その後御館さんは本当にリークしたのか、いくつかの週刊誌で『あいつ』の事がかなり書きたてられた。一部では彼女の事も今度は被害者として、前の騒動と絡めて同情的な記事として書かれたものもあったが、御館さんの調査結果の流し方が良かったのか本当に圧力を掛けたのか、俺の周辺も彼女の周辺も騒がれる事なく日々が過ぎて行った。御館さんからは事後報告が入り、『あいつ』はやはりクビになって姿を消したという情報までは入ったが、それ以上は『決着をつけた以上必要がない』と判断して調査を打ち切ったそうだ。そして彼女が退院する日の朝、俺は彼女を迎えにあの時逃げ出してから初めて彼女の病院に足を運んだ。俺達が決着をつけた日には彼女の退院はほぼ決まっていたらしく、文乃さんは俺に決着をつけさせるための全てを託し、俺のオフに彼女の退院日を合わせてくれただけでなく、彼女の気持ちも念頭に入れ文乃さんの夫である隆さんが迎えに来るという事にして、俺が迎えに来る事も隠してくれた。それだけ彼女が俺に対しての想いからであっても、俺を拒否する事が文乃さんも良く分かっているのだろう。それでも彼女とその心の傷を断ち切る役目を俺に託した文乃さんの心と彼女に対する心遣いを思い、俺は心から文乃さんに感謝した。そうして俺は全ての想いを彼女にぶつけ彼女の心の傷を断ち切る覚悟を再確認しながら、今までになくゆっくりと彼女の病室に向かう。そんな覚悟を胸に俺が病室に入ると、彼女は退院の支度を終え、迎えに来るはずの義理の兄を待っていた様だった。その待ち人ではない俺を見ると彼女は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに表情を冷淡なものに変え、その表情のままの口調で俺に言葉を掛けて来た。
「土井垣さん、何しに来たんですか」
 彼女の冷淡な態度も心の傷から来るものだと思うと、痛々しさはあれど今までの様な胸の痛みはない。それどころか、今までにない愛おしさすら湧いてくる。俺はその気持ちをそのまま乗せて言葉を返す。
「今日が退院だろう。お前を迎えに来たに決まっているじゃないか」
 俺の言葉に、彼女はまた驚いた表情を一瞬見せたが、それでもまだ冷淡な態度のまま応える。
「言ったでしょう?土井垣さんとの事は全部おしまいにするって」
「俺は納得していない」
「納得も何もありません。私がどんな女か分かったはずでしょう。さあ、帰って下さい」
「帰らん。確かに俺はお前がどんな女か分かっている。…しかしな、お前が考えている様には俺は思っていない」
 俺の言葉に彼女はふと哀しげな表情に変わったが、またすぐに冷淡な表情に戻り言葉を返す。
「土井垣さんがどう考えているか知りませんけど、私が土井垣さんにふさわしくない人間だっていう事実は変わりません。さあ、話はここまでです。もう一度言います、帰って下さい」
「いいや、帰らん。お前が俺にふさわしいかどうかは俺が決める。それに今言ったろう、俺はお前がどんな女か分かっていると…だから俺は全てを終わりにする気なんか毛頭ない。むしろ、今まで以上にお前を愛おしいと思っているし、守る気でいる。それが俺の今回の件に関する結論だ」
 俺の言葉に彼女は哀しげに顔を歪ませると、大粒の涙を零して弱々しく呟く様に言葉を紡いだ。
「駄目…土井垣さんも分かったでしょう?私が汚れてるって…だから私と関わってたら土井垣さんも汚れちゃうの…私は土井垣さんを汚したくないの…だからおしまいにしなくちゃ。…それが一番いいの…」
 涙を零す彼女が痛々しくて、それ以上に愛おしくて俺は彼女を抱き締めると、その耳元に囁いた。
「…やっと…本心が聞けたな」
「え…?」
「お前は今俺を汚したくないと言った。つまりは俺にまだ惚れているって事だろう?」
「…」
「黙秘権か。それならまず俺から話す…俺はあの騒動の前から全てを知っていた。文乃さんから聞いてな」
「だったら尚更…」
「聞け。でも俺はお前が汚れているとは思わなかった。むしろ負う必要のない傷を負ったお前が痛々しいと思った位だ。それにな、俺はお前が拒んだ時に決心して何が正しいのか見極めるために、『あいつ』を探し出して全てを自分の目で見て来た」
「土井垣さん…」
「全てを見た事で俺は確信した。お前は何も悪くないし、汚れてもいない」
「…」
「お前が『あの事』をいつまでも引きずる必要はどこにもない。もう囚われずに断ち切っていいんだ。だから…俺達が全てを終わりにする必要性もない」
「…」
「それとも、俺の事が嫌になったのか?」
 俺の言葉に、抱き締められるままだった彼女は俺から静かに身体を離すと、更に涙を零しながらまた弱々しげに言葉を返した。
「そんな訳ないじゃない。…14歳だったあたしも、今のあたしも将さんが好きよ…でも将さんがそう言ってくれたとしても、いつまたこの話が蒸し返されるか分からないもの。その時にどれだけ将さんに傷がつくと思う?そんなあたしは、やっぱり将さんにふさわしくないわ…」
 涙を零しながら言葉を紡ぐ彼女に、俺は今言えるだけの全身全霊の言葉を返す。
「俺はこんな事で傷なんか付きやしない。むしろこんな事で傷が付く様なら俺の方こそそれまでの人間という事だ」
「そんな事…!」
「だろう?そういう事だ…それに今言ったろう。お前が俺にふさわしいかどうかは俺が決める。いや、ふさわしいかどうかは問題じゃない。お前が俺に惚れていて、俺がお前に惚れている。その事実だけで充分だ…お前が俺を好きだと言った様に、俺もお前が好きだ。それ以上何が必要ある?」
「…いいの?」
「いいんだ」
 俺の言葉に彼女は涙は止まったが、まだ哀しげな表情で更に俺に問いかける。
「…本当はおしまいになんかしたくないの。ずっとこのままでいたいの…でも、本当にいいの?いくら将さんが汚れてないし断ち切っていいって言ってくれても、あたしは簡単には断ち切れないかもしれない。ううん…一生背負っちゃうかもしれない。そんなあたしを将さん、嫌にならないでいられる?」
 彼女の問いに、俺は更に全ての気持ちを答えとしてぶつけた。
「ああ。そんなお前も全部ひっくるめて、俺はお前に惚れているんだからな。お前が背負い疲れて座り込んだら一緒に休むし、また引きずられそうになったら、その度一緒に断ち切ってやる」
 俺の答えを聞いて葉月はまた涙を零し、しかし今度は泣き笑いの表情でゆっくりと俺に近付くと、そのまま俺の胸にぽふりと顔を埋めて呟いた。
「ありがとう…将さん」
「いいや…俺こそありがとう。俺の気持ちをきっちり受け取ってくれて」
 俺も彼女の呟きに言葉を返すと、彼女は更にゆっくりと言葉を紡いだ。
「だって…言ったでしょう?14歳のあたしも将さんが好きだって…普通は記憶が戻った時は、記憶を無くした時の事は忘れちゃう事が多いらしいけど…忘れなかったのよ。もう何にも忘れたくない位将さんの事好きなのよ、あたし。だから将さんが好きだって言ってくれて、本当はとっても嬉しいの」
「そうか」
「それにね、今までは将さんがいくら好きって言ってくれても信じちゃ駄目って思おうとしてたけど、今の言葉はもうそうやって思えなかったの…無条件に信じられたの、将さんの言葉」
「葉月…」
 俺は葉月を抱き締める腕に力を込める。彼女は俺に抱き締められたまま、やがてその腕の中で更にぽつりと言葉を紡ぎ出した。
「…ねぇ、一つだけ許して欲しいんだけど」
「何だ」
「この髪…半分だけ切ってもいい?『あの事』を断ち切るために」
「どういう事だ?」
 彼女の不可解な言葉に俺が問いかけると、彼女は腕の中でぽつり、ぽつりと言葉を紡いでいく。
「本当はね、将さんとの事終わりにするためにばっさり切ろうと思ってたの。この髪は将さんとの思い出が一杯詰まってるから…でも…もうできないから。でも、気持ちに区切りを付けたいから半分だけでも切りたいの。半分だったら背中まで残るからそれ程変わらないでしょ?」
 彼女の言葉に彼女も『あの事』を断ち切り新しく歩き出す決意と、その道を俺と歩こうとする想いを感じ取り、俺は安堵と嬉しさの混じった気持ちを込めて彼女に言葉を返した。
「そうか。そういう事なら切るといい…お前のためにも…これからの俺達のためにもな」
「うん」
 彼女は俺を見上げてにっこり笑う。その笑顔は今までの心の翳りを全て振り払った様な、今までにない綺麗な笑顔だった。そしてただ綺麗なだけでじゃなく、俺への想いもほんの短い間だけ彼女の中にあった『14歳』の彼女もその中にある。これが彼女の本来の笑顔なのだと思うと、俺は嬉しくなりまた彼女を抱き締める腕に力がこもった。そうしてしばらく抱き合った後、俺と彼女は退院手続きをとり、俺の車で病院を後にした。俺達は取りとめも無く話しながら車を走らせる。
「それにしても…かなり痩せたと言うかやつれたぞお前。ろくに食っていなかった事は知っていたが、栄養バランスが整った病院で、しかもあれだけうまそうに見えた食事だったのに食わずにやつれるとはどういう事だ」
「だって…記憶が無かった時はいろんな事が不安で食欲なかったし、食べても味が良く分からなかったし、記憶が戻ってからは『あの事』が辛くて吐き気ばっかりしてたから食べられなかったし…それに」
「それに?」
「将さんの事も考えて苦しくて、胸が一杯になって…食べられなかったし」
「…」
 彼女の言葉に俺は赤面するのを感じた。ちらりと助手席の彼女を見ると、彼女も顔を赤らめている。しばらく俺達は沈黙したが、やがて俺から彼女に言葉を掛ける。
「…そうか、でももう食えるな?」
「うん」
「じゃあこれ以上やつれない様に、今日は退院祝いも兼ねて好きなものを食いに行こう。何が食いたい?」
 俺の問いに彼女は少し考え込んでいたが、やがて顔を真っ赤にして言葉を返す。
「あのね…将さんの作ったお料理が食べたい」
「いいのか?俺の料理で」
「いいの。だって、将さんのお料理があたしにとってはどんなお料理よりも最高のごちそうなの」
 そう言って顔を赤らめながらも、またにっこりと笑う彼女をまた横目で見て俺は少し考えると、俺の想いも込めた答えをやはり笑顔で返す。
「…そうか、分かった。じゃあ適当に何か買って行くか。それでお前も一緒に作ろう」
「一緒に?いいけど…あたしより将さんの方がお料理上手だし、将さんの手順があるでしょ?あんまり上手じゃないし手際も悪いあたしが一緒じゃ邪魔じゃない?」
「邪魔じゃない。俺もお前の料理が食べたいんだ。上手い下手じゃなく、俺にとってもお前の料理が最高だからな」
「…ん」
 俺の言葉に彼女は恥ずかしそうに黙り込む。そうして暖かな沈黙を楽しみながら、俺達は車を走らせて行った。