ある夜の都内の某中学音楽室、葉月の所属している合唱団の団員達と殿馬は合同コンサートのための音合わせをするために顔合わせを果たしていた。事の始まりは殿馬と葉月が十数年ぶりにアマチュアとしてではあるが音楽家としての再会はもちろん、殿馬はもちろん葉月も音楽を一度はやめたものの完全には捨てていなかった事を契機に、この縁を大切にして高校時代からのある意味互いの心の底に隠された夢であった、互いの音楽を合わせたいという夢を実現してみようと言う話が持ち上がり、その中で彼女の音楽をもう一度蘇らせてくれた合唱団の面々も彼女が自分の音楽の一部だから一緒にそのコンサートで歌わせて欲しいと言い、殿馬もそれを当然だと快諾したので、今日初めて事前に決めた曲目の伴奏の音合わせに殿馬がシーズンの合間を縫って彼女達の練習場に足を運んだ次第である。合唱団の面々は有名人は土井垣で慣れているため特別扱いなどをする雰囲気ではないものの、やはりプロではないとはいえプロ同等の実力を持つ殿馬の伴奏に自分達がどこまでついて行けるかとほんの少し緊張しながら彼に対峙していた。そんな雰囲気を感じてか、指揮の大塚は一同をリラックスさせる様に声をかける。
「ほら、皆肩に力入ってる。声固くなるわよ」
「とは言ってもさぁ大塚先生~やっぱ緊張するよ~」
「僕らからしたら申し訳ないけど殿馬君って言ったら実力ダンチのプロだよ~?」
「緊張するなって方が無理~慣れるまで待って~」
「仕方ないわね~とりあえず歌って慣らすか。じゃあ『人間の歌』から。殿馬君お願いできる?」
「いいづらよ」
 そうして大塚の指揮に合わせて殿馬は伴奏を始め…いきなり間違えて素っ頓狂な音を出す。それを聞いた面々は天才にはありえないと思っていた凡ミスにずっこけ、しかしそれで逆にリラックスして爆笑しながら殿馬に声をかける。
「殿馬君、いきなりそりゃないよ~」
「こける、それこける!」
 笑いながらの、しかし決して馬鹿にしている訳ではない一同の言葉に殿馬も軽く応酬する。
「俺だって機械じゃねぇ、みんなと同じ人間づら。間違う事もあるづら。それに初めて合わせるづらし、本番で最高の演奏してぇづらから、間違えてもみんなのリズムきちんと取るのにちょいと時間かけてぇづら」
「それもそうだ。ありがとう、殿馬君」
「でも滅多に聞けるもんじゃない殿馬君のミスなんてものが聞けて光栄かもな」
「確かに」
「そう言ってもらえるとありがてぇづら」
 そう言って笑いながら練習を深めていく一同と殿馬に、葉月は殿馬が皆をリラックスさせるためと、いい音楽を作るためにも自分が中に馴染もうとわざとミスをしたのだと分かって心の中で感謝の礼をしながら自分も合唱に加わっていった――

 そうして殿馬がオフをかいくぐって合唱団のレッスンに参加するだけでなく、葉月と殿馬だけのステージもあるので葉月は大塚にボイストレーニングのレッスンを紹介してもらい、本格的な声楽を本気で歌っても耐えきれる喉と身体をもう一度作り直しつつ、マドンナがいる時は殿馬とマドンナのマンションに、いない時は岩鬼はぶつくさ言っていたが岩鬼の家を借りて話し合いながら演目を決めていった。マドンナは最初こそ殿馬が女性を連れて来たと拗ねていたが、葉月が訪問の度に手土産と、理由をきちんと話して話し合いの場にマドンナも同席させて意見を求めるなどの心遣いを欠かさなかったので、すぐに態度を軟化して歓迎する様になった。そんな話し合いをしていたある日、紅茶を飲みながらマドンナが楽しそうに口を開く。
「でもこうして候補に挙がる歌の演目を見ると壮観ですわね~。『ラ・ボエーム』から『フィガロの結婚』『ばらの騎士』『ローエングリン』まで…本当に宮田さん、何でも歌えますのね」
「何でも…と言うとチェコのオペラは言葉ができなくて歌えないんで語弊があると思いますけど…今のボイストレーニングの先生も、指揮者の大塚先生も『ボイストレーニングできちんと喉も身体も回復してるし、音域に関しては昔と同じ様に制限かけなくて大丈夫』と言って下さったんで折角だからちょっと欲張ってみようかなって思って」
「俺も聞いた感じだと欲張るくれぇが丁度いいと思うづら。今回のコンサート、プロデューサーが下手におめぇの事を『殿馬が唯一人認めた伝説の歌姫、一日だけの復活』なんてやっちまったから、分かってねぇおえれぇさんが『15年近くの空白はごまかせないから、伝説は伝説のままにしておいた方が本人のためでしょう』なんざ知った風な前評価っつう悪口言ってるづらからな。そうして歌いきって昔おめぇを機械にしたそういうおえれぇさんの鼻明かしてやろうづらぜ」
「…そうですね」
 殿馬の率直な、でも自分の実力を信じてくれている言葉に葉月は嬉しさと恥ずかしさではにかむ様な笑顔を見せる。それを見てマドンナは微笑みを見せたが不意に思いだした様に口を開く。
「そうですわ。そのキャッチフレーズを聞いて宮田さんにお聞きしたい事がありましたの」
「何ですか?」
「昔宮田さん…プロの方に混じって『トゥーランドット』のリューをやった事、ございません?」
「ああ、どこかでお聞きになったんですか?確かに遠い昔にはそんな事もありましたね。プロの方に失礼極まりなかったそんな黒歴史があります」
 今となっては恥ずかしい思い出なのか、照れ臭そうな笑みを見せながら答える葉月に、マドンナはふっと納得した様な、しかしなぜか懐かしげな笑みを見せて頷く。
「…やっぱり、そうでしたのね」
「マドンナさん、どういう事ですか?」
「いいえ、こっちの話ですの」
「…?…」
 マドンナの一人納得した様な言葉に葉月は首を傾げた。そうして三人であれやこれやと演目決めをしていき八割方決まったが、決め手のこれと言う曲が欲しいがそれがどの曲かとなった時にどうしても決まらず三人とも頭を悩ませてしまう。そうして色々考えていた時に不意に葉月にある記憶がよみがえって来た。遠い昔、歌に部活に勉強にと魂を燃やし尽くして倒れ、このまま歌っていたら身体が持たないからと言われ、悩み苦しんだ末歌を封印し、弱った身体の長期療養を始めた直後に、どこから調べたのか療養先に自分を見舞いにきてまで普通一般の人間や音楽家達までが喜び望んでいた、ただ美しい歌の再生機械の様だった彼女ではない、表現力豊かな瑞々しい音楽家としての彼女をたった一人惜しんでくれた、一人のある音楽家が自分に残していった『宿題』の記憶を――

――今の君は確かに歌えないし、音楽にも辛くて近づきたくないだろうって分かってる。でももし、君がいつか音楽をどんな形でもいいからもう一度始めよう、始めたいって思えたら、どんな形でもいい、君が歌わなくてもいい、その時にそうして君が生きてきた道から僕が出したこの『宿題』に対して君が出した答えを、僕に見せてくれないかな――

「…殿馬さん、私、やりたい曲があるんです。ただ、すごく私中心の注文付けますけど、いいですか?」
「いいづら、言ってみろづら」
 葉月の言葉に何かを感じ取ったのか、殿馬は頷く。葉月は遠い昔に自分が出された『宿題』と自分がその『答え』を出したいという思い、しかしその答えはもしかすると当日まで出ないかもしれないと言う事を率直に殿馬に話す。殿馬はじっと聞いていたが、しばらくの沈黙の後にやりと笑うと言葉を返す。
「面白そうづら、その『宿題』乗ったづら。じゃあ当日までじっくり答え考えろづら。俺はそれに合わせるづらからそれを最後に持ってこうづら。…まあでも、楽譜だけは渡してくれづら、一応ベースの伴奏だけは作っておくづらから」
「ありがとうございます…我侭を聞いて下さって」
「我侭じゃねぇづら、それくれぇやってこそ、おえれぇさんの鼻が明かせるづらし…その音楽家って人の気持ちにも応えられるづらよ」
「…そうですね」
 そう言うと三人は笑って和やかに話していった――