夏のオフのある日、義経は小田原へと足を運び、恋人の若菜と一緒に彼女の母校である古城高校へ行って彼女が入っていた部活である演芸研究会の夏休みの活動を一緒に見学していた。彼女が入っていた児童班の活動場所である教室に足を運ぶと、彼女の親友で土井垣の恋人である宮田葉月と、やはりOBで彼女達の先輩であり義経とも面識がある御館柊司という男性も来ていて、彼女達の指導のもと、部員達は夏休み後半の保育園の慰問に向けて、人形劇の人形作りや脚本の修正にいそしんでいた。
「葉月さん、俺の頭、どこら辺で切ったらいいですかね~」
「そうね~このバランスだと耳の後ろで切った方がいいかしら」
「若菜さん、あたしの頭どんな色が似合うかなぁ」
「そうね…猫ちゃんよね。白は汚れ目立つから…青っぽい紫強めの灰色とかどう?アビシニアンみたいな。確かできたはずよ」
「あ、それもらいました。…こんな感じかな~…うん、かわいい~!」
「御館さん、脚本こんな感じで直してみたんですが」
「どれどれ…うん、これなら小道具も人数足りるし、転換も辛くないな。後は大道具をどうするか皆で考えねぇとな」
「はい」
 義経はそれぞれの指導に感心しながらも、ただ音声で聞いていると中々怖い会話になっている事に苦笑しながらそれを口に出す。
「しかし…言葉だけ聞いていると、どんな恐ろしい部活なんだとつい考えてしまう俺は…いけないのだろうか」
 義経の言葉に、葉月と若菜と柊司がそれぞれ笑いながら応える。
「それは人形作る時に、ここの部員全員が一度は考える道ですよ」
「そうそう、黒ミサでもやってるのかって気分になったりね」
「きちんと『カシラ』って言やぁいいんだろうがな。つい面倒で『アタマ』って言っちまうからな。想像したらどんだけホラーだか俺もよく考えるぜ」
「そうですか」
 そうやって笑い合いながら作業をしてしばらく後、柊司が部員達に声を掛けた。
「じゃあ、一息つくのに下の自販機で悪ぃが、ジュースでもおごってやるか。皆好きなもんリクエストしていいぞ。葉月も、若菜ちゃんも、義経もな」
「いいんですか?」
「ああ、その代り義経は運ぶの手伝え。いいな」
「あ、はい」
「じゃあお言葉に甘えて。俺スポーツドリンク」
「私も同じで~」
「私ウーロン茶でいいですか」
「じゃああたしも」
「俺一人だけ悪いっすけど、コーラで」
「了解…葉月は?」
「ん~そうだな…じゃあ少し汗かいたから、あたしもスポーツドリンクにする」
「分かった。若菜ちゃんは?」
「あ、えっと…じゃあ私も一人だけ悪いんですが、確か緑茶ありましたよね?それで」
「よっし。じゃあ義経、行ってくっか」
「はい」
 そう言うと柊司と義経は教室を出て、校舎の反対側に面した体育館入り口にある自動販売機へ足を運ぶ。歩きながら柊司はふと義経に話しかけた。
「…義経」
「はい」
「俺の考え違いだったら悪ぃが…もしかして何か俺にさしで言いたい事があるんじゃねぇか?」
「!」
 柊司の言葉に驚きながらも、その言葉通りだったので、義経は思い切って柊司に以前からずっと言いたかった事を口に出す。
「…あの、御館さん」
「おう」
「初めて会った時からずっと思っていたんですが…この春じゃなくて…以前、もっとずっと前に…どこかで会った事がありませんか?」
 義経の言葉に、柊司はくくっとした笑いから吹き出すとそのままゲラゲラ笑い、からかう様な口調で返す。
「何だよ、何かと思ったらそのナンパみてぇな質問は。そう言うこたぁ若菜ちゃんに言ってやれ」
 柊司の言葉に義経は赤面しながら荒げた声で言葉を重ねる。
「冗談じゃなく!…本当にどこかで会っている気がするんですよ。思い出せないのがもどかしいんですが。御館さん、本当にどこかで会っていませんか?」
「…」
 柊司は義経の言葉に乱暴に頭を掻いて何やら考える素振りを見せた後、不意に義経ににやりと笑いかけて言葉を返す。
「…お前、本当に記憶力悪ぃな…それとも修行の邪魔になるってわざと忘れたのか?…ま、どっちでもいいさね。…ほら義経、着いたぜ。お前は何飲みたい?」
 ふと見ると、いつの間にか自動販売機の前に辿り着いていた。急に話をはぐらかされて義経は不満に思いながらも、柊司の気遣いは分かるのでリクエストを出す。
「…緑茶で」
「おう……おらよっ」
 柊司は緑茶を買うと不意に義経に投げ渡す。いきなりペットボトルを投げられ驚いて受け取りながらも、ふとある情景に今の自分が重なる感覚とともに、義経に一つの記憶が湧き上がってきた。そうだ、あれは明訓と戦ったあの夏――

 その日、義経は小田原を歩いていた。山田擁する明訓の偵察を兼ねその試合を観戦し、その後は修行を兼ね、武蔵坊と箱根路から合流するキャプテンの富樫を皮切りに、それぞれの場所で修業をしていたレギュラーが合流し、甲子園の宿舎まで徒歩で向かう事になっていた。とはいえ途中の最低限の食糧と、野宿だけはやめろと野球部の監督や校長から言われているので、宿泊先の確保はしなければならない。そのため一足先に今日の宿泊地点の道場に縁の寺社を武蔵坊が先ぶれで訪ね、今は義経一人で武蔵坊に合流するために歩いているのである。こうして時折飲み水を分けてもらいながら歩を進めているが、基本的に町の人達は気のいい人が多く、途中で飲み水を分けて欲しいと頼むと快く分けてくれるし、年配の人によっては『長旅で疲れてるべ?上がっていっぺぇ茶でも飲んでけ』と上がらせてお茶とお菓子を出して、世間話がてら一番歩きやすい道を教えてくれたりもした。しかし市街地を道路沿いに一人で歩いていると、その顔立ちと装束が目立つせいか、市街地に群れている自分と同じ年頃の少女達が騒ぎ立てる。わずらわしくなった義経は、今は市街地しか歩く所がないが、泊まる寺の場所の関係でもう少ししたらその寺には山道に入っても行く事ができるので人気が少ないであろう山道を通ろうと考え、進路を山の方角へ変えた――

「…あ、ジェームズ君が切れかかってる」
 それより少し前の古城高校の教室。葉月が困った様に口を開く。その言葉に、弥生も業務用木工ボンドの容器の中を見ると、少し困った口調で言葉を続ける。
「あ~ホントだ。残量の事考えてなかったね~今の時点は水で伸ばして使ってるからいいけど、これだと今日の頭づくりでギリギリかなぁ」
「ん~そだね~ビバちゃんで買ってこないと…あたし行って来ようか?」
「ああ、俺が行くよ。今日は暑いから葉月ちゃんはここでゆっくり頭作ってろよ」
「あ、場所教えてくれたら俺行って来てもいいっすよ。こういう事は後輩に任せて下さい」
「そうですね~それともあたしが行きましょうか?」
 部員の口々の言葉に、脚本直しを止めて様子を見ていた若菜が声を掛ける。
「いいわよ。みんな頭とか小道具作り始めちゃったでしょ?そのまま全部作った方がいいわ。この中じゃ演出の私が一番暇だから私が行ってくるわよ。丁度脚本も手直しがひと段落したから、行ってくる間に御館さんに見てもらえるし」
「いいんですか?若菜さん」
「ええ、大道具とか人形の身体用の木材買ってこいとかだったら困るけど、とりあえずはジェームズ君だけでしょ?」
 若菜の言葉に、弥生が更に頼む様に言葉を掛ける。
「あ、じゃあ悪いけど後黒ガム15個買って来てくれる?それも切れかかってた。茶ガムはもっとまとめて買う方が安いから、今度木材買い行く時にお店の場所教えがてら皆でビーバー行くからその時買うつもりだし。それ位なら増えても大丈夫でしょ?」
「うん、大丈夫。じゃあおよう、お金くれる?」
「分かった。はい、じゃあいつも通りお金とおつりと領収書いれる空財布。お金は五千円だとちょっと足りなかったはずだから…一万円あれば足りるよね」
「一応大ざっぱに計算するね…黒ガムが一個300円ちょっとに業務用のおっきいジェームズ君だと…うん、五千円よりちょっと足が出るから一万円もらっていくわ。じゃあ御館さん、行ってくる間に脚本直したところ見ておいて下さい」
 若菜の言葉に、人形作りを指導していた柊司は言葉を返す。
「分かった…ああそうだ。俺チャリでここまで来てっから、それ使えよ。行きはともかく益田団地か競輪場から帰ってくりゃ距離と多少坂あるが古希庵坂よりゃましだろうし、かごにその程度なら荷物も入れられるから手も楽だろ」
「ありがとうございます。お借りしていいですか?」
「ああ。ほら鍵。チャリはいつものとこにあるからよ」
「分かりました。じゃあ行ってきます」
 そう言うと若菜は教室を出て行った――

「…少し…暑いかな」
 山に続く坂道を登りながら、義経は照りつける日差しを見上げた。今日は晴天の上気温も高い。脱水症状に陥らない様こまめに水分をとって歩いていたが、すぐ汗となって流れてしまう。そうしている内に水筒の水が残り少なくなってきた。どこかで水を補給しないと、と思って周囲を見るが、道の片方は森の様な木立、道路を挟んだ片方は警備が厳しそうな校舎だ。水が補給できそうな所はない。どうしたものかと考えていると、不意に山の上の方から自転車が滑る様に下りてきた。しかしどうもその様子は勢いの割に、籠に入っている荷物のせいかふらついていて危なっかしい。道路は整備や舗装がされていて一見開けている山道だが山道だけに車の通りは少なく、人気もあまりない所なので事故でも起こしたら危ないと思って、彼は止めようと自転車の前へ立ちふさがる形で出ていく。それに気づいたらしい自転車は彼にぶつかる直前で急ブレーキを掛けて止まると、乗っていた少女が慌てて自転車から降りて彼に声を掛けてきた。
「すいません!大丈夫ですか?」
「あ…ああ、大丈夫だ」
 そう言いながらも義経はその少女に不意に釘づけになった。透き通るくらい色白な肌を引き立てる背中辺りまで長く伸びた緑なす黒髪に、切れ長で黒目がちの目と赤い唇という、日本人形の様な顔立ちが印象的な少女。その容貌と華奢と言っていい位細身の体形にモスグリーンのスカーフとラインの夏用のセーラー服に膝下丈のプリーツスカートがよく映え、服装こそ洋服だが、その姿はまるで絵巻物から出てきた平安朝の姫君の様に可憐でたおやかで――彼は何と言っていいのか言葉を失って、ただひたすらに少女を見詰めていた。
「…あの…どうか…しましたか?」
「…え?あ、ああいや…ああ、そうだ。…あの、唐突で悪いんだが…どこかこの辺りで…そう、飲み水が確保できる所はないだろうか」
 自分を見詰める義経の視線に顔を赤らめ戸惑った様子を見せている少女に、義経ははっと気が付くとこちらも戸惑いながら言葉を返す。その言葉に、その少女は戸惑いながらも少し考えると、言葉を返す。
「え…ええと、そうですね…じゃあうちの学校の水飲み場の水で良ければ。どうぞ…案…な…」
 そう言いかけて踵を返した時、不意に少女は虚脱した様に崩れ落ちた。驚いて義経がとっさに抱き留め顔色を見ると真っ青で、冷や汗とも脂汗とも分からない汗が滲んでいる。義経は慌てて少女を横抱きにしてもう片方の手で少女の手から自転車を離して傍らに置き、通行の邪魔にならない様に道の端に寄り自分を背もたれにさせ少女を地面に座らせると、改めて声をかけた。
「君!大丈夫か?」
「すいません…急に…目の前が暗くなって…」
「とりあえずこれを飲むといい」
「はい…すいません…」
 義経は水筒に残っていた水を少女に与える。少女はこくりと飲み干したが、それでも顔色も虚脱した様子も良くならない。どうしたらいいものかと困っていると、木立の中にある脇の坂道から警備員の様な姿をした男性が下りて来た。
「どうしたんだね…おや、その制服は古城の子だねぇ」
「『こじょう』?」
 義経が問い返すと、男性は説明する様に上の木立を指し言葉を紡ぐ。
「『古城』って言うのはこのすぐ上にある高校の名前だよ。それより、どうしたんだね」
「はい、どうやら彼女が貧血を起こした様で…どうしたらいいかと困っていたんです」
「そうかい。じゃあ校舎はこのすぐ上だから、僕が上がって先生を呼んで来るよ」
 そう言った男性の言葉に、義経は彼女を抱き上げ立ち上がると、自分でも思いもよらない言葉を返していた。
「いいえ、その時間も惜しいので僕が運びます。案内をお願いできますか」
 義経の言葉に、男性は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐににっこり笑うと、言葉を返す。
「…そうかい。じゃあ案内するよ。でも校舎に入ったら先生を呼ぶのは僕に任せてくれないかな。僕なら校舎のすぐ傍にある競輪観客用の駐車場の管理をしてる関係もあって、先生達とも面識があるし」
「そうですか。では、お願いします」
「ああ。…っと、それは彼女の自転車かい?」
「あ、はい」
「そうか。じゃあ僕が押して行こう」
 そう言うと男性は自転車を押しながら義経を案内し、義経は少女を抱いたままそれに付いて木立の中の坂道を登っていく。少女はうっすらと目を開けると、ぼんやりとした眼差しで義経を見詰め、申し訳なさそうに、しかし身体が辛いのか、弱くか細い声で途切れ途切れに言葉を掛ける。
「…すいません…通りすがりの…方に…ご迷惑…を…掛けて…」
 少女の言葉に、義経は宥める様に、しかし具合の悪い少女に刺激を与えない様に、こちらも小さな声で言葉を返す。
「いや…、気にしなくていい。それより身体を楽にして静かにしていた方がいい。貧血なら休むのが一番だ」
「はい…すいま…せん」
 少女は目を閉じると、彼の腕の中でぐったりと脱力した。義経はとっさに他意なく自分で運ぶと言っていながら、腕の中の少女の重みと身体の温かさや柔らかい感触に心地よさを感じて胸を騒がせている事に気付いてそんな自分に戸惑いを覚えるのと同時に、体調が悪い彼女にそんな不埒な感情を持つのは失礼だし、山伏としても修行が足りないと自分を律しながら黙って坂道を登って行った。男性は校門を通り抜けると自転車を置き、入り口正面の校舎ではなく、渡り廊下でつながれている一つ離れた小さく古びた校舎へ入っていく。義経が気を遣って外で待っていると、校舎の中からわらわらと教師らしい人間が担架を持って出てきた。その中の男性の一人は少女の顔を覗き込むと、安心した様に胸を撫で下ろす。
「貧血って一体誰が…ああ、神保さんか。ならひとまずはただの貧血って事で大丈夫かな。宮田さんだったら他の原因あるかもしれないから危ないけど」
「そうだね~」
「ちょっと待って下さい、そんな言い方はないんじゃないですか」
 余りに呑気な教師達の様子に義経は声を荒げる。その様子にも動じず教師達はのんびり応える。
「いや、神保さんの状態が辛いのは、これ見れば僕達も分かってるよ。でもこういう時にもっと危ない子がうちにはいてね」
「へぇ~?それは誰の事ですかぁ~?」
 不意に恨みがましげな声が聞こえてきたので声のした方を見ると、そこには腰までありそうな長い髪を二つに分けて結び、わざとらしく恨みがましい眼差しと態度をした、彼女と同じ制服姿の少女が立っていた。その姿を見た教師達は申し訳なさそうに片手をあげてその少女に謝る。
「いやごめんごめん宮田さん、でも事実だろ?」
「まあそれもそうですけど…ってお姫、どしたの?」
 少女は義経の腕の中の少女を見て驚き、慌てて駆け寄り声を掛ける。『お姫』と呼ばれた彼の腕の中の少女は大きく息をつきながら、問いかけた少女に小さな声で言葉を返す。
「うん…ごめん…早く帰って来ようって思って…頑張って…古希庵坂から…往復したら…貧血…起こしちゃったみたい…で…通りがかった…この人が…助けてくれたの…」
 少女の言葉に、もう一人の少女は心配を滲ませた口調で言葉を返す。
「そっか…とりあえず保健室で寝てなよ。皆には話して部活終わる頃迎えに行くからさ」
「うん…ごめんね…」
「いいよ。脚本上げるためにここんとこ無理してたんでしょ?ここんとこずっと暑いし、ちゃんと休まないで無理したら、あたしじゃなくても具合悪くなるよ。今日のとこは後はあたし達に任せてゆっくり寝てな。じゃあ先生、後お願いします」
「ああ。じゃあ君、担架に乗せて保健室に運ぶから彼女をこちらに」
「あ、はい」
 そう言うと後から来た少女は一足先に校舎に入って行き、義経は教師達が用意した担架に少女を乗せ直すと、一緒に保健室まで付いていった。少女はベッドに寝かされ、養護教諭が状態を見て、テキパキと処置をしていく。
「…この様子だと貧血じゃなくて熱疲労…いわゆる熱中症ね。でも早めに処置できたしこの症状ならまず身体を冷やして水分と塩分を取らせて休ませればここで回復できると思うから、スポーツドリンクを飲ませて保健室にある氷嚢で身体を冷やしながら静かに休ませて、様子を見ながら回復したら念のため医師の診察受けてもらいましょうか。とは言っても、もし水分が飲めなかったり、様子見の段階で具合が良くならなかったり、むしろ悪くなる様だったら即救急車だけどね」
「そうですか…」
 義経は最悪の事態の事を考えると多少の不安はあったが、それでも養護教諭の明るいながらもきっぱりとした口調に何となく安心して胸を撫で下ろす。そうしながらもまた無意識に少女に目が行き、蒼い顔で苦しげに眠っているのは心配だが、それでも彼女の可憐な姿からまた目が離せなくなる。そうして見詰めていると、付いてきた教師の一人が義経に声を掛けた。
「ところで…君は一体?」
 教師の問いに、義経ははっと気づくと、あまり正体を明かしたくないので言葉を濁す。
「あ、ああはい、その…僕は…通りすがりの旅の者です」
「旅の者って…見た所うちの生徒と年齢変わらない様なのに、一人でこんな普通の観光場所から離れた辺ぴな所まで歩いてるなんて、ここに昔の城址がある事を知ってるって事か。よっぽど歴史が好きなんだねぇ」
「はあ、それもありますが…同時に本来なら一緒に行動する連れが今ちょっと別の場所にいて。こちらの道を使うと、その連れがいる所への近道だったので…合流するためにこちらを歩いていたのです」
「そう、でもどこかで…ああ!今見てたスポーツ新聞に出てた、今度の甲子園に出る弁慶高校の義経君に似てるんだ!」
「はあ…そうですか?」
 適当に言葉を濁して応対する義経をそれ程警戒もせずに、教師達はお礼の言葉を述べる。
「ああ、よく似てるよ~でもまさかね。彼らがこんな大事な時期にこんな所にいるはずないし」
「それはともかくありがとう、君。おかげで生徒が倒れて放置されるのが防げたよ。ここは車の通りも少ないし、加えて今日みたいに競輪開催日だと逆に不審者が増えるしね。身ぐるみはがされたり、何かいたずらでもされたら大変だったから」
「あ…はあ…そうですか」
「何もお礼できないのがもどかしいけど、せめて職員室でコーヒーでも飲んでいくかい?」
 こうして身元を濁している自分こそ『不審者』と言われてもおかしくないのに恩人として扱ってくれる上、初対面の自分に気さくな態度を取る教師の言葉に戸惑いながらも、義経は気を遣わせない様に言葉を選んでやんわりと断る。
「いえ、先を急ぎますので…気持ちだけ頂きます。そうだ、これに対するお返しの頼みというと何なのですが、彼女にも頼んでいた事で…こんな時に悪いのですが手持ちの水筒の水が切れてしまっているので…できたら飲み水を分けて頂きたいのですが」
「いいよいいよ。そんな事ならお易いご用さ」
「この丁度反対側の突き当りにある旧体育館の前に生徒用の水飲み場があるから、そこで好きなだけ水を汲んで行きなさい。水がいい小田原にしちゃあんまりいい水じゃないのが悪いけど、飲めない程酷くはないし」
「はい、ありがとうございます。では長居してしまいましたが失礼します」
 義経は何となく少女と離れがたい気持ちがあったが、武蔵坊と合流しなければいけないのでその気持ちを抑えつつ、一礼して保健室を出ると言われた水飲み場で水筒に水を満たし、丁度その先に門があったのでそのまま出て行こうとする。と、門を出る直前、不意に男性の声で呼びとめられた。
「…ちょっと待ちな」
「え?」
「おらよ」
 義経が振り返ると、ジーンズにラフなシャツ姿の長身の青年が義経にスポーツドリンクを二本投げ渡した。驚きながらも義経が受け取ると、青年はにっと笑って言葉を重ねる。
「葉月から話は聞いたぜ。可愛い後輩を助けてもらった礼だ。水ばっかりだと塩分やら糖分が足りなくなってばてるからな、道中それも適当に飲んどけ」
「…ありがとうございます」
 義経が戸惑いながらお礼を言うと、青年はにっと笑って更に言葉を重ねる。
「何でこんな所にいるのかは知らねぇが…ありがとうな、義経。それから道中気をつけろよ。若菜ちゃんが元気だったら絶対そう言うと思うから、俺が代わりに言付けとくぜ」
「『わかな』…?彼女は『わかな』と言うのですか?」
 義経は自分の正体がばれている事も気にせず、はやる心のままに思わず問い返していた。青年はにっと笑ったままその問いに答える。
「ああ、神保若菜って言うんだ。…ま、名前くらいは教えてやるよ。自分が助けた人間の懐にここまで入ったのに名前知らねぇってのも気分悪ぃだろ」
「はあ…」
 彼女の名前が分かった嬉しさで鼓動が速くなり、顔が熱くなってくるのを感じたが、山伏の身に女人は禁忌という戒律を思い出し、湧き上がった思いを振り払う様に頭を振ると、青年に一礼する。
「では…失礼します。スポーツドリンク、ありがとうございました」
「ああ。ま、縁があったらまた会おうぜ」
「…そうですね。…『縁があったら』…」
 義経は笑顔で手を振る青年にふっと寂しげに笑い返すと、痛む胸を堪えながら踵を返して門を出て行った。『縁があったら』。そんなものは決してない。自分は将来山伏道場に身を置く。そうしたら俗世からは離れ、もう二度とここを訪れる事はないじゃないか。彼女との縁はこれで生涯切れるんだ――きりきりと次第に痛みが強くなる胸を鎮めようと、義経は歩を早めた――

「そうだ。…あの夏の…あの時の…」
 全てを思い出し驚愕した表情に変わった義経に、柊司はにやりと笑い返す。年月が経ち、景色も随分変わっており、ここにいる柊司の顔立ちも若さより精悍さが増していたが、確かにあの時の青年は柊司で、あの時いたのはこの場所だった。柊司はにやりとした笑みからふっと柔らかな笑みに変わると続ける。
「…やっぱり記憶から抹消してたか」
「…ええ、山伏の身に女人は禁忌。心を残したら辛いだけだと思っていましたから…」
 義経は全てをなかった事にした自分に自己嫌悪を感じ、少し沈んだ表情で答える。そう、女人禁制の山伏の身である自分には彼女に対する想いはあってはならないものとして、あの後義経は打倒山田にそれまで以上に心を傾け、彼女との出会いをなかった事として記憶の片隅に封印したのだ。そして明訓には勝ったものの、その後武蔵坊と二人野球の世界にも俗世にも戻る事はなく、山伏道場の総師となるべく修業を重ね、彼女の事は少なくとも意識上からは消し去っていた。しかし、土井垣監督の説得により再び野球の世界に、そして俗世に戻り、彼女とそれとは知らずに再び出会った。そして俗世に戻ってどれほど女性に騒がれても興味を持たなかった自分が、彼女にだけは出会った時からそれとは知らず再び心を寄せ、恋に落ちたのだ。全てをなかった事にしていた事に自己嫌悪を感じつつも、それでも彼女への想いを心の奥底で持ち続けていた自分の思いもよらない彼女への想いの深さに、義経は戸惑う。その様子を見つめていた柊司はふっと遠い眼を見せて静かに続ける。
「若菜ちゃんはあの後ちゃんと落ち着いたが…落ち着いてからお前の事を一生懸命聞いてきて…俺がお前の事話したら、その後何日も何か考え込むみたいにふさぎ込んでたよ。多分だが、礼を言いたかったのもあるんだろうが…お前が何も知らない自分に何も考えずくれたまっすぐな優しさに、一瞬で惚れてたんだな。だが、もうこんな偶然はある訳ないから二度と会えないって思って、表面上は諦めてたみたいだ。だがな、どっかでずっと想いを引きずってた。だから、どんなにいい男から真剣に惚れられても誰にも靡かなかったし…そうして無意識だろうがお前をずっと待ち続けて…10年以上経っちまったが、お前とまた出会えた偶然を、誰にも分からねぇ様にだが…心底感謝してた」
「そうですか…でも、何で彼女はその事を俺に話してくれなかったんでしょう…」
「本当は若菜ちゃんだって言いたかったんだよ。…でも言わなかったのは…同情や過去に付け込みたくなかったからさ。まっさらな状態で自分に惚れてくれるか、自分が惚れられるか…そんな風に自分を追い込む娘なんだ、彼女は」
「…御館さん、彼女の事をよく分かっていますね。もしかして御館さんも…?」
 義経の問いに、柊司はからかう様な口調だが、優しいながらもふっと複雑な笑みを見せて答える。
「ば~か、余計な事考えんじゃねぇよ。…俺にとって若菜ちゃんは、俺の『誰よりも大切な女』の昔からの親友だからな。一緒に妹みたいに可愛がったし、今でも妹みてぇなもんだから、自然と詳しくなっただけだ」
 柊司の言葉に義経は柊司の秘かな想いを思い出して、こちらも複雑な笑みを見せて返す。
「…そうでしたね」
「ああ。…で?こうして縁があったし、思い出せた訳だが…感想は?」
 柊司の悪戯っぽいが真摯な問いに、義経は自分の全ての想いを込めた、爽やかな笑顔を見せて答える。
「縁があって…また出会えて…思い出せて…本当に良かったです。俺も…彼女にあの時一目で恋していましたから。ですから、こうしてまた出会って、恋をして、それだけじゃない、こうして思い出せたのですから…この想いは本物だとはっきり言います。そうして…たとえ禁じられた想いと咎められようと、もう諦めませんし…彼女を離す気ももうありません。その決意が更に強くなりました」
「そうか」
「はい」
 義経の言葉に、柊司は満足げににっと笑うと、言葉を重ねる。
「それ、ちゃんと若菜ちゃんに言ってやれよ。後で二人っきりになった時にでもよ…さ~て、皆待ちくたびれてるだろうから、とっととブツ買って戻るか」
「はい」
 そう言うと二人は笑い合ってジュースを買い、教室に戻って行った。