そうして夜の稽古を始めようという段になって、不意に座員の一人の携帯が鳴る。電話に出た座員が『え~!?』という声を上げ、慌て出したのを見て座員達はどうしたのかとその座員に視線が集まる。電話を切ったところでその座員は演出の臼田に向かって途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「どうしよマーちゃん。…信ちゃんが、仕事の移動中に事故ったって…」
「ええっ!?で、どうなの容体は!?」
「本人からで、命には全く別状ないけど手と足骨折で全治二カ月、リハビリ加えると三カ月以上かかるかもしれないから公演無理だって…」
「信ちゃん相模屋だろ?ただでさえ今年役者足りないのに、前半のメインキャラじゃん!代役ったってあの役はそう簡単に代役立てられないよ?」
「うん、だから申し訳なくて治療終えてすぐの今に掛けてきたみたい。どうする?マーちゃん」
「どうするったって…」
かなり深刻な緊急事態に座員一同は蒼白になって沈黙する。義経もこんなところでまで怪我でのトラブルが付いてきた事で、自分がもしかして災厄を運んで来てしまったのだろうかと気持ちが暗くなる。そんな気まずい沈黙を破る様に、後藤が臼田に言葉を掛ける。
「おい臼田、お前確か人足りなくて最終場の藩主役だったな」
「ああ、そうだけど…」
「おい義経、お前いつも当日観に来てるって事は、クライマックスシリーズがギリギリまで続いたとしても10月最後の土日は空くよな」
「え?…はい、第二シリーズが最終戦までいっても木曜までですし、日本シリーズ開始までそれから一週間ほど空きますから練習がもしあったとしても監督に頼めば多分何とか。…でもそれが何か…」
臼田と義経の返答に続けて、後藤は座員にも義経にも考えられない折衷案を口にする。
「なら決まった。臼田、お前が相模屋をやれ。それで空いた藩主大久保忠朝役は義経、お前だ」
「…は?」
「ええっ!?ちょっと待ってよゴンちゃん!俺の相模屋はともかく、義経君は座員じゃないし、芝居は確か素人だよ?」
「藩主は出番少ないけど結構存在感あるじゃん!義経には荷が重すぎるよ!」
慌てる臼田や座員達も気にせず、後藤は言葉を紡いでいく。
「確かに芝居は素人かもしれねぇが、こいつには俺の見た所じゃ、それ以上の今お前が言った存在感がある。藩主はセリフも少ねぇから、すぐに覚えられる。後は声の出し方と所作を秀さんと宇佐美さんに仕込んでもらえばこいつなら絶対できる。…義経、やってくれねぇか。…どうだい秀さん、宇佐美さん、義経を仕込んでみちゃあ」
そう言葉を紡いだ後藤の目を見ていた関谷と宇佐美は彼の本心を読み取り、静かに頷くと口々に義経に声を掛ける。
「…よしゴンちゃん、やってやろうじゃねぇか。…義経君、どうだい。受けてくれないか」
「稽古に中々来られない分は、オフに小田原に来てくれれば僕達が個人的に家で指導するし、若菜ちゃんにも協力してもらう。助けると思ってやってくれないかな」
「秀さん!無謀だよそれ!」
「宇佐美さんも何考えてるのさ!」
口々に非難する座員に対して、宇佐美と関谷は静かに言葉を返す。
「じゃあ、公演まで二ヶ月半、稽古は10回もない。その条件で皆今から男優一人探してこられる?」
「それは真佐子に頼めば一人くらいなら何とか…」
「でもうちの座にはうちの座のやり方がある。奥村が連れてくるのは、いい意味でも悪い意味でも主役を張る様な役者じゃねぇか。そういう奴は概して我が強い。うちのやり方に反発されて直前に降りられでもしたら、余計に厳しいぞ。義経君は役者経験がないかもしれないが、その分実直なのは今までの態度を見てれば分かる。その実直さを信じたい。それにゴンちゃんの言う通り、彼の雰囲気なら藩主役にぴったりだ。責任は俺と秀さんが取る。やらせてみないか」
「…」
二人の言葉に座員達は何も言えなくなる。義経は若菜がどう思っているか知ろうと彼女の目を見る。彼女は他の座員と違って、三人の言葉に奥の意味があると思っているのか、静かで芯の強い、しかし彼らの心意気を受けて欲しいと頼む様な眼差しで見つめ返した。その反応で義経の心は決まった。義経はそれを口にする。
「皆さんの足を引っ張る事になるかも知れませんが…やらせて頂けませんか。僕も皆さんの仲間に入りたいです」
「…」
「光さん…」
義経の言葉に座員達は言葉を失い、若菜は何故か彼らに気づかれない様に感謝の眼差しで見つめた。その言葉に宇佐美と関谷が力づける様に言葉を返す。
「ありがとう、俺達の無理を聞いてくれて」
「僕達でできる限りの事は教えるから。それから若菜ちゃん…若菜ちゃんも協力してくれるよね」
そう言って微笑みながら、しかしその眼差しに何か意味を込めて言葉を紡いだ関谷の心を受け取った様に若菜は頷き、静かに言葉を返す。
「はい、私にできる事があるならですが」
「まあ、セリフを覚えたか確認する位なら大丈夫でしょ?…という訳で座長権限で今のゴンちゃんの提案は決定するから。義経君、よろしく」
「…はい、よろしくお願いします」
「…あ、一つだけ条件を付けるよ。彼を客寄せパンダにしたくないから、彼には芸名を付けて当日まで分からない様にする。皆も彼が今回の芝居に出るって事は内密にする事。いいねゴンちゃん」
「それはもちろんさ秀さん。義経目当ての客を狙う様じゃ、うちの座の沽券にも関わる」
「…」
座員達はまだ何か言いたそうだったが、関谷の穏やかだが、芯は強い言葉に何も言えずに沈黙していた。関谷はそれを肯定ととらえ、臼田に言葉を掛ける。
「じゃあ確かスタッフに渡す台本があったよね。もう一部コピーさせるのは悪いけど、義経君に渡してあげて」
「…ああ」
「じゃあ稽古始めよう。義経君はとりあえずざっとでいいから台本を読んで。若菜ちゃんは、義経君について大体の説明をしてあげて」
「はい」
そうして義経は台本を渡され、他の人間が稽古をしている間に若菜から簡単な説明を受ける事になった。とはいえ彼は自分で受けた事とはいえ演技などした事がないので、若菜に困った様に問いかける。
「若菜さん、ああは言ったが…確かに皆が言う通り俺は芝居に関しては素人だ。演技と言うものはどうしたらいいのか…」
義経の言葉に、若菜は静かに言葉を返す。
「演技の技術論に関しては、私も何も言えません。ただ、私が芝居をする時にたった一つだけ心がけている事があります」
「それは…?」
「『相手の言葉をきちんと受け止める事』です」
「『相手の言葉を受け止める』…?」
「演技とかセリフとか言っていますが、基本はこれも会話です。どんないい演技を作ったと本人が思っても、相手とかみ合わなければいい演技とは言えません…いいえ、それどころか何の意味もありません。相手の言葉を受け取って、それに対してどう思ったか、その想いを決められたセリフに乗せて動いていく、そうすればおのずとある程度の演技は出来ます。後はその想いからどんな性格が浮かぶかで役を作っていく作業です。後藤さんの作品はきちんとそうできる作品ですし、役作りは宇佐美さん達に任せれば大丈夫です。光さんは演技をしようとは思わないで、自分が感じたままにセリフを言って下さい。それで大丈夫です」
「若菜さん…」
「とはいえ、藩主のセリフは稽古を観ていたから分かると思いますが、他の役者と絡む要素がありません。じゃあここで光さんに最初の課題を出します。藩主の心を知るためにはどのセリフを気にすればいいでしょう。藩主の場合全部を読めばまた色々想いが出てきますが、とりあえず基本の所は最終場だけ読めば大丈夫なので、まず最終場だけ読んで光さんが思った答えを出してみて下さい。その方が分かりやすいかと思います」
「ああ」
義経は最終場の部分を読んでいく。若菜に言われた通り、そこに書かれた心を読み落とさない様に――そうして読んでいるうちにある部分で彼の心が動いた。彼は彼女にその答えを口にする。
「もしかして…この遺言状の部分だろうか」
義経の言葉に、若菜はにっこりと微笑むと、静かに言葉を返す。
「分かったじゃないですか。光さん、ちゃんと台本を読み込む力がありますよ。こうして少しずつ読み解いていけばいいんです。後は全部をじっくり読んで、この芝居が何を言いたいのか理解して下さい。そうすればおのずと芝居ができていきますよ。座長達はああ言いましたが、『もう二ヶ月半しかない』じゃなくて、『まだ二ヶ月半もある』んです。こうやって私が少しヒントを出しただけで答えがすぐ分かった光さんなら、きっとできますよ」
力づける様に優しく言葉をかけてくれる若菜の心が嬉しくて、こうしていけば本当に自分でもほんの少しなら芝居ができるかもしれないという安心が出てきて、義経はまた熱心に台本を読み進めていく。言い回しなどは一見難しいが、修行のための経典でそうした難しい文章を読む事には特段抵抗がない上、何より難しくとも後藤のこの脚本を書いた心ははっきりと表れていて、読む毎に彼の心に染み透っていく。そしてざっと読んだだけなのに、義経は感動で涙が零れそうになっていた。
「…皆さんの演技だけでは分からなかった。こんなに素晴らしい脚本だったんだな。…ああすまない若菜さん。若菜さんの演技が悪いと言っている訳ではないんだ」
義経は感動を素直に口にした後、自分が言った言葉が若菜を傷つけるかもしれないと思い直して、申し訳なさそうに言葉を加える。しかし若菜はその言葉にふっと寂しそうな微笑みを見せて、静かに義経に聞かせるでもなく言葉を紡いだ。
「いいえ…光さんの思った事は正しいですよ。…後藤作品の本当の感動は…今では台本そのものを読まないと…余程の通でない限り…分かりませんから」
「若菜さん…?」
あまりに寂しそうな表情を見せる若菜が不思議に思えて義経は彼女を見つめる。彼女はその眼差しに気付くと、宥める様な明るい微笑みに表情を変えて、更に言葉を重ねる。
「…つまり、光さんはちゃんと台本が読みこめているって事ですよ。少し大変ですが、これからは今みたいに試合の合間とかに少しずつでいいから読みこんで行って下さい。これは今のスターズにも言える事だと思いますが、皆さんの力を借りて、やるだけの事はやってみましょう?それに、こんな事を言ったら勝手だとは思いますけど…光さんと一緒に舞台に立てるとは思っていなくて、私…本当の事を言うとすごく嬉しいし、心強いんですから」
「若菜さん…ああ、そうだな。やってみよう…そして…その心を試合にも生かそう。そうしていけばきっと…スターズも復活するし、芝居もうまくいく。…そう思えた、今」
「…良かった。こんな形で申し訳ないですけど、光さんの力になれて」
二人は微笑み合う。そうしてしばらくしてその日の稽古は終わった。
「どうしよマーちゃん。…信ちゃんが、仕事の移動中に事故ったって…」
「ええっ!?で、どうなの容体は!?」
「本人からで、命には全く別状ないけど手と足骨折で全治二カ月、リハビリ加えると三カ月以上かかるかもしれないから公演無理だって…」
「信ちゃん相模屋だろ?ただでさえ今年役者足りないのに、前半のメインキャラじゃん!代役ったってあの役はそう簡単に代役立てられないよ?」
「うん、だから申し訳なくて治療終えてすぐの今に掛けてきたみたい。どうする?マーちゃん」
「どうするったって…」
かなり深刻な緊急事態に座員一同は蒼白になって沈黙する。義経もこんなところでまで怪我でのトラブルが付いてきた事で、自分がもしかして災厄を運んで来てしまったのだろうかと気持ちが暗くなる。そんな気まずい沈黙を破る様に、後藤が臼田に言葉を掛ける。
「おい臼田、お前確か人足りなくて最終場の藩主役だったな」
「ああ、そうだけど…」
「おい義経、お前いつも当日観に来てるって事は、クライマックスシリーズがギリギリまで続いたとしても10月最後の土日は空くよな」
「え?…はい、第二シリーズが最終戦までいっても木曜までですし、日本シリーズ開始までそれから一週間ほど空きますから練習がもしあったとしても監督に頼めば多分何とか。…でもそれが何か…」
臼田と義経の返答に続けて、後藤は座員にも義経にも考えられない折衷案を口にする。
「なら決まった。臼田、お前が相模屋をやれ。それで空いた藩主大久保忠朝役は義経、お前だ」
「…は?」
「ええっ!?ちょっと待ってよゴンちゃん!俺の相模屋はともかく、義経君は座員じゃないし、芝居は確か素人だよ?」
「藩主は出番少ないけど結構存在感あるじゃん!義経には荷が重すぎるよ!」
慌てる臼田や座員達も気にせず、後藤は言葉を紡いでいく。
「確かに芝居は素人かもしれねぇが、こいつには俺の見た所じゃ、それ以上の今お前が言った存在感がある。藩主はセリフも少ねぇから、すぐに覚えられる。後は声の出し方と所作を秀さんと宇佐美さんに仕込んでもらえばこいつなら絶対できる。…義経、やってくれねぇか。…どうだい秀さん、宇佐美さん、義経を仕込んでみちゃあ」
そう言葉を紡いだ後藤の目を見ていた関谷と宇佐美は彼の本心を読み取り、静かに頷くと口々に義経に声を掛ける。
「…よしゴンちゃん、やってやろうじゃねぇか。…義経君、どうだい。受けてくれないか」
「稽古に中々来られない分は、オフに小田原に来てくれれば僕達が個人的に家で指導するし、若菜ちゃんにも協力してもらう。助けると思ってやってくれないかな」
「秀さん!無謀だよそれ!」
「宇佐美さんも何考えてるのさ!」
口々に非難する座員に対して、宇佐美と関谷は静かに言葉を返す。
「じゃあ、公演まで二ヶ月半、稽古は10回もない。その条件で皆今から男優一人探してこられる?」
「それは真佐子に頼めば一人くらいなら何とか…」
「でもうちの座にはうちの座のやり方がある。奥村が連れてくるのは、いい意味でも悪い意味でも主役を張る様な役者じゃねぇか。そういう奴は概して我が強い。うちのやり方に反発されて直前に降りられでもしたら、余計に厳しいぞ。義経君は役者経験がないかもしれないが、その分実直なのは今までの態度を見てれば分かる。その実直さを信じたい。それにゴンちゃんの言う通り、彼の雰囲気なら藩主役にぴったりだ。責任は俺と秀さんが取る。やらせてみないか」
「…」
二人の言葉に座員達は何も言えなくなる。義経は若菜がどう思っているか知ろうと彼女の目を見る。彼女は他の座員と違って、三人の言葉に奥の意味があると思っているのか、静かで芯の強い、しかし彼らの心意気を受けて欲しいと頼む様な眼差しで見つめ返した。その反応で義経の心は決まった。義経はそれを口にする。
「皆さんの足を引っ張る事になるかも知れませんが…やらせて頂けませんか。僕も皆さんの仲間に入りたいです」
「…」
「光さん…」
義経の言葉に座員達は言葉を失い、若菜は何故か彼らに気づかれない様に感謝の眼差しで見つめた。その言葉に宇佐美と関谷が力づける様に言葉を返す。
「ありがとう、俺達の無理を聞いてくれて」
「僕達でできる限りの事は教えるから。それから若菜ちゃん…若菜ちゃんも協力してくれるよね」
そう言って微笑みながら、しかしその眼差しに何か意味を込めて言葉を紡いだ関谷の心を受け取った様に若菜は頷き、静かに言葉を返す。
「はい、私にできる事があるならですが」
「まあ、セリフを覚えたか確認する位なら大丈夫でしょ?…という訳で座長権限で今のゴンちゃんの提案は決定するから。義経君、よろしく」
「…はい、よろしくお願いします」
「…あ、一つだけ条件を付けるよ。彼を客寄せパンダにしたくないから、彼には芸名を付けて当日まで分からない様にする。皆も彼が今回の芝居に出るって事は内密にする事。いいねゴンちゃん」
「それはもちろんさ秀さん。義経目当ての客を狙う様じゃ、うちの座の沽券にも関わる」
「…」
座員達はまだ何か言いたそうだったが、関谷の穏やかだが、芯は強い言葉に何も言えずに沈黙していた。関谷はそれを肯定ととらえ、臼田に言葉を掛ける。
「じゃあ確かスタッフに渡す台本があったよね。もう一部コピーさせるのは悪いけど、義経君に渡してあげて」
「…ああ」
「じゃあ稽古始めよう。義経君はとりあえずざっとでいいから台本を読んで。若菜ちゃんは、義経君について大体の説明をしてあげて」
「はい」
そうして義経は台本を渡され、他の人間が稽古をしている間に若菜から簡単な説明を受ける事になった。とはいえ彼は自分で受けた事とはいえ演技などした事がないので、若菜に困った様に問いかける。
「若菜さん、ああは言ったが…確かに皆が言う通り俺は芝居に関しては素人だ。演技と言うものはどうしたらいいのか…」
義経の言葉に、若菜は静かに言葉を返す。
「演技の技術論に関しては、私も何も言えません。ただ、私が芝居をする時にたった一つだけ心がけている事があります」
「それは…?」
「『相手の言葉をきちんと受け止める事』です」
「『相手の言葉を受け止める』…?」
「演技とかセリフとか言っていますが、基本はこれも会話です。どんないい演技を作ったと本人が思っても、相手とかみ合わなければいい演技とは言えません…いいえ、それどころか何の意味もありません。相手の言葉を受け取って、それに対してどう思ったか、その想いを決められたセリフに乗せて動いていく、そうすればおのずとある程度の演技は出来ます。後はその想いからどんな性格が浮かぶかで役を作っていく作業です。後藤さんの作品はきちんとそうできる作品ですし、役作りは宇佐美さん達に任せれば大丈夫です。光さんは演技をしようとは思わないで、自分が感じたままにセリフを言って下さい。それで大丈夫です」
「若菜さん…」
「とはいえ、藩主のセリフは稽古を観ていたから分かると思いますが、他の役者と絡む要素がありません。じゃあここで光さんに最初の課題を出します。藩主の心を知るためにはどのセリフを気にすればいいでしょう。藩主の場合全部を読めばまた色々想いが出てきますが、とりあえず基本の所は最終場だけ読めば大丈夫なので、まず最終場だけ読んで光さんが思った答えを出してみて下さい。その方が分かりやすいかと思います」
「ああ」
義経は最終場の部分を読んでいく。若菜に言われた通り、そこに書かれた心を読み落とさない様に――そうして読んでいるうちにある部分で彼の心が動いた。彼は彼女にその答えを口にする。
「もしかして…この遺言状の部分だろうか」
義経の言葉に、若菜はにっこりと微笑むと、静かに言葉を返す。
「分かったじゃないですか。光さん、ちゃんと台本を読み込む力がありますよ。こうして少しずつ読み解いていけばいいんです。後は全部をじっくり読んで、この芝居が何を言いたいのか理解して下さい。そうすればおのずと芝居ができていきますよ。座長達はああ言いましたが、『もう二ヶ月半しかない』じゃなくて、『まだ二ヶ月半もある』んです。こうやって私が少しヒントを出しただけで答えがすぐ分かった光さんなら、きっとできますよ」
力づける様に優しく言葉をかけてくれる若菜の心が嬉しくて、こうしていけば本当に自分でもほんの少しなら芝居ができるかもしれないという安心が出てきて、義経はまた熱心に台本を読み進めていく。言い回しなどは一見難しいが、修行のための経典でそうした難しい文章を読む事には特段抵抗がない上、何より難しくとも後藤のこの脚本を書いた心ははっきりと表れていて、読む毎に彼の心に染み透っていく。そしてざっと読んだだけなのに、義経は感動で涙が零れそうになっていた。
「…皆さんの演技だけでは分からなかった。こんなに素晴らしい脚本だったんだな。…ああすまない若菜さん。若菜さんの演技が悪いと言っている訳ではないんだ」
義経は感動を素直に口にした後、自分が言った言葉が若菜を傷つけるかもしれないと思い直して、申し訳なさそうに言葉を加える。しかし若菜はその言葉にふっと寂しそうな微笑みを見せて、静かに義経に聞かせるでもなく言葉を紡いだ。
「いいえ…光さんの思った事は正しいですよ。…後藤作品の本当の感動は…今では台本そのものを読まないと…余程の通でない限り…分かりませんから」
「若菜さん…?」
あまりに寂しそうな表情を見せる若菜が不思議に思えて義経は彼女を見つめる。彼女はその眼差しに気付くと、宥める様な明るい微笑みに表情を変えて、更に言葉を重ねる。
「…つまり、光さんはちゃんと台本が読みこめているって事ですよ。少し大変ですが、これからは今みたいに試合の合間とかに少しずつでいいから読みこんで行って下さい。これは今のスターズにも言える事だと思いますが、皆さんの力を借りて、やるだけの事はやってみましょう?それに、こんな事を言ったら勝手だとは思いますけど…光さんと一緒に舞台に立てるとは思っていなくて、私…本当の事を言うとすごく嬉しいし、心強いんですから」
「若菜さん…ああ、そうだな。やってみよう…そして…その心を試合にも生かそう。そうしていけばきっと…スターズも復活するし、芝居もうまくいく。…そう思えた、今」
「…良かった。こんな形で申し訳ないですけど、光さんの力になれて」
二人は微笑み合う。そうしてしばらくしてその日の稽古は終わった。