――肌を合わせずとも満つる恋、確かに自分達の恋はそうだった、あの時までは――
「光さん、お久しぶりです」
待ち合わせ場所にやって来た若菜が微笑んで義経に声を掛ける。今日は交流戦後のオフで、彼女も市役所の仕事が休みだったので久しぶりに若菜が上京し、デートという次第である。微笑む若菜に義経も微笑みを返すと、彼女の姿に溜息をついた。
「久しぶり…今日は着物を着て来たんだな。よく似合っている」
「…はい、今日は武蔵坊さんの個展を観に行くって言ってましたから、いつものジーンズじゃ失礼な気がして…かと言って私、スーツは仕事用だけですし気の利いたワンピースも持ってないですし、だったら亡くなった祖母が着道楽で着物なら色々持ってますからこれが一番かなって思って…」
彼女は爽やかな色合いの小紋に洒落袋帯と帯揚げ、上品な帯止めと、こうした場への最大の礼を尽くした姿をしていた。彼女なりに武蔵坊に気を遣っての事だとすぐに分かる。義経はその優しい気遣いに更に微笑むと、彼女を緊張させない様に肩に手を回し、言葉をかける。
「大丈夫だ。武蔵坊はそんな了見の狭い男じゃない、気楽にしてやってくれ。紹介もするから」
「…はい」
若菜は恥ずかしそうに微笑むと案内する義経に付いて行く様に後ろを歩く。これは二人で歩く時、いつも繰り返される事。彼は彼女の性格も気持ちも分かっているが、どこか寂しい気がして振り向くと、いつもの様に声を掛ける。
「若菜さん、いつも言うが『女は三歩下がって』という意識はなくていい。もう気にせず並んで歩こう」
「でも…光さんに何かご迷惑があったらと思うと…」
「迷惑なんか何もない。もう俺達は公認の仲なんだからいいんだ」
そう、二人はチームメイトと対戦相手のいる前で告白しあってしまい、それを面白がったその中の一人が雑誌の対談で暴露してしまったため、スクープになりすっかり公認のカップルとして認知されてしまっている。二人はお互いのした事を後悔したが、それでも同時にそうしたおかげで隠れたりせずに二人でいられる事に幸せも感じていた。義経の言葉に若菜は恥ずかしげに、しかし幸せそうに微笑むと静かに彼に近付き、寄り添って歩き始める。そうして並んで歩くだけで義経は恋心が満たされる気がする。しかしその反面で彼はある決意もしていて、今日それを彼女に対して実行しようとしていた。そうして、個展を開催しているその道の人間達には有名なギャラリーに辿り着くと、受付を済ませご祝儀を渡し、中の作品をゆっくりと見て回る。そうしている内に二人がいる事に気づいた武蔵坊が、義経に声を掛けてきた。
「義経、久しぶりだな」
「ああ。本当に久しぶりだな、武蔵坊。素晴らしい作品ばかりじゃないか」
「ありがとう。隣にいるのがこの間電話でお前が話していたお嬢さんか」
「ああ…若菜さん。彼が武蔵坊数馬。新進気鋭の陶芸家で、俺の親友だ。挨拶するといい」
「あ、ご挨拶が遅れました。初めまして、神保若菜です。お名前は光さんや父からよく伺っています」
「お父さんから…?」
武蔵坊の言葉に、若菜は説明する様に言葉を返す。
「はい、私の父は陶芸に興味があって色々調べるのが好きなんです。それで武蔵坊さんの事も興味があって作品が一度見たいと言っていました。ですから今日こうなった事を知って、父から『代わりに良く見て来てくれ』と頼まれました」
「そうですか。若いあなたにはつまらないかと思いますが、どうか良く見て行って下さい」
「いいえ、私も父の影響で見るだけは好きなので…目利きは出来ませんが。だから楽しませて頂きますね」
「そうですか…では楽しんで下さい。それで悪いんですが、しばらく義経を借りていいですか?」
「え?ああ、はい。…じゃあ光さん、私一人で見ていていいかしら」
武蔵坊の言葉に、若菜は素直に頷く。義経は彼の言葉に何かを感じ取ったが、それを見せない様に彼女に声を掛けた。
「ああ、ゆっくり楽しむといい。じゃあ武蔵坊、付き合おう」
「じゃあ控室に来てもらえるか。神保さん、では義経をお借りします」
「はい」
そう言うと武蔵坊は義経を連れて控室に行く。落ち着いたところで武蔵坊が口を開く。
「彼女が…例の女性か」
「ああ」
「見た所は心の優しい、いいお嬢さんの様だ。何もないなら祝福も考えるが…しかしお前には山伏道場の次期総師という立場が待っているだろう。総師になったら…」
武蔵坊の言葉の意味が分かっているのか、義経はふっと笑って言葉を返す。
「俺は俗世に舞い戻った身だ。完全に道場に戻る事はもう不可能と思っている。次期総師には他の人間を推薦するつもりだ」
「しかし総師がそれを許すか…」
「許さないと言うなら…彼女も認めさせるだけだ」
義経の決意のこもった瞳に武蔵坊は溜息をつくと口を開く。
「…お前がそこまで言うなら俺はもう何も言わん。しかし彼女が付いて来てくれるかは分からんぞ」
「駄目なら…俺達はそこまでの仲だったという事だ。でも俺は信じたい。彼女が与えてくれる、この満たされる想いを」
「…そうか」
武蔵坊は立ち上がると、静かに言葉を紡いだ。
「それなら…俺は彼女を見させてもらう。お前がそこまで想うに値する人間かどうかをな」
「武蔵坊…」
そう言うと二人は控室から出て、若菜の姿を捜す。と、彼女はある作品を飽きる様子もなくじっと暖かな眼差しで見つめていた。それを見た武蔵坊はふと怪訝そうな様子を見せ、彼女に近づくと声を掛けた。
「…その作品が何か」
突然現れた武蔵坊に作品に集中していたらしい若菜は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに微笑んで言葉を返す。
「えっ?…ああ、はい…何だかこの作品が一番好きになって…不思議ですね。こう言っては何ですけど、もっと綺麗だったり立派そうな作品もあるのに」
「…そうですか」
その作品は質素な茶碗。色づけも何もされていない、ただ透明な釉薬を掛けただけの一見素焼き風のものだった。確かに彼女が言った通り、他の作品は釉薬や絵付けに凝った作品が数多くあり、素っ気ないと取られてもおかしくないくらいこれ程質素な作品は他にない。しかし彼女が嘘も追従もなく本気でこの作品が気に入っている事は、その目を見れば分かった。その目を見た武蔵坊はふっと笑うと彼女に言葉を掛ける。
「いつか…義経と一緒にでも僕の工房へいらして下さい。ここには出していない作品も色々ありますから。それも見れば陶芸の奥深さが、きっとあなたも更に楽しめますよ」
「いいのですか?」
「ええ」
「武蔵坊…」
「では…いつかきっと、寄らせて頂きます」
そう言って微笑む若菜に武蔵坊も微笑んだ。それを見た義経は彼が彼女を認めたのだと察する。その事に喜びを感じながら自分も彼の作品を堪能すると、二人でお礼を述べ、ギャラリーを出た後、歩く道すがら見つけた喫茶店で個展の感想を楽しく話す。
「確か武蔵坊さんて、私達と同い年でしたよね。そんな若くしてあんなに素敵な作品が作れるなんて、すごいです」
「そうだな。武蔵坊は道場を出て陶芸の道を歩むと決めた時に、魂のこもった作品を作りたいと言っていたからな。それだけ精進していたのは俺も知っているし、その結果がきちんと形になって、評価されたのが俺も嬉しい」
「そうなんですか」
「そして俺も、こうして俗世に身を置くと決めて…今ここにいる。だから…道場の中だけで過ごしていた時とは違う、自分の進むべき道を進もうと思う」
「光さん、それは…?」
「これを…受け取ってもらえないか」
若菜の問いかけに、義経は小さな箱を彼女に渡す。彼の『開けてくれ』との言葉に彼女が箱を開けると、そこには骨董に近い品だと一目で分かる程に年を重ね、上品な趣きを増している櫛と、揃いの笄が入っていた。そして、品を見ただけで分かった。明らかにこれを使用する場は――驚いて彼女が彼を見つめると、彼は照れ隠しの無愛想な表情で口を開く。
「指輪は…俺の性に合わなくて。それに…若菜さんには指輪よりもこちらの方が俺の気持ちを伝えるにはいいと思って…」
「光さん、それって…」
若菜が次の言葉を察し言葉を失っている所に、義経は決定的な言葉を出した。
「結婚してくれ…俺と」
突然の義経の言葉に若菜は狼狽しながら言葉を紡いでいく。
「でも、私達はお付き合いを始めてからまだ三ヶ月も経っていないし…その…キス…すらした事ないのに…」
「手紙のやり取りから数えれば一年以上経っているだろう?それに…想いが同じなら時間は関係ないと俺は思っている。若菜さんも…そうした形で俺を結婚相手として考えられないだろうか」
「…」
義経の言葉に若菜はしばらく沈黙していたが、やがてぽつり、ぽつりと話し出す。
「私は、光さんの事が好きで…傍にいるだけで全てが満たされるんです。…でも…それだけで、光さんにとってこんな大切な事を決めて、いいんでしょうか。…それに…そうじゃなくても、光さんには道場があって…確か山伏の方は妻帯が許されないって…だから、結婚は不可能で…いつかはお別れしなければいけないんじゃないですか…?だからいいんです。結婚できないし、いつかお別れするって分かっていますから…こうして会ってお話できて、これを贈って下さったその気持ちだけで…私はいいんです。私は…今を大切にします」
義経は若菜が自分と同じ気持ちだった事が嬉しくて、しかし彼女が自分の立場を考えて、自分の想いをセーブしているのが切なくて、その心のままに彼女の手を取ると、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「そんな事を言わないでくれ。…確かに山伏道場は妻帯を認めていない。しかし俺はこうして俗世に身を置いてしまった。だから道場には完全に戻るつもりはない。もし戻れと言われたら…あなたも一緒に連れて行く。たとえそれが許されない事だとしても、俺はあなたを守って…俺の想いを貫き通す。だから、俺の傍に一生いてくれないか」
若菜は義経の言葉にまた驚いた表情を見せて、不意に涙を零す。その涙に義経は狼狽して更に言葉を掛ける。
「若菜さん、俺は何か悪い事を言っただろうか」
その言葉に若菜は頭を静かに振ると、涙を零したまま応える。
「いいえ、嬉しくて…。光さんがそこまで私の事を考えてくれていて…あなたの決心がこんなに伝わる言葉と、素敵な櫛と笄まで贈って下さって…本当に嬉しいんです」
「若菜さん…じゃあ」
「…結婚して下さい、私と」
「…ありがとう」
二人はお互いの内なる何かが満たされる感覚をお互いに覚える。肌を合わせるどころかキスすらしていない、肉体は触れ合わない恋。それでもその満たされる想いで、決してそれは恋を損なわないとお互いに感じていた。そしてそんな恋こそ自分達には合っていると思った。肉体を結びつける事はいつでもできる。しかし心を結び付け、更に満たす事はそうはできない。だからこうして心を満たしあうことが出来る自分達は、たとえ肌を合わせていなくても充分に恋に満ち足りていると思った。そして、この恋は必ず愛に変わるものだと確信もしていた。でも――