「…昨日はクララだって?」
「ええ、夜中に水を飲みに来た時に聞いたって言ってたわ。怖い感じはしなかったらしいけど、ちょっと不気味よねぇ」
 台所で話しているのは、代替わりによりこの屋敷の新任執事になったエルンスト・ベルガーと、同じく新しく女中頭になったルイーゼ・エアハルト。内容はこの屋敷で最近起こっている怪奇現象についてである。
「…で、あの人は気付いてるの?」
「いや、あいつは寝つきがいいしな。それにあいつの事だ。話を聞いても『気のせいだ』ってほっとくんじゃないか?」
「そうねぇ…」
 二人は親友であり、主人であり、数ヶ月前この屋敷の当主になった青年の性格を考え溜息をつく。
「…で?どうするの」
「…そりゃ、直訴だろ」
 エルンストの言葉にルイーゼは頷く。
「そうね、屋敷の平安のために『ご主人様』に頑張ってもらいましょうか」

「…そうか、そんな事が…」
 エルンストとルイーゼの話を、この屋敷の当主である青年――ブロッケンJr.は興味深そうに聞き入る。
「ええ、だんな様が亡くなってからかしら。夜中になると屋敷の部屋から、ピアノの音と女性のすすり泣きが聞こえてくるのよ」
「へぇ、そうすると原因は親父か?親父に化けて出てくるような女がいたとはなぁ…」
 あくまでお気楽なブロッケンJr.に、エルンストはぴしりと言う。
「そう呑気にもしてられないぞ。…お前、ピアノの音で気付かないのか」
 エルンストの言葉に、ブロッケンJr.は『事の次第』に気付きハッとする。
「ピアノの音…って事はまさか…」
「そう、幽霊が出るのは今まで閉めてた奥様の部屋」
 ルイーゼは小さく溜息をつきながら言った。その後をエルンストが取って続ける。
「あの部屋を開けた時に、今までのいきさつをじいさんが大体話しただろ?あの話もかなり皆にはインパクト強かったみたいだし、このままだと奥様が化け物扱いされかねないぜ」
「それは…困るな」
「でしょ?」
 困った表情を見せたブロッケンJr.に、ルイーゼが畳み掛ける。ブロッケンJr.は少し考え込むと口を開いた。
「正体が何であれ、こりゃ何とかしなくちゃな…でも初めて聞こえてから相当経ってるだろ。よく今まで俺の所まで話が伝わって来なかったな。…ハンスも知らなかったのか?」
 ブロッケンJr.の素朴な問いに、エルンストはあっさり答える。
「じいさんはお前に余計な心配かけないようにって黙ってたし、他の使用人達は、お前にこんな話をしても怒られるか無視されると思ってたみたいだぜ。…お前、人気はあっても意外に人望ないな」
「うるせぇ、じゃあそういうお前らは聞いた事あるのかよ」
 エルンストの言葉にむくれながらも更に問うブロッケンJr.に、二人はまたもあっさり答える。
「俺は屋敷の戸締りを見てるせいかな…もう何度も聞いてるよ。でもドアの前で音は止まるし、中を見ても誰もいなかったぜ」
「あたしは3回位聞いてるかしら…あたしの場合も、ドアの前で音が止まっちゃうのよね」
「何だ…結局俺だけ仲間外れにされてたって事かよ。…気にいらねぇな」
 二人の言葉にブロッケンJr.はさらにむくれる。それをとりなす様にエルンストとルイーゼは口々に畳み掛ける。
「だからこうやって俺達が代表して話してるんじゃないか。…こういう時に頼りになるのはやっぱり当主だからな」
「皆怖がってはいないけど不気味には思ってるみたいだから、本当はあなたに何とかしてもらいたいって言ってたわよ。だから代表してあたしたちが話してるんでしょ?」
 その言葉に少しは気分を直したのか、ブロッケンJr.は口を開いた。
「分かったよ。…それじゃすまねぇが、しばらく二人とも俺に付き合ってくれねぇか?とりあえずどんな状況だか知りたいからな。…しかし…ハンスはどうするか。余計な心配するなって怒るだろうな」
「じいさんには俺からうまく言っておくよ。『ここでお前が事件を解決したら、お前の株が上がる』とでも言えば、じいさんも何も言わないさ」
「そうだな」
「そうね」
 ブロッケンJr.を誰よりも可愛がっている老執事の性格を考えて、三人は笑った。ひとしきり笑うとブロッケンJr.はふと真剣な顔つきになり、口を開く。
「…という訳で、これから毎晩夜中に部屋を見張るぞ。いいな」
「ああ」
「ええ」

 それから毎晩、三人は件の部屋の前で音がするのを待った。使用人達の話によると、音がするのは大体1時半から2時半の頃が一番多いらしく、その時間を特に重点的に見張る。しかし、三人が待ち始めてから何故か『幽霊』は、その気配すら現すことがなくなってしまった。そして5日程経った夜――
「…なあ、お前たちの聞き違いって事はねぇのか?」
あくびをかみ殺しながらブロッケンJr.が言う。その言葉にルイーゼが不満そうな声を上げる。
「あらひどい、あたし達の言う事が信用できない訳?」
「い、いや…そんな訳じゃねぇが…」
「二人とも内輪もめは止めろよ…あ…」
「ほら…聞こえてきたわよ」
 三人が耳を澄ますと、確かに件の部屋からピアノの音が聞こえてきた。その音を聞いて、ブロッケンJr.は驚いた表情を見せる。
「この曲は…」
「…どうした?」
「いや…何でもない。…行くぞ」
 ブロッケンJr.の様子に気付いたエルンストが彼に囁く。ブロッケンJr.はその言葉にふと我に返った様な様子を見せると、いつもの表情に戻り、三人は足音を立てない様にそっと部屋の前まで行った。今回はドアの前に行っても音が止まらず、ブロッケンJr.はドアノブに手を掛けると一気にドアを開ける。
「誰だ!…あ…」
「奥様…」
 そこでピアノを弾いていたのは少し影が薄くなり発光しているが、この部屋にかかっている肖像画の人物…つまりこの部屋の持ち主その人であったのだ。『彼女』ははっとした表情で手を止めると、ブロッケンJr.達の方を見る。
『あなたたちは誰?…あ…』
『彼女』はブロッケンJr.を見ると涙ぐみ、彼に駆け寄り抱き付いた。
『あなた…!』
「…え?」
 ブロッケンJr.は驚きのあまり、されるがままになっていた。『彼女』は確かに幽霊のはずであったが、その感触は生きている人間の様に柔らかく、暖かかった。エルンストとルイーゼはしばらく呆然として二人を見詰めていたが、やがて慣れたのか楽しげに話し始める。
「…こう見ると何だか『感動の親子ご対面』って感じだな」
「でも、奥様が若いし…だんな様の若い頃って、あの人にそっくりだったんでしょ?だったら『十数年前の再現』が正しくない?」
「お前ら~、和んでないで何とかしてくれよ」
『どうしたの?あなた』
 『彼女』は不思議そうにブロッケンJr.を見詰める。ブロッケンJr.は内心すまなさを感じながらも、『彼女』に向かって言葉を返した。
「母さん、よく見てくれ。…俺は親父じゃない」
『母さん…?』
 その言葉に『彼女』はもう一度ブロッケンJr.を見詰める。と、その目から再び涙が溢れ出した。
『違う…あの人じゃない…』
 そう言うと『彼女』はふっと消えた。三人は顔を見合わせて囁きあう。
「結局正体は奥様だったのね…でもどうして今回は見えたのかしら」
「だんな様の気配とこいつの気配が似てたからって言う事は考えられるが、それだけじゃないよな」
「何が正しいかかは分からねぇが…もしかするとこれのおかげかもな」
 そう言うとブロッケンJr.は胸の内ポケットから、古びた女性ものの懐中時計を取り出す。それは彼にとって唯一の母の思い出の品であり、同時に父の形見でもある品であった。この品の由来を知る二人は複雑な表情を見せ、小さく頷いた。
「確かに、奥様はどうやらだんな様を探している様だからな…」
「…そうだと思いたいわね…ううん、きっとそうよ」
「まあそれはともかく、正体とその理由が分かったが…どうする」
「そりゃ、何とかして母さんを親父のもとへ送り届けなきゃならねぇだろうよ」
「でも…どうやって?」
「…」
 この手の事は素人の三人に、名案が浮かぶはずもない。三人は頭を抱えた。
「…変な研究者とか霊能者やらの手は借りたくねぇな」
「そうね、奥様って高名な方らしいし。…好奇の目にさらしたくはないわよね」
「使用人達やじいさんにも、余計な心配はかけたくないな。…しかしどうするか…」
「…まあ、今日はこれまでにして寝よう。明日部屋を調べて何か手がかりがねぇか探そうぜ」