そしてその日、デーゲームが終った俺に文乃さんと御館さんが合流し、『あいつ』のいる塾へと向かう。話し合った上で、乗り込むなら公的な場所の方が後々のためになるだろうとの判断だった。車で一時間程かかっただろうか、俺達は目的の塾に着いた。そこは個人経営とはいえ数箇所に教室を持っている中規模の塾らしく、今俺達がいる校舎も大きめのビルの2フロアを使っていて、外から見ても結構広めに見える。車を降りた文乃さんはビルを見上げながら口を開いた。
「ふぅん…確かに『あいつ』が身を隠しそうな所よね」
「だろ?保身に富んでいる割に見栄を張りたがる『あいつ』が選んでる所だしな…ってな所で行こうかね。覚悟はいいかい?お二人さん」
「ええ」
「はい」
俺達はそれぞれの覚悟を胸に塾の中へ入って行く。中へ入ると俺に気付いたらしい何人かの子供がひそひそと俺の方を向いて囁きあっていたが、俺の様子に何かを感じたのか、それとも元々そういう育てられ方をしているからなのか、いつも気付かれた時の様にサインをねだられたりなどの事もなく、それ以上騒がれる事もなかった。文乃さんは受付に声を掛け『あいつ』の名を上げ、「先生の噂を聞いて子供が興味を持ったので入塾するか判断するために面会したい」と用意していた方便を使って『あいつ』を呼び出す。受付の人間は入塾者が一人でも増えればいいのか、二つ返事で『あいつ』を呼び出してくれた。呼び出されて俺達の前に立ったその男は、写真で見た通りの文乃さん達とそう歳が変わらない様に見える柔和な優男だ。しかしこの雰囲気に騙されてはいけない。俺達は空き教室を使って男と面談する事になり、男の案内で教室に入る。男は俺達を座らせ、自分も座るとおもむろに柔和な口調で口を開いた。
「では、どういったお話をしましょうか。何でも僕の噂を聞いてこちらにいらしたとか。光栄です」
男の言葉に文乃さんがまず口火を切った。
「…噂じゃないわ。最初からあんたを捜してたのよ」
「は?どういう事でしょう」
男の問いかけに文乃さんは更に力強い口調で言葉を返す。
「十年以上経っちゃったけど…ケリをつけにきたのよ。あんたが妹にした事のね」
「『十年以上』…『妹』…何の話ですか?」
「とぼけてるの?それとも覚えてないって訳…最低な男ね。じゃあはっきり言うわ。あたしはあの子の…宮田葉月の姉よ。教職時代のあんたが手を出したあの子のね」
「う…」
文乃さんの言葉に男はたじろぐ様子を見せた。文乃さんは更に続ける。
「あの時のあたしはあんたとそう歳が変わらないけど、教職だったあんたと違って何の力もない学生で何もできなかった…でも今は違う。もうあたしはあんたと同等よ。もう闘える」
「違う…あれは俺が悪いんじゃない…悪いのはあいつの方だ…」
文乃さんの言葉に呟く様に口を開いたその言葉に、俺も怒りを込めて言葉を紡ぐ。
「彼女は何も悪くない。彼女は純粋に学びたがって、あなたを先生として慕っていただけだ。それを捻じ曲げて、勝手な考えで手を出したのはあなたの方でしょう」
俺の言葉に男は応えるかの様に更に呟く。
「いいや…あいつは確かに俺を誘っていた。…俺を誘ってその気にさせておいて、いざ俺がその気になったらあっさり俺を拒んで捨てて、全てを俺になすり付けて。…そうさ…あいつは子供の癖に魔性の女だったんだ。…悪いのはあの女だ、俺は悪くない…」
「…」
男の言葉に俺は背筋が寒くなるのと同時に、どうにも堪えられない吐き気を感じた。男の言葉は言い逃れじゃない。全て男の中で真実になっているんだ。確かに彼女は今でも無防備な所があり、それが媚態に見えない事もない。しかし、彼女をちゃんと見ている人間ならば彼女の中にあるのは媚態でも女の魔性でもなく、純粋に人を慕い、思いやる気持ちだけだと良く分かるはずだ。彼女の純粋さを邪な肉欲でしか見られないこの男に、俺は心底から嫌悪感を抱いた。嫌悪感を抱きつつぶつぶつと呟くこの男を睨み付けていると、不意に今度は御館さんが冷徹な口調で男に言葉を掛けた。
「…で、その後もおんなじ様な事を二度もやらかしてるってのはどういう事なのかねぇ?」
「何?」
「全部調べさせてもらったぜ。あんた、教師を辞めてから大手の塾に講師として入ってる。評判は上々だったのに塾を一回変えて、今はそこすら辞めてここにいるんだよなぁ…偽名と嘘の経歴で入って」
「どうしてそこまで…」
「あんたが大手にいられなくなった理由は…女生徒にセクハラしたのが原因だ。一回目は表ざたになる前に塾を変えるだけで済んだが、二度目はその生徒が上に直訴したせいで辞めざるを得なくなったんだよな。しかも裏情報で流れて大手の業界にはいられなくなった。だから名前も経歴も嘘で塗り固めて、それ程身元を調べられずに済んだここにいるって訳だ…違うか?」
「…」
「この分じゃ、ここでもおんなじ様な事してるかもね…ほんと最低だわ、あんた」
御館さんと文乃さんの言葉に、男はそれでも抵抗する様にぶつぶつと呟き続ける。
「違う…悪いのは俺じゃない、あの女だ。…あの女のせいで俺の人生が狂っていったんだ…あの女が俺を誘わなければ、俺は今でも教師として輝かしい地位にいられたかもしれないのに、あの女が俺の全てを狂わせたんだ…なのにあの女は自分だけ幸せになって…そうさ、悪いのは全部あの女だ。俺は何も悪くない…」
「…っ!」
こんな男のせいで、彼女はあれ程苦しまなければならなかったのか――!?俺は怒りと嫌悪感と憎しみがない交ぜになった感情が堪えられない。冷静でいなければ、と分かっているのに、もう止められなかった。その堪えられない怒りのままに俺は男に向かって拳を振り上げたが、振り上げた拳が振り下ろせない。気が付くと御館さんが俺の腕を掴んでいた。
「手をあげるな土井垣!手をあげたらお前の方が責められる!」
「でも…御館さん!」
「いいから落ち着け!…それにな、この男はお前が手をあげる程価値のある男じゃねぇ。手をあげたら不祥事って意味じゃなく、お前の拳と心が汚れる」
「御館さん…」
俺は力なく振り上げた拳を下ろす。と、男は御館さんの名前に何故か反応した。
「みたて…?どこかで聞いた様な…」
御館さんは自分の名前に反応する男に、静かで冷徹な口調で言葉を返す。
「…へぇ、俺の名前に反応するなんざ、多少は真っ当な所が残ってるのかね。…そうさ、俺とあんたとは間接的な関わりがある。…俺は新任教師だったあんたの指導を任されていた、学年主任の息子だよ」
「そうか…御館先生…」
「え?」
初めて聞く御館さんの意外なこの件に関する『因縁』に俺も驚いて御館さんの方を見る。御館さんは更に静かで冷徹な口調のまま、言葉を続ける。
「親父があんたに『あの事』の責任を取らせようとした矢先に、あんたは逃げたよな…依願退職って手を使って。校長達上の連中は不祥事を隠すために黙認したが、親父はずっと責任を感じて自分を責めてたよ…あんたの指導を任されていたのにあんたに教師として、それ以前に大人として最低限の責任も取らせる事ができなかったってな。それに、こうも言っていた。こうして逃げたあんたは、これからも同じ様に都合の悪い事から逃げる事しか考えなくなるだろう…ってな。親父の心配は当たってたって訳だ」
「う…」
「でもこうして会って良く分かったよ。あんたは親父が心を痛める程、価値のある人間じゃねぇって事がな」
「…」
「この調査結果は、ここの経営者に報告させてもらうぜ。それからあんたが『あの事』をタレ込んだ雑誌や他の出版社にもリークさせてもらう。あれだけ騒動になった事のタレコミ元の実態だ。多分、派手に書き立ててくれるだろうなぁ。そうしたらあんたは、経歴詐称でここをクビってだけじゃなく、社会的な信用すら今度こそ地に堕ちるって訳だ」
「そうそう、不当解雇で訴えようと思っても、あたしもこの話知り合いの弁護士や法律事務所に流しとくから。まぁそうしなくてもここまで証拠が揃ってちゃ、こんな不利な裁判を受けようっていう弁護士はそういないでしょうねぇ。…相当お金を積めば、どっかは引き受けてくれるかもしれないけど」
御館さんと文乃さんは冷徹な口調で言葉を畳み掛けていく。その表情には何の感情も読み取れない。俺は二人の様子にこの事に完全に決着をつけようとする決意を感じると共に、同じ立場だというのにある種の恐怖も感じた。男はそれを更に感じ取っているのだろう。懇願する様な口調で二人に言葉を掛ける。
「…頼む、止めてくれ!俺は普通に生きたいだけだ!彼女に謝れというなら土下座してでも謝る!だから…そんな事は止めてくれ!」
懇願する男に、二人は更に冷徹な言葉を返した。
「嫌だね。あんたが葉月に詫びるのは心底から詫びようと思ってるからじゃねぇ、自分の保身のためだ。そんなあんたに詫びられたって葉月は救われねぇよ。もっと傷つくだけだ。…自分の罪を自覚して償うために、あんたは一回どん底まで堕ちな」
「本当に最低な男ねあんた。…こんな奴のために、今までの人生のほとんどずっと苦しまなきゃいけなかったなんて、本当にあの子が可哀想だわ…あの時合法的に裁けなかったのが悔しい位よ」
「そんな…」
「話はここまでよ。堕ちる所まで堕ちて、自分のした事を振り返りなさい」
「そこから這い上がれるかどうかは、あんたの心がけ次第だ。真っ当な人間に戻る事を祈っとくぜ。あんたのためじゃなく…親父のためにな」
「…」
男は頭を垂れて沈黙した。俺達は男を置いて教室を出ると、受付に「いいお話を聞かせて頂き、ありがとうございました」と挨拶をして塾を出る。ビルから出ると、文乃さんが大きく伸びをした。
「…さあ、これでやっとケリがつけられたわ」
「あの…文乃さん」
「何?」
「御館さんが塾や雑誌に流すのもあれですけど、文乃さんまで弁護士とかに今回の情報を流すって…本当ですか?それじゃ彼女だけじゃない、他の被害にあった人も傷つくんじゃ…」
「ああ、あれは脅し」
「え、そうだったんですか?」
俺の言葉に、文乃さんは苦々しげな表情と口調で言葉を返す。
「時効云々以前に、この手の事件はほとんど全部親告罪。本人達が告訴しない限りは立件できないの。守秘義務もあるしね。それ以前にこういう被害にあった場合、今の司法の場じゃ女性は圧倒的に不利だわ。それに余計な傷も付けられる。それを良く分かってるあたしが、そうそう簡単にこういう事を流す訳ないでしょ。…でも、一箇所だけは流すつもり。そこは不当解雇とか冤罪を主に扱ってる事で有名な所でね。何しろ、あいつの中では全てが自分中心の都合のいい事実に置き換わってるみたいだから、騙されて受けたりしたら困るし、迷惑かけたくないから。そこが動くのは真実と心意気だけだから、真実が分かってればどんなにお金積まれても断るからね。そこだけは被害者の子達にも悪いと思うし、あたしも倫理規定に反しちゃうけど、内緒で流させてもらうわ」
「そうですか…でもすいません。あそこで俺は何もできませんでした。それどころか二人に迷惑をかけそうになって…」
「いいんだ。お前がああなるのは予想の範囲内だったしな。それにこうするってのは打ち合わせした通りだろ?…それより、お前の役割はこの後の一番大事な所なんだからな。真実をここまで見たんだ。だからちゃんと葉月から断ち切ってやってくれよ。これは俺にも文にもできねぇ、できるのはお前だ」
「…はい」
俺が頷くと御館さんは満足そうににっと笑い、更に思い出した様に続ける。
「よし。…ああそうだ、わが社の特別アフターサービスは追加しておくぜ。あいつの事は本当にリークするつもりだが、お前らを含めた関係者には取材の手が回らない方法を取らせてもらう。万が一回りそうになったら、マスコミに圧力を掛けてやるぜ」
「御館さん…そんな事ができるんですか?」
俺が驚いて問い返すと、御館さんの代わりに文乃さんがさらりと答える。
「ああ、言ってなかったわね。柊はこう見えて、ちょっとは名の知れた実業家に個人的な強~いコネがあるのよ」
「ええ!?」
驚く俺に、文乃さんはコロコロ笑いながら御館さんをからかう様に言葉を続ける。
「かなりいいコネよ~?何せ、その人にプロポーズされ続けてる位、気に入られてるもんね~」
「おい文!コネのこたぁともかくプロポーズは関係ねぇだろ!第一俺ぁそいつをビジネスパートナーとしては気に入ってるが恋愛感情は全くねぇから、毎度丁重に断ってるっつってんだろうが!」
「そうよね~何せあんたは『一生分の片想い』を背負っちゃってるから」
「『一生分の片想い』…?」
「文!てめぇはしゃべりすぎだ!少し黙ってろ!」
「はいはい、真面目な話に戻すわよ。…まあプロポーズ云々は別としても、その人柊の経営手腕を買ってるから、柊を経営コンサルタント兼名目上の取締役として、手元に置いてるのよ。で、その人は政界とも縁が深いから、そこを使えばちょっとした圧力位なら簡単に掛けられる…でしょ?」
「…御館さんって、すごい人だったんですね」
文乃さんと御館さんの会話に色々不思議さを感じながらも、俺は心底驚いた。文乃さんの人脈が広い事は知っていたが、ここまで広いものだったとは…驚いている俺に、御館さんはばつの悪そうな表情で口を開く。
「…まあ、とにかくそういう事だ。とはいえ俺としちゃ会社はあっちの仕事で、俺の本業は自分でやってるこういう細かい事を引き受ける何でも屋だって思ってるけどな。あっちもそう思ってるから、会社にはよっぽどの事がなきゃ義理程度しか顔を出さねぇ俺を笑って黙認してるし」
「はぁ…」
「こういう『権力』ってカードは俺もそいつも本当なら使いたくねぇんだが、今回は特別だ。理由を話せば正義感の強いそいつだ、無条件で受けてくれる。だから周りの心配は一切いらねぇよ。文、お前もこういうカードは嫌だろうが今回だけは勘弁してくれよ」
「いいわよ、あの子のために使ってくれるんだもの。今回は逆にあんたと彰子さんに感謝よ」
「驚きましたけど…ありがとうございます。そこまで気を遣ってもらって」
文乃さんと俺の言葉に、御館さんはばつの悪そうな表情からまたにっと笑うと明るい、しかし真剣さが込められた口調で俺に言葉を返す。
「言ったろ?葉月は俺にとって大事な妹も同じだってな。妹に迷惑が掛かるのは本意じゃねぇし、何より幸せになって欲しいと思ってる。幸せの種を持ってるのはお前だ…だから頼むぜ」
「はい…でも」
「どうした?」
「彼女からこの事を断ち切るって大見得切りましたけど、俺に本当に断ち切れるんでしょうか…それどころか彼女は俺を拒んでいます。断ち切る云々以前に…俺を受け入れてすらくれないかもしれません」
俺の言葉に、今度は文乃さんが励ます様な口調で俺に言葉を掛けてくれた。
「大丈夫よ。あんたがちゃんと気持ちをぶつければ、あの子はちゃんと受け止めるはずよ。だって、あんたを拒否してるのは、あんたを心底好きな事の裏返しだもの」
「でも…」
「あんたの気持ちは決まってるんでしょう?だったら玉砕覚悟でそれをあの子にぶつけて頂戴。あの子が『この事』を断ち切るには、それしかないとあたしは思うわ」
「俺も文と同意見だな」
「…」
二人の言葉に俺は考える。断ち切れないかもしれない。それどころかまた拒まれるかもしれない。でも彼女があの時言った様に全てをこのまま無かった事にするのは嫌だった。それと同時にこうしようとした時の決意を思い出し、それをそのまま二人に告げる。
「そうですね。拒まれるかもしれない、そうじゃなくても俺じゃ断ち切れないかもしれない…それでも俺自身の決着をつけるために、彼女にちゃんと向き合って…気持ちをぶつけてきます」
俺の言葉に二人は満足げに頷くと、爽やかな笑顔になりそれぞれ口を開いた。
「ありがと、お願いね。これで全部が終って新しく始まるわ…きっと。これからもよろしく…でいいのかしら?将君」
「ま、玉砕したら俺達二人で骨は拾ってやるからやるだけの事はやってみな…でもお前が気持ちを正面からぶつければ、俺達が骨を拾う必要は絶対ねぇとも思うがな。だから行って来い」
「はい」
二人の言葉に俺も無意識に笑顔になる。どうなるかは分からない。でも彼女に対して俺ができる精一杯の事をしてみよう。彼女のために、そして何より俺自身のために――