全身に響く鈍い痛みで俺は目を覚ました。目に入って来たのは見慣れた自分の部屋でも、遠征先のホテルの部屋でもなく、どこか殺風景にすら見える病室。
『そうか、いつの間にか眠ってしまったんだな…』
 俺はもたれていた椅子から立ち上がり大きく伸びをすると、傍らのベッドで眠る恋人を覗き込んだ。まだ多少顔色が悪いが、自分が来た直後や夜中に無意識に嘔吐していた時よりは随分と静かに眠っている。発見と処置が早かったとはいえそれでも吸収されてしまった薬がやっとの事で抜けてきたのだろう。薬を大量に飲んでここへ運ばれたと聞いた時には心臓が止まるかと思ったが、それでもこうして一晩で大分良くなって良かったと思う。後は彼女が目を覚ますのを待つだけだ。彼女が目を覚ましたら彼女がこうする程まで追い詰めてしまった事を心から詫び、そして二度とこんな事にならない様に彼女を守るんだ―そんな事を考えつつ彼女を見詰めていると、病室に看護師が入ってきて挨拶をする。
「おはようございま~す。起床時間なんで検温と血圧測定したいんですけど…まだ起きませんか?」
「ええ、まだ目を覚まさない様です」
「そうですか。でしたら目を覚ましたらナースコールお願いします。その時全部しますから」
「分かりました」
 彼女の事は既にスタッフには申し送りされているのだろう。余計な事は何も言わずに看護師は病室を出て行った。それを見送ると俺はもう一度彼女に視線を戻し、その額を撫でて囁きかける。
「ほら、早く起きろねぼすけ…でないと俺はお前に何もしてやれんじゃないか…」
 と、その声に反応するかの様に彼女は何事か呟く様な様子を見せ、やがてまぶたが動き始め、ゆっくりと目を開ける。目を開けた後もしばらくはぼんやりしていたが、その内に目の光も視線もしっかりしてきて、今度は俺にも分かる声で呟いた。
「頭痛い…」
「頭が痛いのか…すぐに看護婦さんを呼んでやるからな」
 辛そうな彼女の様子に俺が思わず声を掛けると、彼女は俺の方を向き、声を掛ける。しかしその言葉は俺にとっては衝撃的なものだった。
「お兄ちゃん…だあれ?」
「葉月…何の冗談を言っているんだ…俺だ」
「だから…だあれ?あたし、あなたなんか知らない…それにここどこ?お父さん達は?」
「葉月!」
 信じられない彼女の言葉に俺が声を上げると、彼女は怯えた様に俺を見詰める。本当に俺の事が分からなくなっているらしい。あまりの事に言葉を失っていると、今度は彼女の姉である文乃さんが入院道具一式を抱えて病室に入って来た。
「おはよ、悪いと思ったけど見ててくれてありがとうね将君…あら葉月、目を覚ましたのね。良かった…大丈夫?どこか辛い所はない?」
「ええと…お姉ちゃん?」
 彼女の言葉に文乃さんは、『何の冗談だ』という口調で言葉を返す。
「何言ってんの。あたしがあたし以外の誰だっていうのよ」
「お姉ちゃんなんだ…そっか…そうだよね…でもお姉ちゃん、そんなにお化粧していいの?またお母さんに怒られるよ」
「ちょっと、あんた一体どうしたのよ?」
 さすがに文乃さんも彼女がおかしい事に気付いたのか、彼女に問いかける。文乃さんの問いかけに、彼女は逆に文乃さんに問い返した。
「どうしたのって…それはあたしが聞きたいよ。ここどこ?病院だと思うけど山中さんじゃないよね。何であたしここにいるの?それに、このお兄ちゃんだあれ?」
「誰って…なに言ってんの、将君じゃない!あんたちょっとおかしいわよ!?」
「『しょうくん』…?…だからだあれ?あたし知らないよ。お姉ちゃんの彼氏?」
「葉月…あんた…」
 文乃さんは慌ててナースコールを鳴らすとやってきた看護師に事情を話し、医師を呼んで来て欲しいと頼んだ。看護師も事情を理解したのか頷くと病室を出て行き、やがて医師を連れて来る。文乃さんがやってきた医師に更に詳しく事情を話す間に看護師が彼女の体温や血圧等を測り、話を聞き終わった医師はそれを書かれたメモを見て頷くと、穏やかな口調で彼女に問いかける。
「どうしたんだい?お姉さんが君の様子がおかしいって心配しているよ」
「おじさんは誰ですか?」
「僕は君の担当医だよ」
「お医者さん?…あれ?遠藤先生じゃないの?」
「えんどう先生?」
「いつもあたしの事を診てくれるお医者さんよ」
「そうか…でも今は僕が君の担当医だ。君は具合が悪くなってね、詳しい検査がしたいからここへ来たんだ。僕の名前は露木、よろしくね」
「つゆき先生…?はい、分かりました。よろしくお願いします」
「じゃあ朝食が終ったら僕と少し話をしようか」
「朝ごはん…食べたくないです。頭が痛くて気持ちが悪いの」
「そうか。じゃあすごく具合が悪くならないうちにちょっとだけ話をしよう。いいかな?」
「はい」
「…という訳で僕は彼女と少し話をしてきます。彼女と話した後、お姉さんにもお話を聞かせてもらいますので」
「分かりました」
「じゃあ、行こうか」
 そう言うと『露木』と名乗った医師は彼女を連れて病室を出て行った。それを見送ると、文乃さんが俺に声を掛けてくる。
「あんたの事知らないだなんて…何の悪い冗談?」
「それは俺が聞きたいです。本当に俺の事が分からなくなっているみたいなんですよ」
「一体どうしちゃったのかしら…あの子」
 そこで俺達は沈黙する。そうしてどれくらい時間が経っただろうか。露木医師は彼女を連れて戻って来るとベッドに戻し、彼女に声を掛ける。
「ありがとう。じゃあ次はお姉さんを借りていくからね」
「はい。お姉ちゃん、行ってらっしゃい」
 彼女は頭痛がするせいか辛そうだが、それでもにっこり笑って文乃さんに手を振る。文乃さんは彼女の態度に戸惑いながらもそれに応える。
「あ…うん、行ってくるわ。そうだ、将君も一緒に来て」
「はい、分かりました」
「ではお二人とも、面接室へ行きましょう」
 そう言うと露木医師は俺達を促して病室を出た。面接室に行く道すがら、文乃さんは露木医師に問いかけた。
「あの…妹はどうしたんでしょうか」
 文乃さんの問いに、露木医師は少し硬い表情になると静かに答える。
「それは…面接室で詳しく話します。とりあえず今言える事は、妹さんは少し大変な状況にあるという事です」
「『大変な状況』…?どういう事ですか」
「まずはこちらに…どうぞ座って下さい」
 気が付くと俺達は面接室へ着いていた。露木医師は俺達を座らせると正面に座り、静かに話し始める。
「まず、彼女の体温・血圧・脈拍は正常でした。それで今こちらで妹さんに少し質問をさせて頂きました…それを総合しての判断で、まだ詳しい検査をしていないので正確な診断はしかねますが…どうやら妹さんは健忘を起こしている様です」
「『健忘』?」
「ええ、端的には本当は違いますが今回の症状では『退行』と言うと分かりやすいかも知れませんね…質問の答えから察するに妹さんの意識では今彼女は中学二年生の三月でいる様で、それ以降の記憶を全て失っている様に見受けられました」
「そんな…」
「お二人とも彼女とそれ程話していないでしょうが、彼女の話でおかしいと思った所はありませんか」
 露木医師の問いに、文乃さんはふと気が付いた様に答える。
「そういえば、まず遠藤先生が出てきた事が…あの子が言っていた通り、遠藤先生というのは妹が小学校から高校までの妹の主治医です。それに、その遠藤先生がいてかかりつけだった山中病院の名前もそこに行くのが当たり前の様に出してきて…何よりさっき妹は私の化粧を見て『お母さんに怒られる』と言っていました。…私の化粧の事で母が私を叱っていたのは、確かにあの子が中学の頃の話です」
「そうですか」
「高校以降の記憶がない…?だから俺の事が分からなくなっているのか…?」
「どういう事ですか」
 あくまで静かに問いかける露木医師に、俺は搾り出す様な口調で応える。
「彼女は自分の事が全く分からなくなっていました。…自分が彼女と出会ったのは、彼女が覚えている範囲内では彼女が仕事に就いてからの事です。先生の言う通り彼女の意識が中学生だとしたら…自分の事が分からないのも納得がいきます」
「そうですか」
 彼女の記憶の中に俺が存在しない…?そんな…なんて事だ…いくら彼女を守りきれなかったといってこの現実は俺にとって残酷過ぎた。余りに辛い現実に俺は頭を抱える。文乃さんもどうしたらいいものか分からないのか、言葉を失っている。俺達の様子に、露木医師は静かに、しかしきっぱりとした口調で言葉を掛けてくる。
「辛いでしょうが…これが現実です。まず彼女には服用した薬の影響がないか検査をしますが、それと同時に脳に異常がないか脳波やMRI、それにもっと詳しい面接や心理テストも行おうと思います。幸いにもここにはそうした設備や精神科も揃っていますから。ただ、僕の申し送りされた話からの推測でしかありませんが、彼女がこうなった理由は薬の影響や脳の異常というより精神的な理由が大きいと思います。何しろ、ここに来た根本的な理由からしてそうでしょう」
「…はい」
「心因性の症状の場合、治療はかなり困難になります。というより効果的な治療はほぼないと言っていいでしょう。原因が特定できてそれが除去されれば状況は変わってきますが…それでも元に戻るかは五分五分です。すぐに元に戻るか、それとも一生このままか…申し訳ありませんがそれだけは覚悟願います」
「…分かりました」
 おそらく沈痛な表情になっているであろう俺達に、露木医師は宥める様な口調で更に続ける。
「そんな顔をしないで下さい。少し脅す様な話になってしまいましたが、僕が話したのは推測を重ねた上での最悪の事態の事で、この症状は本当に一時的なもので、すぐ元に戻る可能性もあります。まずは検査の結果を見て、それから全てを考えましょう。ですからどうか彼女には普通に接して下さい。それから、彼女に今の状況を聞かれたら多少の事は説明してもかまいませんが、記憶を無理に戻す様な事はしないで下さい。彼女に余計な負担がかかります」
「…はい」
「では、とりあえずの説明はここまでで…さあ、彼女の所へ戻ってあげて下さい。一番不安になっているのは彼女です」
 そう言うと露木医師は立ち上がり、面接室を出て行った。俺達はしばらく面接室のソファにもたれていたが、やがて文乃さんがぽつりと口を開く。
「あの子、本物の馬鹿よ…いくら辛かったからってあんな事しただけじゃなくて、どうして将君の事をこんな簡単に忘れちゃうのよ…」
「いいんです。俺のあの騒動の時の事を考えれば、もしかしたらこれは…相応の罰なのかもしれません」
「そんな事言わないで頂戴…確かにあの子があんな事した時にはあんたを怒ったけど、いつものあの子の話を聞いてると、あんたがどれだけあの子を大切にしてるか良く分かるわ。…それにね、あの子はあんたを罰したくてああなったんじゃないと思う。それだけあの子にとってもあんたは大切な存在なんだって…あたしは知ってる」
「…」
 俺が何も言えずに黙っていると、ふと文乃さんが思い出した様に呟く。
「そうか…中二の三月…か。よっぽど消したかったのかもね、『あいつ』の存在を…大切なあんたの存在を無かった事にしてまでも…いえ、だからこそかしら」
 文乃さんの言葉に俺も思い当たることがあり、それを素直に言葉に乗せる。
「『あいつ』って…もしかして『あの事』が絡んでいるとでも?確かに『あの事』はでたらめな内容とはいえ記事にされましたけど、あれは葉月の卒業の時の話じゃ…」
「そうだけどね。そもそものあの子の『あいつ』との関わりの始まりは、あの子が中三になってすぐに『あいつ』が新任の教師としてあの子のクラスの理科担当になってからなの。あんたも知っての通り、あの子は素直で人懐っこいだけじゃなくてあの頃は本当に警戒心のない子だったから、『あいつ』にも他の教師とおんなじ様に『授業で分からない所を教えてもらえる』って懐いてたらしいわ。もしかすると、その頃から『あの時』程酷い事じゃない…あの頃のあの子には分からない程度の事かもしれないけど…『あいつ』に、何かしらされてたのかもしれない」
「…畜生!」
 俺は彼女の心の傷を思い、それを付けた存在に怒りと憎しみが混ざった感覚を覚える。それを前面に出しているのだろう。文乃さんは俺を宥める様に口を開いた。
「でも、これもあくまであたしの推測でしかないわ…本当の理由はあの子にしか分からない。だから、こうなっちゃった以上見守るしかないわね…将君、あんな状態のあの子だけど、もしそれでもいいなら…あの子を一緒に見守ってくれる?」
「はい…ここまで彼女を追い詰めた俺を許してくれるなら…そうさせて下さい」
「ありがと…あんたがそうしてくれるだけでもあの子には嬉しい事だわ。…たとえあんたの事が記憶から無くなっていてもね」
「…ええ」
 文乃さんの言葉は心からの感謝からでたものだと分かっているが、それでもその言葉は彼女が俺の存在を無かった事にしたという現実を突きつける物だった。現実の辛さに俺は胸がえぐられる様な感覚に陥りそうになる。その様子を見ていた文乃さんは俺を更に宥める様に言葉を掛ける。
「ごめんね、将君。皮肉を言ってるんじゃないのよ。本当に感謝しているの」
「ええ、分かっています。…ただ、俺の気持ちが付いて行っていないだけです」
「そう…でも本当にお願いね。とは言っても今あんたシーズン中よね。あんまり来られないか」
「いいえ。しばらくはドームと周辺の試合が続きますから、その間は毎日でも来ます」
「ありがと、でも無理しないでいいわ。その気持ちだけで充分よ…っと、今日も試合よね。行かなくていいの?」
「ええ、今日はナイターですからもう少しはいられます。たとえ俺の事が分からなくても…帰る前にもう一度顔を見て行きますよ」
「そう、ならそうして…そうだ」
「何ですか?」
「原因側がこんな事を言うのもあれだけど…こんな事になっちゃって混乱もしてるだろうし、辛いかもしれないけど、その事を理由にして采配をガタガタにしたり、腑抜けたプレーはしないでよ。あんたは何より最初にプロ野球の選手であり、監督なんだから。もし自分の事が原因であんたが腑抜けたりしたら、あの子が元に戻った時絶対悲しむわ」
「…分かっています」
 本当なら一番混乱していいはずの文乃さんの冷静な言葉に、俺もほんの少しだが頭が冷える。文乃さんは安心した様に微笑みかけると、ソファから立ち上がった。
「ならいいわ…じゃあ行きますか」
 俺達は彼女の病室へ戻る。病室へ入ると、彼女はベッドに起き上がってぼんやりとしていた。文乃さんは努めて明るい様子で彼女に声を掛ける。
「ただいま、葉月。まだ頭は痛い?」
「あ、お姉ちゃんお帰り。うん…痛い。それに気持ち悪い」
「そう。露木先生と話をしてきたわ。しばらく検査入院になるから、いい子にするのよ」
「分かった…ねぇ、お姉ちゃん」
「ん?どうしたの?」
「一体どうなってるの?お父さん達はいくら待っても来ないし、遠藤先生はいないし、カレンダーの日付はおかしいし、鏡を見てるのに、映ってるのは知らない女の人なの。…ねぇ、あたし…どうしちゃったの?」
 不安げに問いかける彼女に、文乃さんは一瞬辛そうな表情を見せたが、すぐに明るい表情に戻ると宥める様に言葉を返す。
「その事は…後でゆっくり話すわ。でもね、あんたは余計な事を考えなくていいの。ゆっくり休みなさい。ほら、頭が痛いんでしょ。横になってなさい」
「ん…」
 彼女はゆっくりと横になったが、まだ不安そうな表情を見せている。その痛々しさに俺の事が分からない辛さは辛さとして、俺は思わず彼女に声を掛けていた。
「ほら葉月、きっと余計な事を考えるから頭が痛くなるんだぞ。文乃さんが言う通り余計な事は考えないでゆっくり休め。それにな、本当に辛くなったらちゃんと看護婦さんに言うんだぞ」
 俺の言葉に、彼女は驚いた様子で俺を見詰めると問い掛ける。
「お兄ちゃん、ずっと思ってたんだけどお兄ちゃん誰なの?何であたしの心配してくれるの?」
 彼女の問いに俺はふと胸が痛んだが、それを見せない様に文乃さんに倣って明るい口調で答える。
「君は覚えていない様だけどな、俺は君とすごく仲良しだったんだ。だから俺は君の事が心配なんだよ」
「そうなの?…仲良しなのになんで分かんないのかな…ごめんね、お兄ちゃん。お兄ちゃんの事分かんなくって」
「いいんだ。君はすごく疲れて、ちょっと忘れっぽくなっているだけさ。でも分からないのなら挨拶からまた始めようかな…俺は土井垣…土井垣将だ」
「『どいがき』さん?」
「ああ、今言った通り俺と君とは仲良しだったんだ。だからこれから時々ここに来るからな。よろしく、葉月…ちゃんか…さん付けの方がいいかな。今までは呼び捨てだったが、君は覚えていない様だから」
「ううん、お兄ちゃんには呼び捨てで呼ばれた方が何でだか落ち着くからいいよ。あたしは『土井垣さん』って呼ぶね。よろしくお願いします。土井垣さん」
「ああ、じゃあお言葉に甘えさせてもらおうかな…葉月」
 にっこり笑って挨拶する彼女に応えるため、俺は胸の痛みが強くなるのを堪えながら笑い返した――