柊司がくれたきっかけで過去の出会いの全てを思い出した義経は、記憶の糸を手繰り寄せる様に更にその出会いの頃の記憶をお茶を飲み、同席している若菜達の部活動を見ながら思い出していく。あの夏の大切な記憶を――

 若菜と出会い、それとは知らず惹かれて、しかし山伏の身に女人は禁忌と全てを押し込める様にその場所から離れ、武蔵坊と合流し、その日の宿泊先である道場に縁の保育園を兼ねた寺に足を運ぶ。その住職一家は『何もおもてなしできないけれど、ゆっくり疲れを癒しなさい。明日は駅伝ほどのスピードじゃないとはいえ一気に箱根を登って越えるんだろう?』と気を遣って早めに沸かしてくれていた風呂を使わせ、宿坊にしている部屋で『食事まで少し時間があるから』と二人を休ませてくれた。そうして休んでいると、不意に武蔵坊が声を掛けてくる。
「…義経」
「何だ、武蔵坊」
「気持ちが上の空の上…乱れているぞ。何があった」
 武蔵坊に乱れの理由までは知られておらずとも気持ちが乱れている事を見抜かれて、義経はほんの少しだけ動揺したが、その動揺も乱れの理由も隠す様にわざと無愛想に応える。
「…別に」
「山田達を見て昂ぶる気持ちも分かるが、俺達は俺達だ。修行が足りないぞ」
「…分かっている」
「…ならいいがな」
 武蔵坊はまだ何か言いたそうな様子を見せていたが、何を言ってもこの態度は崩せないと分かったからかそれ以上は何も言わず沈黙した。そうしてお互い何も言わず身体を休めていると、不意にこの家の夫人が申し訳なさそうに部屋に入ってきて二人に言葉を掛ける。
「…ごめんなさい、お客様のあなた達には申し訳ないけどお使いを頼みたいの。今日の食事のがんもどき、保育園の給食分に混ぜて注文しちゃって買い足ししなきゃならなくてね。今お豆腐屋さんに電話で用意してもらう様に頼んだのだけど、今丁度主人も子どもも出かけていて私はお台所から離れられないから、代わりに受け取ってきて欲しいの。お代は請求書を貰って後で私が払う事で話が付いているから。お願いできるかしら」
 夫人の頼みに二人は快く返事を返す。
「はい、僕達で良ければ受け取ってきます」
「こうしてただで宿を借りて、食事まで頂けるのですし、できる事なら何でもいいつけて下さい」
「じゃあお言葉に甘えるわ。お豆腐屋さんは旧道を小田原側に戻った所の伊豆谷さん。場所も簡単だし看板と暖簾ですぐ分かると思うわ、お願いね。戻ってきたらお台所に寄って渡してね」
「はい」
「では行ってきます」
 そう言うと二人は建物を出た。

「こんにちは~おじさん、おばさん」
 それより少し前の伊豆谷豆腐店。財布を握り締めた葉月が暖簾をくぐり扉を開けて明るい声を店の中にかける。それを聞いた店の主人達が彼女に言葉を返していく。
「あら葉月ちゃんじゃない。お使いに来たの?」
「はい。両親帰ってくる前におみそ汁だけは作っておこうと思って」
「そう。じゃあ今日は何買う?お豆腐?あぶらげ?」
「う~ん…スタンダードに絹もいいし…でもあたしはちょっともっちりした木綿の方が好きだし…あぶらげもおみそ汁だといい味出しておいしいんだよな~。おじさんとこのお豆腐、何でもおいしいから困るよ~」
「上手だねぇ葉月ちゃん」
「お上手じゃないも~ん!ひど~いおじさん!」
「ごめんなさい、そうね。昔から葉月ちゃんは近所に何軒かお豆腐屋さんあるのに、うちの豆腐じゃなきゃやだやだって言ってくれてたもんね」
「だってホントにおいしいんだもん…って話してちゃだめだった。…え~っと…決めた!あたしが買わないとめったに食べらんない木綿一丁!」
「ありがとう、葉月ちゃん。…そうだ」
「何ですかおじさん」
「ちゃんとお使いして、ご飯の支度の手伝いとお留守番をしっかりしてる葉月ちゃんにご褒美。今日は珍しくゆずみそ豆腐が売れ残ってね。葉月ちゃん大好きだったよね。おまけにあげるよ」
「いいんですか?嬉しいけど…ご褒美って言うのがちょっと複雑かも。おじさんもおばさんも、この制服だしあたしがいくつか知ってますよね?」
「でも俺らにとっちゃ葉月ちゃんはこの町内中飛んで歩って、あちこちでとんでもない遊びしてるちっちゃい葉月ちゃんしか見えないよ」
「そうそう」
「ひど~い!」
「まあまあそれはともかく…いいから持っていきな。どうせ売れ残ったらうちで食べるしかないんだから」
「そうですか?…じゃあ甘えちゃいます。ありがとう、おじさん、おばさん。また来るね!」
 そうして葉月は形ばかり頬を膨らませながらもすぐに満面の笑顔を見せて頭を下げ、品物を受け取って店を出て家へ帰ろうとする。と、前方から見覚えのある(というより特徴的すぎて忘れ様がない)格好の青年といってもいい少年達が店に向かって歩いてくる。その片方の大柄な少年は見覚えがないが、もう一人のもう一人と比べれば小柄だが充分長身で端正な顔つきの少年は――その答えにたどり着いた時、彼女は思わず彼らに対して声をあげ、手を大きくぶんぶんと振っていた。

「あ~っ!今日のお姫の恩人の人だ~!また会えましたね!」
「…どこかで君に会ったか。覚えがないが…」
「…君は…あの時の…」
 武蔵坊は怪訝そうに少女を見たが、義経はその姿に驚く。モスグリーンのラインとスカーフの夏用のセーラー服はあの時の『彼女』と同じ、そして二つに分けて結んだ腰を覆うまでありそうな長い髪は、その『彼女』を見て駆け寄り心配そうに声を掛けていた少女だ。『彼女』ではないにしろ、『彼女』と縁のある人間にまた会えるとは――驚きのあまり言葉を失っている義経に、武蔵坊は怪訝そうに問いかける。
「…どうした?彼女と何かあったか」
 驚いている義経とそれを怪訝そうに見ている武蔵坊の様子を見て、少女は首をすくめて舌を出すと、申し訳なさそうに言葉を紡ぐ。
「…すいません、いきなり声上げたら確かにびっくりしますよね。でも柊兄がお礼してくれたけど、私直でちゃんとお礼言う前にあなた出てっちゃったんで気にしてたんです。今日は親友を助けてくれて、どうもありがとうございました」
「あ…ああ、いや、放置するのも良くないと思っただけだから。…ところで、彼女はあれから…?」
「ちゃんとあの後冷やしてスポーツドリンク飲ませたら落ち着いて、念のために彼女の親に連絡してから、かかりつけのお医者さんにタクシーで連れて行きました。でも心配はまずないだろうって」
「そうか…良かった」
「義経、どういう事だ」
 不審そうに二人の様子を見ている武蔵坊に、義経は嘘ではないが真実でもない答えを返す。
「ああ、いや…お前と合流する途中で病人と行き合わせてな。その病人を傍にあった学校の医務室に運んだんだ。彼女はその病人の身内で」
「…そうか」
 武蔵坊は義経の口調に何かを感じ取ってその答えに納得がいかない様子だったが、それ以上の事は言わず黙りこむ。と、店の中から店主らしき男性が顔を出した。
「どうしたんだい葉月ちゃん。おっきな声出して」
 少女は笑顔で男性に説明する様に、明るく身振り手振りを交えて一生懸命応える。
「ああ、ごめんなさいおじさん。あのね、今日学校の前で具合悪くなったお姫っていうか若菜ちゃん…ほら、最近よく話してたちっちゃい時に山王からよくうちに遊びに来てた女の子…彼女をね、この人が助けてくれたの。でね、お礼言う前に立ち去られちゃったんだけど、今ここで行き合わせてね。まさかこんなところで会えるって思ってなかったから、びっくりして声あげちゃったの」
「そうなのか~縁って言うのはあるもんだね」
「うん…あ、そうだ」
 少女は持っていたビニール袋の一つを二人に差し出す。
「これ…私もおまけで貰ったものですけど…今日のお礼にあげます。とってもおいしいんですよ」
「いやしかし、そんな大層な事をした訳でもないし」
「でも、何かお礼がしたいんです。だから…はい」
 そう言って少女は義経にビニール袋を持たせると、溌剌とした可愛らしい笑顔を見せて頭を下げる。
「じゃあ、私はこれで失礼します。本当にありがとうございました」
「ああ、君…」
 義経が袋を返す間もなく少女は軽やかに踵を返し走り去っていく。目を白黒させてそれを見送った後、どうしようかと袋を持ち上げて見ている義経に、男性が柔らかな声で言葉を掛けてきた。
「…受け取ってやってくれないかな。葉月ちゃんがああいう行動するのは、本当に君達にお礼がしたいからだから…何も考えずに受け取ってやってよ」
「はあ…そう言う事でしたらお言葉に甘えて」
 そう言って義経は頭を下げると、店の暖簾を確認して男性に用件を伝える。まだ包み終わっていないという事で店の中で待たせてもらいながら、義経は無意識ながらはやる心のまま男性に問いかけていた。
「そういえばさっきのお嬢さんは…さっきの言葉だとこの辺りのお嬢さんなんですか」
 義経の問いに男性はやり取りから、先刻の少女について知りたいのだと思って明るく答える。
「ああ、このちょっと先の川沿いの家の娘でね。『大工の宮田さん』って言えば町内じゃ家族全員有名だよ。その中でも特にあの子…葉月ちゃんはちょっと突拍子もないところもあるけど、ちっちゃい頃から変わらないあの明るくってとっても優しい性格が皆に可愛がられててね。町内のマスコットみたいな存在なんだ」
「そうなんですか。なら…彼女が話していたよく遊びに来ていた女の子というのも…分かりますか」
「ああ、名前は確か…わかなちゃんって言ったか…葉月ちゃんの親御さんは仕事に力入れる分忙しい人だし、葉月ちゃんはああ見えて本当は丈夫じゃなくてね。小さい頃は日中ここから車で20分位の所にある母方のおじいさんおばあさんの所に預けられて、そこから保育園とか小学校通ってたんだ。で、丈夫じゃない分友達が少ない子で…そんな中でもその女の子はそこからこっちまで遊びに来てくれてた様な、数少ない葉月ちゃんの大切なお友達。最近は顔見てなかったけど高校で一緒になったって、このところは葉月ちゃんから良く話に上がってたな。今はどうか知らないけど、ここに来てた頃のその子はどう仲良くなったのか活発な葉月ちゃんと違ってすごくおとなしかったけど、でも同じ様にとっても優しくていい子だったよ」
「…そうなんですか」
 義経はひょんなところからほんの少しではあるが『彼女』についての情報が手に入った事で、ふと胸が浮き立つのを感じ一瞬無意識に笑みを見せたが、しかし戒律を思いそんな感情は持ってはならないと、無意識のまま顔をしかめて頭を振る。それを見た武蔵坊が何かに気付いた様に頷き、男性に言葉を返した。
「ありがとうございました。初対面の僕達に込み入った話までしていただいて」
「いやいや、この町内皆知ってる話だからね。そんな込み入った話じゃないよ。それに君達は法明保育園のとこにお世話になってる、そうじゃなくてもあんな風に人懐っこく見えて、不思議と悪さする人を見分けられる葉月ちゃんがちゃんとお礼をしたいって思う位の子達だ。この事聞いたからって悪さする子じゃないって分かるしね」
「そうですか、ありがとうございます」
 武蔵坊が礼儀正しく挨拶を返したので我に返った義経も頭を下げ、先刻彼女が渡してきた袋を見せて男性に問いかける。
「ところで、彼女がくれたこれはこちらの品みたいですけど…何か分かりますか」
 義経の問いに男性はにっこり笑って悪戯っぽい口調で答える。
「ああ、それはゆずみそ豆腐。豆腐にゆずみそと海苔を乗せて揚げた揚げ豆腐でね、うちのお勧め商品。葉月ちゃんも大好物でね、今日は偶然売れ残ったからおまけであげたんだけど…めぐりめぐって君達に行ったんだ。食べてね。きっと気に入るよ」
 悪戯っぽい口調の男性の言葉に義経も武蔵坊も和み、笑みを見せて言葉を返す。
「…商売上手ですね」
「そりゃ、こう見えて百年近い歴史持ったうちだもの。品に関しては手を抜かないから遠慮なく勧めるよ」
「そうですか」
「ああ…はい、じゃあ本来の品でき上がり。量多いから二人で持っていきな。で、こっちが請求書っていうか改めての内訳だから奥さんに一緒に渡して」
「はい、ありがとうございました」
 そうしてお礼を言って店を出て帰る道すがら武蔵坊がふと口を開く。
「義経」
「何だ」
「俺達がどういう立場かは…分かっているな」
「…ああ」
 生まれたばかりの想いを抑えようとしている自分にかけられた、武蔵坊の駄目押しの言葉で義経は自らの現実に立ち戻らされ、静かに、しかし重い口調で頷く。山伏となるこの身があるべき姿、そこには一人たりとて、影ですら女性の存在はありえない。忘れなければ。この想いが恋だとして、どうせ叶わぬ想いなら傷が深くならない芽のうちに摘み取って潰してしまえ――そうして宿坊に戻り、少女からもらった揚げ豆腐を武蔵坊と分けて口にしながら、生まれたばかりの想いをその豆腐とともに呑み下した――

「よし、じゃあ今日はこれまでにすんぞ」
「はい!」
 片づけを始めた喧噪で、義経はふと我に返る。横をふと見ると葉月が不思議そうに見つめていた。
「どしたんですか?ボーっとして」
 葉月の問いに義経は記憶から抹消していた申し訳なさからふっと苦笑して言葉を零した。
「ああ、思い出していたんだ。昔の事を…その、唐突だが忘れていて悪かったが…俺はここに来た事があって…若菜さんもそうだが…宮田さん、君にも昔会っていたんだな。だからあんな風に…若菜さんに近づけたのか」
 今から思うと初対面だと思っていた若菜と再会した時、葉月は若菜を熱心に自分に売り込み、『もう少しお姫といたいでしょ?』と言って自分達を近づけようとしていた。それは彼女があの夏の事を覚えていて、その時に若菜はもちろん、義経も無意識だったが若菜に惹かれていた事に気付いていたからこその気遣いだったのだろうと素直に思えた。しかし義経の言葉と表情とは裏腹に葉月は全てを曖昧にする様に、にっこりと微笑んで口を開く。
「さあそれはどうでしょう…でももういいじゃないですか。何にしろお姫と義経さんはハッピーエンドで一応区切りがついたんですから。終わりよければすべてよしって事で」
「いいのか?」
「はい」
「そうか…そうだ」
「何ですか?」
「話はガラッと変わるんだが。…あの時にもらった豆腐だが…うまい豆腐だったのにあまり味わえなかったから…もう一度食べたいな。…その内でいいからあの豆腐屋に案内してくれるか。それに武蔵坊があの時くれた揚げ豆腐を再現して道場の献立に加えていたからその礼もしたいし」
「はい、そう言う事ならお姫と叶うならその武蔵坊さんも一緒に来て下さいよ。きっとおじさん達も懐かしい顔を喜びますよ」
「そうか」
「はい」
 そう言うと二人は微笑み合って片づけに加わった。