そうしてコンサートが近くなったある日、都内の音楽大学のキャンパスに葉月は立っていた。柊司に協力してもらって、葉月に『宿題』を出した音楽家が自らも音楽活動をする傍ら、後進を育てるためにこの大学で教鞭をとっていると調べ上げ、完全ではないが、今の時点での精一杯の『宿題』に対する自分の『回答』を聴いてもらおうと礼を尽くすために自分の手からチケットを渡そうと思い足を運んだのだ。校舎内に入り受付で用件を話し講師室の場所を教えてもらい事務員に同行してもらい足を運びドアを開けると、そこに歳を重ねて髪は白く、皺が少し増えてはいたが、あの頃と変わらぬ優しい笑顔の男性が立っていた。男性は葉月の姿を見るとほんの少し驚いた表情を見せて事務員に戻っていいと告げると葉月を招き入れ、室内の椅子に座らせて温和な口調で声をかける。
「…まさか君から僕を訪ねてくれるとはね」
「…はい、私も川辺先生にもう一度お会いする事になるとは考えもしませんでした」
「コーヒーでも飲むかい。インスタントだから手間もないし」
「折角ですから頂きます」
「そうかい」
そう言うと川辺は二人分のコーヒーをいれ葉月に出すと、正面に座り自分も一口飲んで口を開く。
「わざわざここに来てくれたって事は…『宿題』…やってくれたのかな」
「はい…正直に言うと新しい生活に馴染んですっかり忘れていたんですが…もしかするともう知ってらっしゃるかもしれませんけど…今度偶然縁ができた殿馬さんと一緒にコンサートをやろうってなって…その時に思い出して…傲慢ですが…殿馬さんなら…私の『答え』に…ちゃんと返してくれると…思ったんです。だからあえてここで『宿題』をやろうって思って…殿馬さんにもこの話をしたら…快諾してくれたので…もしそんな答えでよければ…聴きに来てほしいと思ってご招待のためのチケットを持ってきたんです。それにその事は関係なく…いいえ、それ以上に私の歌を生き返らせてくれた仲間との歌を先生に聴いて欲しかったので…でも、こんな傲慢な考えや回答ならいらないというなら…持って帰ります」
川辺は静かにコーヒーを飲みながら聞いていたが、やがてぽつりと口を開く。
「…困ったな」
「…え?」
川辺の言葉に葉月が首を傾げると川辺は悪戯っぽい口調で言葉を重ねる。
「実は…もうチケットは手に入れているんだ…自力でね」
「川辺先生…」
「僕の音楽に関する情報収集能力を甘く見ちゃだめだよ。君が合唱で歌をもう一度始めた事は大分前から知っていてね。時々コンサートもこっそり行っていたんだ。…確かにアマチュアかもしれないけど、プロにも引けを取らない位今でも君の歌はいい歌だ。そんな歌にしてくれるいい仲間にも恵まれてる。そうして歌を再開した君は今度は僕の出した『宿題』の答えを…出してくれるんだね。歌をやめて…別の道を生きて…仕事をして…恋をして…もう一度歌を始めて…そんな風に生きてきた道から出した『答え』を」
「…はい」
「楽しみにしてるよ。…そうだ、その君の招待券は僕の教え子で昔からの…僕から話を聞いて今の君を知って更に君のファンになったって生徒がいてね。その子にあげていいかな。何せその子は目標が…君みたいな声楽家になる事なんだって言ってはばからない位君のファンなんでね」
「そんな…私みたいな、なんて…そうしたらプロには絶対になれないじゃないですか」
「いいや、その子曰く『宮田さんは身体さえ大丈夫だったら今頃異名の通りマリア・カラスみたいな…いいえ、それ以上の世界中に名の知れた声楽家に絶対になってました。だから音域もほぼ同じくらい出て丈夫な身体を持った私がその志を受け継いで敵討ちをするんです』…だそうだよ。僕も思いが過ぎてコピーにならない様にっては言ってるけどその心意気には同調してるんだ」
「…」
「見せてあげなさい、『先輩』の背中を」
「…はい」
二人はそうして静かにコーヒーを飲みながら『その日』の事を思い出していた――
――…やあ、少しは落ち着いたのかい――
――はい…でも、みんなが称賛していたオランピアはもう跡形もなく壊れました。ここにいるのは歌ったら死んでしまうアントニアですよ。先生も他の皆さんと同じ様に、そんな私に失望なさったでしょう――
――いいや、僕は失望なんかしていないよ。でも…そうか…辛かったろう…君が歌っている時、どんなに美しい歌声で喜びの歌を歌っていても、僕には泣いている様に聞こえていたのはあながち間違いじゃなかったって事か…君が今言った通り高い評価を得ていたとしても、目指していた歌の心を表せる感性を否定されて、周りの望むままの歌う機械でいなければならなかったのなら…本当に…辛かったね――
――川辺先生――
――僕も君が歌えなくなったのなら確かに悲しい。でもそれは皆が言う美しい『奇跡の歌声』が失われるからじゃない。君が持っている原語で歌っていてもその歌の心が心に響く程に伝わる瑞々しい感性が失われるのが惜しいんだ。言葉が分かる訳詞で歌っていても心が届かない声楽家もいる中で、君の様な他の国の人間には分からない原詩でもその歌の心を伝えられる歌が歌える声楽家は数少ない。そんな素晴らしい素質を持った存在を失うのが本当に惜しいんだ――
――私は…そんな風に惜しまれて良い声楽家だったんでしょうか――
――少なくとも僕にとってはそんな存在だったよ――
――そうですか――
――これから…どうするんだい――
――声楽は…きっぱりやめようと思います。中途半端に趣味で続けていたら…きっと後悔ばかりが募って辛くなってしまいますから。音楽そのものからも…しばらくは遠ざかろうかと思います――
――そうか…でもそんな君に…僕から『宿題』を出していいかな――
――『宿題』…?――
――今の話を聞けば君は確かに歌えないし、音楽にも辛くて近づきたくないだろうって分かってる。でももし、君がいつか歌や音楽をどんな形でもいいからもう一度始めよう、始めたいって思えたら、どんな形でもいい、君が歌わなくてもいい、その時にそうして君が生きてきた道から僕が出したこの『宿題』に対して君が出した答えを、僕に見せてくれないかな――
――…分かりました。…いつになるかはわかりません。もしかしたら…一生出せないかもしれませんが…なるべく…答えを出すようにします――
――ありがとう。…はい、君は恋ができないって言ってたよね。だからこれが『宿題』だよ。まずは身体を治して、新しい道を見つけて、沢山遊んで、勉強をして、仕事や何よりできないって思い込まずに恋をして、歌とは関係ない人生でも、この歌の気持ちが分かる位に一生懸命生きなさい――