文乃さんに言われた通り、ドームに向かう道のりから俺は彼女の事から今日の試合の采配やプレーについての事に頭を切り替えていった。最初は辛さがふと頭をもたげそうになったが、逆に普段の彼女の事を考えると自然と試合の事に頭が切り替えられた。俺の知っている彼女は確かに野球に全力を尽くす自分を好いていてそれ以外の事、殊に自分の事で腑抜ける様な俺を望まない。ならば元に戻った時の事を考えると、いつもの様な自分でいる事がいいんだと自然と考えられて、彼女の事は心の隅にしまわれ、ドームに着く頃には今日の試合の事で頭が一杯になっていた。そうしてロッカールームに行こうとした時、不意に今日の対戦相手であるアイアンドッグスの監督である小次郎が声を掛けて来る。
「よぉ色男、ここ最近の騒動は大変だったな」
「…」
 いつもならこうしたこいつのからかう様な言葉もいつもの事だと思って同様の皮肉の一つも返す所だが、今の俺にはこの言葉はかなりきついものだった。こいつの言葉が全く悪意の無いもので、それどころか彼女ともそれなりに仲のいいこいつの今回の騒動に対する最大限の気遣いだという事も充分分かっているが、それでも今の彼女の事を思い出して、俺は胸がえぐられそうな感覚がまた戻って来る。その心のままに俺が小次郎を睨みつけると、小次郎は気圧された様な様子を見せ、それでも不満そうに口を開く。
「な…何だよ。俺ぁそんな顔で睨まれる様なこたぁ言ってねぇだろ?」
「しばらく、俺の前で彼女の話は禁句だ。…分かったな」
「何だよ。今度の事でケンカでもしたか?駄目だぜ、あんな気の優しい女があれだけ騒がれただけでも大変だろうに、お前までいじめる様な真似したら可哀想じゃねぇか」
「…今言ったろう。俺の前で彼女の話はするな」
 俺の様子に小次郎は更に気圧された様子を見せ、それでもまだ不満そうに「…ったく、何なんだよ」と呟いた後、「じゃあな、何でもいいがいい試合をしようぜ」と言って自分のロッカールームへ引き上げて行った。俺は胸がえぐられる様な感覚に息が苦しくなったが、大きく深呼吸して頭を振り、気を鎮める。俺はプロ野球選手であり、監督だ。その俺が考えるべき事、すべき事は、勝つための試合をする事、そして実際に勝つ事。それが今俺のできる精一杯の事だ。胸の痛みは確かに完全には消せないかもしれない。しかし彼女の苦しさに比べたら俺の苦しさなどどうという事もない。だから俺は大丈夫だ――

 そうして平静に試合をこなし、しっかり自分にも結果を残して勝利した。そうして帰ろうとした矢先に不意に携帯が鳴る。見ると彼女の職場である病院の仲の良い先輩であり、俺とも親しい間柄の沼田さんからの電話だった。俺が電話に出ると、いつもの明るい沼田さんとは少し違った真剣な口調で沼田さんが口火を切った。
『ああ土井垣ちゃん、ごめんねこんな時間に電話して。でも試合後の方がいいと思ったからさ』
「いいですよ、でも珍しいですね。沼田さんから自分に電話だなんて」
 俺の言葉に電話向こうの沼田さんは一瞬沈黙したが、やがて静かな口調で俺に問い掛けてきた。
『あのさ、土井垣ちゃんにこんな事聞くのはどうかなとも思ったんだけど…宮田ちゃん、何かあったの?』
「沼田さん…」
 俺が答えを探して言葉を失っていると、沼田さんは説明する様に言葉を続ける。
『いや、今日宮田ちゃんがしばらく休むって話をされた後、宮田ちゃんのお姉さんって人がうちに来てね。弦さん…うちの責任者だけど…と話をしてったんだ。何だか診断書を持って来たついでに宮田ちゃんの様子について話をしていったみたいなんだけど、そういう事にオープンなうちにしては弦さんに何を聞いても『しばらく入院だから』って言うだけで言葉を濁してるし、それだけじゃなくてお見舞いも控えて欲しいからって、入院先も教えてくれなかったからさ。そんなに具合が良くないのかって心配になっちゃって…彼氏の土井垣ちゃんならもしかして何か知ってるんじゃないかって思って電話したんだ』
 彼女自身が沼田さんを慕っているだけではなく、子供のいない沼田さんが彼女を実の娘の様に可愛がっている事を、俺は良く知っている。本当に彼女の事が心配なのだろう。しかし、今の彼女の状態はその沼田さんとはいえそう簡単に話せるものではない事も分かっている。考えた末、俺は小さな嘘をついた。
「ええ。…彼女が入院した事は自分も知っていますし、見舞いにも行きました。でも沼田さんも知っての通りの最近の騒動でちょっと疲れて静養がてら検査入院になっただけで、そんなに心配はいりませんよ。見舞いを控えて欲しいっていうのも、沼田さん達がお見舞いに行ったら彼女の事だから仕事の事が心配になって休む事に専念できないだろうって、お姉さんが気を利かせただけだと思います。とりあえず自分は見舞いが許されたんで、沼田さんには時々こっそりですが様子を教えますから…そんなに心配しないで下さい」
『そう…』
 沼田さんは何か考える様にまた沈黙したが、やがてまた静かに言葉を紡ぐ。
『そういう事なら…そういう事にしておくよ。土井垣ちゃん、宮田ちゃんの事よろしく頼むね。あの騒動で自分のせいでこっちにまで迷惑をかけたって、宮田ちゃんが相当参ってたのは皆分かってたから、それだけでも皆心配だったのに、それで入院だなんてもっと心配だからさ』
「…ええ」
『それに、僕達も何かしてあげたいけど、状態が分からなくて動けないってだけじゃなくて、こういう時に宮田ちゃんが頼りたいのは土井垣ちゃんだと思うしね』
「…」
『状態は教えられる範囲で教えてくれればいいよ。じゃね、土井垣ちゃん遅くにごめん。ゆっくり休んでね』
 そう言うと沼田さんは電話を切った。勘のいい沼田さんの事だ。今の言葉から詳しい事はともかく彼女に何かあった事にも、俺が小さな嘘をついた事にも気づいているだろう事は容易に想像できた。それでも俺を問い詰めなかったのは、俺が何も話せない事を分かっての気遣いだともよく分かった。俺は携帯を見詰めると彼女に思いを馳せる。これだけ周囲に愛され、またそれ以上にそうした周囲を愛していた彼女。それなのにそれすらなかった事にしてしまった彼女の心を思い、俺はまた胸が苦しくなった――