ってもらいたいんだ」
「うえっ、天下の不知火に借金したのかよ!さすが真理ちゃんだな…ああ悪い、あいつなら屋内練習場で大崎の球受けてるから…え~と、とりあえず訳話して今呼んでくるわ」
 不知火は彼女を用意してもらった椅子に座らせて彼女の『兄』という男を待つ。しばらくして二人の所にキャッチャー姿の青年が走ってきた。青年は二人の所へ来るなり少女に向かって説教をする。
「真理!自爆事故で骨折って…何やってるんだ!」
「ごめんなさい…」
 しゅんとしている少女が見ていられず、それに元はと言えば原因は自分にあるので不知火は青年に説明する様に割って入る。
「すいません、元はと言えば俺の不注意で、彼女は俺を避けようとして事故を起こしたんです。彼女は何も悪くありません」
「ううん、あたしがもっと気をつけてればこんな事にはならなかったんだもん。悪いのはあたしなの、ごめんなさい…」
「…」
 青年は言い争う二人をしばらく見つめていたが、やがて小さくため息をつくと、穏やかに口を開く。
「…骨折って聞いてついカッとなったが、どっちが原因でも起きた事はしょうがないさ。で、ケガの程度はどうなんだ?」
「ああ、はい。ええと…」
 不知火が大枠を説明すると青年は苦笑いをして言葉を紡ぐ。
「そうか…まあ、その程度の骨折だったのは不幸中の幸いか。大変なのは確かだけど手よりはまだ自由が利くしな。ありがとう、不知火君。それに妹が迷惑をかけて申し訳なかった」
 そう言って頭を下げる青年に不知火は慌てて言葉を返す。
「いえ、顔を上げてください。どちらにしろ俺はここに来るつもりだったんですから。それよりこんな形で乱入して申し訳ないんですが、練習を見学させてもらっていいでしょうか」
 不知火の言葉に青年はにっこり笑って応える。
「ああ、こっちこそ見ていってほしいよ。それで気に入ってうちに来てもらえれば万々歳だしね」
「そうですか」
 そう言って二人は笑い合う。そうしてひと時笑い合った後、青年は名乗りを上げる。
「ああ、自己紹介が遅れたね。俺は大久保誠、この野球部の一応キャプテンだ」
「え?あなたが大久保さん…?」
「何かおかしいか?」
「ああ、いえ…そんな事は。ええとこちらも。不知火守、川越中学の三年生です」
「ああ、知ってるよ。各高校引く手あまたのパーフェクト投手がうちから出向く前に逆にうちを訪ねてくれるなんてね。光栄だな、歓迎するよ」
 リードの評判とは裏腹の穏やかで朗らかな雰囲気に不知火は戸惑いつつもふっと彼こそが自分の求めているキャッチャーだと何故か思えて不思議な気持ちになる。そんな気持ちを抱えながら、ふと傍らで二人をにこにこ笑いながら見ている少女に目が行き、そういえば医者にも付き添ったのに、名前をちゃんと聞いていなかった事を思い出し、少女に問いかける。
「そういえばケガの事に夢中で君の名前も聞いてなかったな。ついでみたいで悪いが、教えてもらえるかな」
「真理、お前名乗らないで金まで借りたのか?仕方ない奴だな」
 二人の言葉に『真理』と呼ばれた少女はやっと気が緩んだのか性格が表れたような明るい表情でぺろりと舌を出してその言葉に応える。
「ごめんなさ~い。あたしもびっくりしてテンパってたの…ええと、あたしは大久保真理子っていいます。ここの近所の中学の二年生で、ここにいる大久保誠の妹です。不知火さん、今日は本当にありがとうございました」
「いや、おかげでこうやって堂々と野球部の練習を見学できる権利がもらえたんだ。こっちこそありがとう」
「えへへ…」
 彼女を元気づけるためと、縁を作ってくれた感謝を込めて悪戯っぽく言葉をかけると、彼女は照れ臭そうに、でも少し嬉しそうに笑った。その表情が何となく可愛いと思う自分を感じ、不知火は戸惑いつつも笑い返した。その様子を穏やかな笑みで見つめていた誠は気持ちを切り替える様に二人に声をかける。
「じゃあ、父さんに車でここに来てもらう様に電話するから…真理はそれまで今マネージャーに言ってうちの部の氷嚢借りてやるから、それで足冷やしながらここでおとなしく練習見てろ」
「でも部の消耗品勝手に使っていいの?身内とはいえ部外者だよあたし」
「だから中身の代金は俺個人持ちだ、子どものくせに余計な心配するな」
「うん、そう言う事なら…そうする」
「よし。不知火君はまず投球練習から見てもらおうかな。先に電話かけなきゃいけないが、練習場に案内するから俺についてきてくれ」
「あ、はい」
 そう言うと誠は不知火を案内しつつまず校舎の公衆電話で父親らしい人間に電話をかけた後、室内の投球練習場に連れて行き、自らも練習を始める。その内容に不知火は目を見張った。投手のコンディションを見極め、崩れている部分を修正する形の適切なリードと声掛け、そして自らも省みるためか投げているピッチャーや後輩のキャッチャーの意見を取り入れながら自らも修正しつつ、更にキャッチングをしていく。その謙虚な態度とそこから生まれるバッテリーの信頼関係がよく投影されたピッチング練習が不知火にはとても魅力的に思えた。そうしてしばらくした後全員が引き揚げて今度はグラウンドでバッティング練習。バッティングと一緒に外野守備を全員持ち回りにして遠投練習も兼ねた練習で休息と活動がそれぞれ均等にいきわたるようにした練習内容。その中でも誠は一番積極的に動き、声を出していた。今まで見たことのない練習内容とキャプテンの姿に目を見張る不知火を見ていたのか、先刻真理子が話しかけていた森脇という青年が彼に声を掛けてくる。
「…びっくりしたか?」
「え?…はい、こんな練習の仕方、見た事なかったんで」
 不知火の言葉に森脇はふっと笑いながら言葉を紡ぐ。
「全部…誠が最初に言い出したんだよ。神奈川じゃ土井垣ばっかり有名になってるが…あいつこそスターになれる選手なのに、そんな事頓着もしない。それどころか『一人のスターを作るより、全員が底上げした方がいいチームができるし、アクシデントにも強くなるだろ』って練習方法から意見の吸い上げと還元から全部考え出して監督に意見したんだ。最初は反発も多かったが…あいつの一生懸命さを見てると皆それぞれちゃんと思ってる事を言いたくなってきてな…いつの間にか皆で練習方法から何から話し合う様になって今の形を作っていったんだ。もちろんキャプテンのあいつが皆をまとめあげて引っ張る役目を果たしてるし、そうじゃなくても真っ先に自分から動いてるのは確かだから、一番負担が多くもあるんだがな…」
「そうですか…」
「おい卓也~!悠長にしてるな!次はお前の番だぞ!」
「ああ悪い、今行くぜ!…こんな普通からしたら変に見えるだろう野球部だが、気に入ってくれると俺としても…俺がここ好きだから嬉しいな。じゃあな、ゆっくり見ててくれ」
「…」
 森脇の言葉通りの笑顔と練習をしている部員たちの表情で、不知火はこの部での誠の一生懸命さがどれだけ部員達に信頼され、そしてそれぞれの部員が自分の実力を上げるモチベーションを持ち続ける事ができる環境なのかという事がよく分かる。その雰囲気と何より誠の人柄と姿勢に、ああ、ここが自分の求めていた場所だ――心からそう思った――

 そうして打撃練習の後クールダウンをして練習が終わり、『皆で使ったものは皆で片づける』との下にやはり先輩後輩関係なく分担して片付けを行い、汚れたユニフォームを自身が洗濯当番だという事で誠がまとめ、洗濯をしながら、マネージャーが各々の身体の状態を聞いてまとめたノートに目を通し、それぞれの担当らしい部員と話をしてミーティングの内容を練っている。そんな誠の様子とそれを感心して見つめている不知火を真理子は足を冷やしながら楽しそうに見守っていたが、やがてその様子のままに問いかける。
「どうですか?ここっていうか…お兄ちゃん好きになってくれました?」
 真理子の言葉に不知火は感服した口調で答える。
「ああ、練習の内容やみんなの雰囲気はもちろんだけど…君のお兄さんの様子に正直言って目が覚める思いだ。俺と二つしか違わないのに…こんな視野が広いと思えた人初めてだよ」
「そうですか」
 真理子はにこにこ笑いながら更に続ける。
「じゃあ不知火さんがスター選手だって事であたしからおまけの話。森脇さんはああ言ってましたけど、お兄ちゃんはスターが嫌いって訳じゃないんです。でもお兄ちゃんはスターって言うのは飽きられたり、成績が悪くなった時に周りから手の平を返される事をよく分かってるから…そうなった時に悪い方向に行かない様に皆で支え合って、特にいい所は伸ばすの当たり前でも、苦手な所の底上げをして、できるならピッチャーとキャッチャーは特別ですけど、それ以外だったらどのポジションも守れて、打つべき時に打てる様な総合的にいい選手にするのがその人のためだっていう考えなんです」
「真理子ちゃん、すごいな。俺より年下だろ?なのにお兄さんの考えちゃんと分かってるなんて」
 不知火がそう言うと、真理子はふっと寂しい表情を見せて言葉を返す。
「だって…お兄ちゃん自体がそういう思いすごくしたの…あたしちゃんと見てるから」
「それは…?」
 真理子は遠い眼をして、静かに言葉を紡いでいく。
「お兄ちゃん、中学の頃は才能あるキャッチャーって有名ですごく騒がれて、周りも華やかだったの。でも中三の時に怪我してしばらく試合出ない間にリードの調整ちょっと狂わせて復帰した時負けが続いただけで…いっぱい酷い事いろんな人に言われたんだ。そうして皆の関心は今は明訓の土井垣さんに行っちゃったの…あたし達の前じゃ気にしてない振りしてたけど…相当酷い事言われて、部屋で悔し泣きしてたの…あたし知ってるもん。だから…そんな思いもう自分もしたくないし、何よりその頃からバッテリー組んでる大崎さん筆頭の、大好きな仲間にはしてほしくないんだよ…あたしがどんなに子どもでも、それくらいは分かるよ」
「…そうか」
「…うん」
 不知火は真理子の話から誠に、挫折から這い上がった者の強さとしなやかさを感じた。ハンデを持っているものの才能に恵まれたおかげで自分がまだ持っていない、しかし身につけなければいけないと無意識に感じていたものを誠が持っていて、自分がそれを彼から受け取りたいからこそ自分は誠に惹かれたし、何よりここが自分の求めている場所だと思ったのか――ミーティングの打ち合わせを続ける誠を見つめながら、不知火はぼそりと呟く。
「…俺、大久保さんに球を受けてもらいたい。だからここに入るって決めた」
「不知火さん?」
「きっと大久保さんなら俺のこの目だって、ハンデじゃなくて特徴として生かしたリードをしてくれる。…いいや、何より大久保さん達のあの輪の中に入りたい。だからここに入る」
「…ありがとう、不知火さん」
 真理子は静かに、しかし温かな声でその言葉に応える。やがて誠が仕事にひと段落つけ不知火の所にやってきて、申し訳なさそうに彼に声をかける。
「ごめんな不知火君放っておいてしまって。どうだったかな、感想としては」
 不知火は爽やかな笑みでその言葉にはっきり答える。
「今真理子ちゃんと話していたんですが…練習を見て、俺の場所はここだって確信しました。だからここに入る事を目指します。だから…俺が来るのを待っていて下さい。それで…ちょっとハンデがある俺ですけど…俺とバッテリー組んで下さい。お願いします」
「『ハンデ』?」
 不知火の言葉に怪訝そうな表情を見せた誠に、真理子には話したものの、彼にはまだこの目の事は何となく話したくなくて言葉を濁す。
「入学できたら…話します。だから…とにかく目標は入学試験合格ですね」
 不知火が濁している心情を察したのか、誠は静かに頷くと、更に言葉を重ねる。
「…分かった。ああそうだ、本気でここを受ける気だったら、協力するよ。もう中学の野球部は引退してるだろ?練習の流れを覚えるためと、なまった体をリフレッシュするついでに、ユニフォームと勉強道具持って練習に来るといい。何かメニュー作って体動かせる様にするし、野球だけで成績おろそかにしたら本末転倒だって部内で勉強会もしてるから、その時一緒に俺達で受験勉強も教えるよ。未来の先輩の手を借りるってのもいいだろ?実際今年はそうやって入ってきた後輩も何人かいるんだ」
「…ありがとうございます。是非お願いします」
 そう言って笑い合う二人に真理子は嬉しそうな歓声を上げる。
「嬉しいな~!お兄ちゃん大好きな人がまた一人増えた」
「こら真理、俺個人じゃなくて野球部がだろう?」
「そうかもしれないけどさ~」
「いえ、野球部もそうですが、大久保さん個人も好きになってますよ、俺」
「え…そうか?」
 そう言うと三人は朗らかに笑った。そうしたしばらく後に誠と真理子の父親が来て恐縮しながら不知火に治療費を返すと、時間も遅いので真理子と一緒に車に乗せてもらって駅まで連れて行ってもらう。そうして駅に着いて車を降りる時に、彼女に言葉をかける。
「じゃあ…すまなかったな。足、大事にしてくれよ」
「ううん…それより不知火さん、本当にお兄ちゃんのところに行って、バッテリー組んであげてね。あたしは不知火さんの事よく知らないけど、パーフェクト投手になるって事がどれだけ大変なのかは分かるから…その目で…パーフェクト投手になったくらい不知火さんみたいな頑張り屋の人だったらきっと大崎さんと同じか…それ以上にお兄ちゃんも力出せるし、不知火さんの力も出してあげられると思うから」
 真理子の一生懸命な言葉に兄を想う気持ちがよく分かり、不知火は胸が一杯になりつつも、自分の決意も彼女にはなぜか伝えたくて力強く言葉を返す。
「ああ、約束する。それできっと…二人で最高のバッテリーになってみせるよ。だから真理子ちゃんからだったら俺の秘密話してもいいから…こんな俺でもいいなら、お兄さんに待っててくれって言ってくれよ」
「…うん。ありがとう、不知火さん」
 そう言うと不知火はドアを閉め、車は走り去って行った。新たな決意を胸に不知火は電車に乗る。その時も金木犀は柔らかに香っていた――