7月の日曜日、オールスターに出場しなかった義経は恋人の若菜に誘われて彼女の芝居の稽古を見学しに、小田原のある施設の一室に来ていた。そもそもこの見学の話は今年の東京スーパースターズが山田の故障によってチーム全体も動揺し苦戦していて、チームメイトである彼もまたあまり目立たないが守備や打撃に影響が出ている事に気付いた彼女が、早いうちから『オールスターの予備日から稽古が午後と夜間になるんです。オールスターが終わったらしばらくお休みでしたよね。いつも試合に招待してもらっているお礼に、もしだったら一度気分転換にうちに泊りがてら稽古を観に来ませんか?』と誘ってくれていた彼女の思いやりが嬉しいという思いのままに受けたのである。彼女の劇団はアマチュア劇団と言う事でそれぞれが仕事をしながら活動している事もあり、稽古日に仕事が入って遅刻や欠席をせざるを得なかったりして全日程全ての時間に出られる事はまれなので、その分限られた練習時間を集中して稽古に励んでいた。今年も演目は小田原藩を舞台にした時代劇で、今回の彼女の役どころは小さい頃に火事で焼け出され記憶を失い孤児として育ってきた本当は姫である町娘という、出番や芝居の主題自体にはあまり関係がないが、重い主題の演目に華を添えつつ、演技的には町娘と姫の二種類を演じ分けねばならない難しい役どころだった。この役に抜擢された若菜は役が決まってから片時も台本を手放さず、仕事や彼との時間以外はどうやらずっと読んでいる様で、彼と過ごす甘い時間の時にも、時折ふっと思い出した様に考え込む様子を見せている事に義経は気づいていた。そんな若菜の一生懸命さを見ていると、一抹の寂しさを感じるとともに、もしかすると野球や修行に対する自分もこの様な様子で同じ様に彼女に寂しい思いをさせていたのかもしれないと自らを省みて苦笑していた。しかし、彼女の一生懸命さを応援したい気持ちも確かで、そうした気持ちのままに見守っている稽古中の彼女は本番さながらにまったく手を抜かず、時折冗長になりかける稽古状態を引き締めていて、彼は自分も今の彼女の様に野球に取り組もうと改めて自覚し、その自覚をくれる彼女がとても大切な存在に思えていた。そうして夕方になり夜の稽古に向けての休憩に入ったところで、一部の中年男性の座員達が口々に彼に話しかけてくる。
「いや~ごめんね、義経君。放置しちゃって」
「いえ、勝手に見学に来ているのですから…」
「でも嬉しいねぇ、いくら若菜ちゃんと縁があるからってスターズの名手義経君が見学に来てくれるっていうのは…どうだい?感想は」
「あ…ええ…二年前から公演を観ていますが、あの素晴らしい舞台の裏では、皆さんこれ程努力されているんだと分かって感嘆しています」
「そうだろそうだろ?来週からは土曜日や休日はセットを作るからもっと大変だよ~」
「はあ…そうですか…」
 自分が有名人だという事で歓迎しているのが明白な上、苦労話もこうあけすけに言われると彼らには悪いと思うがどうにも不快で、頭を回転させ何とか彼らから逃れるための口実を口にする。
「あの…申し訳ありませんが、こちらの座長さんにまだきちんとご挨拶をしていないので、今の内にしますので…すいませんが失礼します」
「礼儀正しいねぇ、座長の事なんか気にしなくていいのに」
「いえ、そうもいきませんから。では」
 そう言うと義経はすっと立ち上がり、ちょうど若菜と話している座長の関谷の元へ行き、「失礼します」と二人に声を掛け、すっと正座をして挨拶をする。
「申し訳ありません、ご挨拶が遅れて。今回は見学の許可を頂いて、ありがとうございます」
 義経の挨拶を見た若菜も気がついて、彼に倣って姿勢を正し謝罪の言葉を述べる。
「座長、申し訳ありませんでした。私の我儘を通してしまって…やはり皆さんの集中を乱していますね。今言った通りあまり今回は稽古になっていない気がして…本当に申し訳ありません」
 二人の言葉に、関谷はにっこり気のいい笑顔を見せると、明るく言葉を返す。
「構わないよ。若菜ちゃんもあんまり細かい事は気にしないの。疲れちゃうよ?それに、たまには外部の人間の目が入った方がいい…大体義経君がいなくてもいつもこんな感じじゃないか」
「…は?」
「ああ、いや…何でもないよ。ところでどうだい?観た感想は。正直に言っていいから」
 最後の言葉をふっと厳しい表情で呟いた関谷に気付き、義経が怪訝そうな表情を見せたのを見て、関谷は取りなす様に笑うと彼に先刻の男性達とは違い、芝居に対する真摯な気持ちが分かる口調で彼に感想を聞く。その心が分かり、義経は正直に感想を述べた。
「いえ…毎年思っていたのですが、脚本が素晴らしくて。…そして皆さんの…誰より若菜さんの演技の一生懸命さが素晴らしくて、自分の野球での努力を省みるいい機会になりました。もちろん芝居も、完成したものを観るのが楽しみです」
「言ったね、義経君。やっぱり若菜ちゃんの演技ばっかり観てたんだ」
「あ…」
「…」
 思わず口を滑らせた義経の言葉を聞いて、関谷はからかう様に言葉を紡ぐ。その言葉に義経も若菜も赤面して俯いた。それを見て関谷は笑うと、ふっと優しい口調で続ける。
「でもまあ、そうだろうね。若菜ちゃんの一生懸命さは、座員の中でも一、二を争うから。その一生懸命さは自然と役者として目立つだろう?それが彼女の演技の一番いい所だよ。努力っていう部分は、僕も確かに若菜ちゃんを見習うのはいい事だと思うよ。義経君」
「そうですか…」
「座長…」
 関谷の言葉に二人とも芯の強い温かさと優しさを感じて何も、お礼すら形式的になる様な気がして言えなくなる。そうした様子が分かったらしい関谷はにっこり笑って頷いた。と、部屋の入り口から豪快な声が聞こえてくる。見ると、この芝居の脚本を書いた後藤だった。
「よお、やってるかい!」
「あ、後藤さん。こんにちは」
「ゴンちゃん、稽古見に来たのかい」
「ああ。…おっ?そこにいるのは確か、義経とかいう神保の男だったよな」
「ああ…はい、ご挨拶が遅れて申し訳ありません。義経光です」
 関谷にした様に礼儀正しく挨拶をする義経を照れくさそうに止めながら、後藤は豪快に言葉を紡ぐ。
「ああああいいから。そんなにかしこまるなって!で、何でその義経がここにいるんだよ」
 後藤の言葉に若菜が恥ずかしそうに俯きながら言葉を紡ぐ。
「すいません…私が『観に来ませんか』って誘いました」
「そうかよ、まあ観てってくれや。…でも」
「はい?」
 後藤はふっと義経を上から下まで何かを感じた様に見つめる。その視線に少し戸惑いながら問いかけた義経に、後藤は腕を組んで感心する様に言葉を返す。
「…いや、今の若いもんで、これだけ見た目も内から出る雰囲気も昔ながらの匂いが出てる、うちの役者向きの人間は珍しいなと思ってよ。お前が日曜の稽古に出られるんだったら勧誘を秀さんに頼むんだがなぁ。お前プロ野球選手だったよな、この時期日曜日は出勤だ。悔しいぜ!」
「あ…ああそうですか、褒めて下さってありがとうございます」
 後藤の思ってもみなかった言葉に義経は狼狽しつつ応えた。