「…へえ、俺がいない間にそんな事があったんだな」
 三人から事の次第を全て聞いて、わざとらしく不満そうに口を開いたのはテオドール・シュライバー――今は亡きブロッケンマンの参謀であり、また親友でもあった男である。不満げな彼の言葉に、三人は申し訳なさそうに口々に言葉を紡ぐ。
「すいません。本当ならテオドールさんにもいて欲しかったんですけどテオドールさん、だんな様の葬儀の後すぐに隠密で視察に出ちゃったじゃないですか」
「『急な代替わりで親衛隊が動揺しているかもしれないから視察がてら鎮めてきてくれ』と頼んだのは他ならない俺だしな。外の面倒な仕事を頼んだ分、中の事くらいちゃんとしようと思ったんだ」
「いつ帰ってくるかわからない状態だったじゃない、どうしようもなかったのよ。機嫌直して…ね?」
 おたおたしながら彼の機嫌を取ろうとする三人を彼は不満そうにじとりと見詰めたが、すぐににやりと笑いかけて明るい口調で言葉を掛ける。
「冗談だよ。今の当主はお前で、実質この家を背負っているのはもうお前らなんだから、俺もハンスもお前らのやる事には基本的に口は出さねぇよ。…むしろお前らが自覚を持って動いた事の方が嬉しいぜ?…まあ一つだけ不満があるとすれば、あの部屋が開いた時に同席できなかった事だけかな。もう開けちまったものは仕方ないけどよ」
「…」
 少し寂しげに呟いたテオドールの言葉に、ブロッケンJr.は何ともいえない表情で彼を見詰める。ブロッケンJr.の視線に気が付いた彼は柔らかな微笑みを見せると、宥める様に言葉を続ける。
「だからそんな顔するなって。…同席できなかったのは確かに悔しかったけどよ、俺はあの部屋を開けてくれた事は感謝してるんだぜ。おまけに二人をきちんと逢わせてくれてよ…本当にありがとうな、三人とも」
「テオドール」
「テオドールさん」
「おじ様」
 テオドールの言葉に三人の表情が明るくなる。彼はその表情を見て満足げに頷くと、軽い口調でブロッケンJr.に言葉を掛ける。
「…ところでよ、一つ頼みがあるんだが…」

 その日の夜、テオドールは件の部屋に一人でいた。彼はブロッケンJr.に『今夜一晩部屋を貸切にしてくれ』と頼んだのだ。ワイングラスを片手にテーブルに着きゆっくりと一人飲みながら、彼は誰に話しかけるともなく呟く。
「…まったく、肝心な所で空回りする所は二人とも変わんねぇよな。…あれだけ惚れあってるくせに、最後の最後の時まですれ違っちまうんだから…」
 彼は二人が出会ってからの事をゆっくりと回顧しながら苦笑する。
「…ま、それだけ想いが強いって事なのかもしれねぇな。…だからあんまり嫌味を言うんじゃねぇぞ、クラウス」
 天上でおそらく二人と会ったであろう、一番最初にその世界へ旅立った親友に向かって彼は呟く。相変わらずの口調で親友であり主人である男にスパイスの効いた言葉を掛けて、妻にたしなめられる『親友』の姿を想像しテオドールはふっと笑うと、ふと表情を変えて、また虚空に向かって言葉を紡ぐ。
「アマーリエ、成長した子供に会った感想はどうだ?あいつの成長を誰よりも心配してたお前だもんな。ちゃんと元気で成長してくれてよかったと思っただろうな。それとよ…姉さんも元気でやっているそうだぞ…相変わらず会ってはいねぇけどな」
 テオドールはワインを一口飲むと、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「ここにいたなら直接言ってやりたかったが…本当に俺も最後の所で間が悪いよな。人の事は言えねぇって事か…」
 グラスのワインを一気に飲み干して、彼は部屋を見渡す。
『…ここは本当に、あの時のままだな…』
 彼はずっと昔、この部屋にあった風景を思い出す。この部屋の主だった自分の主人兼親友の妻が、赤子を出産した直後の事。祝いのために夫である親友はもちろん、もう一人の親友である執事夫妻とその息子、そして――自分とその妻になるはずであった恋人であり、祝いの主人公の姉である女性がそこにいた。ピアニストであった部屋の主がピアノを弾けば、酒場の歌うたいである彼女の姉が美しい声で歌い出す。執事夫婦が入れてくれたお茶を飲みながら語り合い、赤子と幼子は嬉しそうに笑い――
「…楽しかったよな、あの時は…」
 そう呟いて、たった一度しかなかった遠い過去の風景を今でもはっきりと思い出せる事に、彼は少し胸が痛んだ。あれからすぐ後ドイツには国を隔てる壁ができ、この部屋の主は姉と、そして自分は恋人と…そして彼女に宿っていた自分の子供と離れ離れになった。そしてそれから間もなくこの部屋の主が亡くなり、当主はこの部屋に鍵をかけた。幸せな記憶を封印するかの様に――彼もそれに倣い、決して過去の事を口に出す事はなくなった。それから永い時が経ち、全ては解放され、子供達は成長しそれぞれの責務を背負えるまでになったが、それを誰よりも喜びたかったであろう者達は今ではおらず、一人残った最愛の女性は遠く壁の向こう。超人である彼に国境はないので、連れて来ようと思えばそれは可能だが、それを彼も彼女も決して自分に許さない事は分かっている。
『別に昔のままでいたかった、とか言う訳じゃねぇけどよ…』
 あの時を共に過ごしていた仲間はここには誰もおらず、永らえて一人ここにいる自分――置いて行かれた様な寂しさがふっとよぎったが、彼はそれを否定する様に頭を振る。
『分かってるよ。…俺が今ここにいるって事は、お前らの分まで俺が見届けろって事だろ?だから、最後までちゃんと見届けてやるよ。ついでに俺はあいつともう一度幸せになってやる。そうやって最後までしぶとく生き抜いてから…俺はそっちに行くぜ』
 彼はグラスにワインを注ぐと、グラスの中の赤い液体を見詰める。
『…だからよ、ちゃんと待っててくれよ?それで俺達がそっちへ行ったら…あの時の続きで、また楽しくやろうぜ』
 テオドールはグラスを翳すと、天上にいる仲間達と遠く離れた最愛の女性に向かって呟いた。
「俺達の過去と未来に…乾杯」