『確かにこれもうまいんだが…お前の肉じゃがは、ちょっと変わっていないか?』
『何で?あたしはこの肉じゃがで育ってきたんだけど。そんなにおかしい?』
『おかしいというか、俺のお袋が作る肉じゃがや行きつけの料亭の女将の肉じゃがは…』
『…そう、じゃあ気に入らなかったみたいだからあたしは二度と作らない。一生お母様やその料亭の女将さんに肉じゃが作ってもらったらいいわ』
そう言って彼女は哀しげな、しかし心の底ではかなり怒りを堪えたのがよく分かる表情と言葉で立ち上がり、そのまま帰ってしまったのだ。こういう状態になると性質が悪いのは経験上分かっている。しばらくは謝るために連絡しても無視されるだろう。彼女が残して行った肉じゃがを見詰め、どう誤解を解いてこの喧嘩を収めたらいいか、俺は溜息をついた――
「…土井垣さん、そりゃ土井垣さんが悪いですよ」
彼女が帰った後無理矢理呼び出した守は、夜半に呼び出された事に辟易している様子で言葉を紡ぐ。その意見はもっともだと反省しつつも、元はと言えばお前が事の発端じゃないかと思った俺は、守に対してそれを口にする。
「そんな事を言ったって、お前こそ里中の肉じゃがじゃないと駄目だとか我侭を言いまくっているじゃないか」
「それとこれとは話が違います…っていうか、俺は里中のあの素朴な家庭の味の肉じゃがが俺の求めている肉じゃがだったからこそ、あいつの肉じゃがじゃないと嫌だって言ってるんです。俺も土井垣さん程じゃないにせよ付き合いがありますから宮田さんの性格はある程度承知してるって前提で言いますけど、土井垣さんだってその時は言葉のあやで色々言っただけで本当はそういう肉じゃがを求めてるし、彼女も普通の家のお嬢さんだし、それ以上にあの素直な性格ですから、俺が今まで肉じゃが作ってもらった女性達みたいに、店で出される様な気取った肉じゃがじゃなくて土井垣さんの希望通り、素直に自分の家のものを作ってたのは土井垣さんだって分かってるし、出されたものも理想通りだったんでしょう?何が不満だったんですか」
守の畳み掛ける言葉に俺はたじたじになりながらも、素直に感じていた事を口にする。
「不満は…なかったんだが…今まで見た事がない肉じゃがだったんでな」
「どういう事ですか?」
「まあ…見て、食ってみてくれ」
「…はあ」
そう言うと俺は彼女が残していった肉じゃがを守に出す。守もその肉じゃがを見て、ふと不思議そうな表情を見せる。
「確かに…土井垣さん所で食べた肉じゃがに似てますけど…ちょっと変わってますね」
その肉じゃがは牛肉にたまねぎにいちょう切りの人参に彩りにさやえんどうというシンプルなもので、人参がいちょう切り以外、俺の家のものとほぼ同じものだった…が、たった一つ決定的に違う所があったのだ。それは――
「煮汁なしで粉吹き芋風にしてるんだ。…確かに珍しいかも」
「だろ?」
「ちょっと一口いただきます…ちょっと味が濃い目か。でもなぁ…」
守は彼女の肉じゃがを味わった後しばらく俺を放置してひとりごちていたが、やがてこっちに向き直り、呆れた表情と口調で俺に言葉を掛ける。
「あのですね、宮田さんが怒るの無理ないですよ。確かに里中の肉じゃがには敵いませんけど、土井垣さん所の肉じゃがとは粉吹き芋風な事と味が濃い目な事以外はほとんど同じですし、ちゃんと土井垣さんが欲しかった家庭的な味じゃないですか。何が不満だったんですか?」
「いや、だから不満はなかったんだが…俺が今まで食ってきた肉じゃがというものとは違っていたものだから、ちょっと驚いたというか…」
俺の言葉に、守は大きく溜息をつくと、咎める様な口調と立て板どころかウォータースライダーに流れる水のごとき勢いで言葉を畳み掛けていく。
「じゃあここまで分かった事からはっきり言わせてもらいますけど、今回のケンカの発端って宮田さんの肉じゃがの作り方がどうとか以前の問題ですよ、土井垣さん。家庭の味やらよそ行きの味云々は抜いたって俺が里中の肉じゃがにこだわるのは、まだ恋人がいないから許されますが、土井垣さんの場合、宮田さんはもう恋人でしょう?恋人に自分の味を否定されたら哀しくもなるし、そうでなくても自分の家庭の味を『変だ』って否定されたら、怒りたくなるのは当たり前です。今回は完璧に土井垣さんが悪いですよ」
「…」
守の意見はどこか論点がずれているというか、何かが間違っている様な気もしないでもなかったが、俺は何も言えずに沈黙する。守は更にとどめを刺す様に言葉を重ねた。
「これは何とか誤解を解いて、彼女の味を認めてあげないと、このままじゃこれが原因で別れるなんて事もありえますよ?食の恨みは恐ろしいんですから」
お前こそそれで俺や里中を散々振り回した(いや、今現在も振り回している)じゃないかと言い返したくなったが、守の言う事もある意味もっともだと思ったので、俺はただ黙って守の言葉を聞いていた――
そうして数日後、俺は仲直りするきっかけを作ってもらうために、彼女の姉である文乃さんに今回の件を話して相談を持ちかけた。呼び出した喫茶店で煙草を吸いながら、文乃さんはしばらく静かに話を聞いていたが、やがて怪訝そうに問い掛ける。
「…将君、葉月の作った肉じゃがって、牛肉にいちょう切りの人参に櫛切りの玉ねぎに、粉吹き芋風だったの?」
「ええ…そうですが…どうかしたんですか文乃さん」
文乃さんは首を傾げて更に言葉を紡ぐ。
「そのレシピ、広くとれば確かにうちの肉じゃがだけど、本当はうちっていうよりうちのおばあちゃんのレシピなの。そもそも肉じゃがに牛肉使うのは関西風だしね。将君が食べたかったうちの肉じゃがって豚肉にゴロゴロ人参とじゃがいも、玉ねぎに白滝煮汁もかなり残すっていう、関東風のまあごく普通のものよ?関東生まれ育ちのおばあちゃんだけど肉が牛なのは結婚の時…言っちゃえば昭和の始めに料理教室でそう教わったからで、粉吹き芋風なのは足してお弁当用にするために汁気出さない様にっておばあちゃんのオリジナルアレンジ。それ以前にうちのお父さんが牛肉あんまり好きじゃないの、将君だって知ってるじゃない。なのに牛肉使ってる時点であれ?って思わなかったの?」
「…あ」
文乃さんの言葉で俺は自分のうかつさに気づいて言葉を失う。その表情を見て文乃さんは苦笑すると、俺を宥める様な口調で言葉を重ねる。
「でもまあ確かに将君の言いたい事も分かるわ。あの子それ全部知ってるのに何で普通にうちの作らなかった…ああ、そうか。材料と見た目はごく普通でも、レシピがかなりぶっ飛んでるからか」
「『レシピがぶっ飛んでる』って…どういう事ですか」
俺の問いに、文乃さんは苦笑というには少し複雑な笑みに表情を変え、言葉を紡ぐ。
「…じゃあ、うちの『ホントのレシピ』で肉じゃが作ってあげましょうか…これから将君時間ある?」
「あ…はあ…」
俺が頷くと、文乃さんは俺を連れて文乃さんのマンションへと連れて行き、材料がある事を確認すると、『じゃあ…横で見てなさい』と作り始めた。その作り方を見て俺は絶句する。じゃがいもは皮をむいて芽を取ったら大きさ関係なく丸ごと、人参は皮もむかず大きめの乱切りで、肉も玉ねぎも下茹でした白滝も適当に切ると全部まとめて大きな鉄鍋にぶち込み、水と酒をどばどば入れたっぷりと材料を浸からせ、更に合成粉末だしとしょうゆを適当に入れてぐつぐつ煮込み始めたのだ。驚いて絶句している俺に、文乃さんは苦笑して説明する。
「びっくりしたでしょ。これがうちのお母さんのホントのレシピ。何しろうちのお母さんはあんたも知っての通り忙しい人だった上に、料理が壊滅的に下手でね。新婚の時お父さんが食べたいって言ったから頑張って最初から麻婆豆腐作ったのに残されたとか思い出話で文句を言っても、それ聞いた家族全員が納得する有様の腕前。その割に手順とかすっ飛ばしたりする豪快…っていうか大雑把な人で、カレーとかも『人参は皮と身の間に栄養があるのよ!』とか言って皮むかないし、じゃがいもも丸ごとの上、材料炒めないで水…酷いと『ガス代の節約よ』とか言ってポットのお湯から煮込む様な人でね。むしろちゃんと最低限の必要な手を掛ける分、お父さんの方が料理はうまい位なのよ。…でもね」
「でも?」
「こんな作り方だけどね、冬の寒い日の夜…そう、忙しくて残業になるって分かってる前の日の晩とかに、持ち帰り仕事をしながらその横で『明日の夕飯のために』って石油ストーブの上で一晩コトコト煮込んだ肉じゃがとかカレーは、味は今ひとつだったかもしれないけど『家庭の味を大事にしよう』っていう気持ちがこもっててあったかくってね、あたし達は大好きだった。その内あたしは自分で料理作り始めたけど、あの子は上京して独立するまで、おばあちゃんから料理の基礎は習っても、忙しくても食事だけはせめて作ってあげたいって思ってた両親から『料理は作らなくていい』って言われたのを素直に聞いて、忙しい両親がいない中で、一人でそうやってお母さんが作った料理を食べるか、時たま早く帰ってこられたお父さんが作った料理を食べるか、おばあちゃんの家に行って料理を手伝いながら一緒に食事していたのよ…だからあの子の料理の味は、お母さんと、おばあちゃんと、ちょっとお父さんの味が入った複雑なものなの」
「そうだったんですか…」
「だから、多分だけどこの肉じゃがじゃなくっておばあちゃんの肉じゃがを作ったのは、お母さんの肉じゃがは大好きだけど、こんな作り方だから将君がこれを見たら、きっと何か文句を言われると思ったからでしょうね。大好きなお母さんの肉じゃがを最初に作って、作り方から将君に何か文句を言われたとしたら…葉月は怒るどころか、多分哀しくて立ち直れないと思うわ。おばあちゃんから主に料理を教わってたから、おばあちゃんの味はもちろんだけど、それ以上にお母さんの味が大好きだったあの子が、わざとお母さんの肉じゃがを作らないで、料理上手で誰が食べてもおいしいおばあちゃん直伝の肉じゃがを最初に作った気持ち…分かってあげて欲しい」
「文乃さん…」
何も言えずに文乃さんを見詰める俺に文乃さんは寂しげに微笑みかけると、更に言葉を重ねる。
「この肉じゃがはうちは少し手を入れて夕飯にするけど…将君は少し持って帰って、ただ一晩煮直して食べてみて。あたし達の『お母さんの味』と、その前に食べた『おばあちゃんの味』で、どれだけ葉月が愛されて…それでもどれだけ寂しい思いをしていたか…きっと分かるから」
「…はい」
俺はタッパーに肉じゃがを詰めてもらうと、文乃さんにお礼を言ってマンションを辞し、自分のマンションに帰って鍋に肉じゃがを入れ直して文乃さんが作った通りに、水と酒とだしとしょうゆのみで煮汁を足し、一晩煮込んで、翌日の夕飯に食べる。油と砂糖を使っていない分あっさりした味で、じっくり煮込んだ分材料も大きい割に程よく柔らかくなっていて食べやすく、味も程よく染み透り素材の元の味と調和して、大雑把な作り方なのにおいしいと思った。それに…何よりこの肉じゃがに込められた母親の思いやりと、葉月がこれを一人ぼっちで食べていた食卓を思い、俺は胸が痛んだ。彼女は家族が忙しく大人に囲まれてはいたが、沢山の人達に慈しまれて育った、と常々本気で言っているのは俺もよく理解している。しかし、この一件で一番生活の基本の所――食に関しては不可抗力とはいえ、ずっと寂しい思いを抱えていたのだと今更ながら痛感した。知らなかった事とはいえ、俺は何て無神経な事を言ってしまったのだろう――俺は後悔に溢れた気持ちで、少し苦くなった肉じゃがを飲み込んだ――
そうして直後のデーゲームの日に、俺は葉月に連絡をする。『俺が悪かった。謝りたいしもう一度お前の肉じゃがを食べさせて欲しいから今夜マンションへ来てくれ』と――しかし、相変わらず居留守を使っているのか、電話は留守電だったし、メールをしても返事は来なかった。やはりこのまま俺達は自然消滅の様に別れてしまうのだろうか――そんな落胆を抱えて俺がマンションの前へ来た時、そこに立っていたのは――
「葉月…」
オートロックの扉の前に立っていた葉月は、寂しそうな、複雑な微笑みを見せて口を開く。
「本当は来るのやめようかなって思ったけど…特訓の成果…見て欲しかったから」
「『特訓』…?」
「とにかく…部屋へ入れてくれます?」
「あ…ああ」
俺が彼女を部屋に入れると、彼女は持っていたエコバッグから近所の八百屋や肉屋で買ったらしい材料を出して、肉じゃがを作り始める。俺は黙ってリビングで座って待っていた。と、キッチンから漂ってきた香り――俺は驚きながらも彼女を待つ。そして更にしばらくして彼女が持ってきた肉じゃがは――
「これは…俺の家の…」
驚く俺に、彼女はにっこり微笑んで言葉を紡ぐ。
「最初はあたしのうちの味を否定されて悔しかったし、ああやって将兄さんに肉じゃがの例に挙げられたお母様や料亭の女将さんに嫉妬しちゃったんだけど、良く考えたら長い間将兄さんは将兄さんのお母様の味で育ってきたんですものね、あたしがお母さんの味で育ったのと同じ様に。それに、料亭はそれが売りなんだから肉じゃがだって本当においしいものが多いんだろうし…そう思ったら、ああ言うのも当然だなって思い直して…だからお母様にお願いして、将兄さんの家の肉じゃがの作り方、教えてもらったの。まだうまく出来ないんだけど…食べてくれる?」
「ああ…頂きます」
そう言うと俺は一口肉じゃがを口にする。その味は――お袋の味そのものだった。俺は驚きながらも、気が付くとものすごい勢いだと自覚するスピードで肉じゃがを平らげていた。そうして食べ終わると一息ついて、俺は呟いた。
「うまいし…何よりお袋の味そっくりだ」
俺の言葉に、葉月は嬉しそうに、しかし一片の寂しさをたたえた目で微笑んで呟く。
「そう…良かった。将兄さん、勝手に嫉妬して怒っちゃってごめんなさい。将兄さんの行きつけの料亭の味は場所が分からなかったから再現できなかったんだけど…これで、嫉妬して怒っちゃった事…許してくれる?」
彼女の謝罪の言葉と微笑みに、俺は嬉しさと申し訳なさがこみ上げて来た。彼女は俺のために、俺が一番なじみの深い肉じゃがを、こんなに短い期間で習得してくれた。でもそれは反面自分の味…ひいては彼女が家族から与えられた愛を抑え、否定させてしまっているのだ。それが申し訳なくて、何より彼女の生活暦を知っていたのに、その味に隠された寂しさを分かってやれなかった自分が悔しくて、俺は彼女を抱き締めて囁いた。
「…すまん」
「将兄さん…?」
「俺は…知らなかったとはいえあの時、無神経な事を言ってしまった…料亭の味はうまいとは言っても、所詮はよそ行きの味だ…だから覚えてくれなくていいんだ。それから、お前がお袋の味を習得してくれたのは確かに嬉しいんだが…そうやってお前の育ってきた家庭の味を否定して…自分を抑えさせてしまった…だから…すまん」
「将さん…」
「この肉じゃがももちろんだが…お前が最初に作ったお前の肉じゃがも…本当にうまかった。本当だ。だから…また作って欲しい」
「…ん」
「それから…オフで時間がある時に、お前のお袋さんの肉じゃがも時々作ってくれないか?…あの肉じゃがは…たとえ大雑把でも、お前のお袋さんの真心が籠った…優しい家族の味だった」
「将さん、何でそれ…」
「…秘密だ」
そう言うと俺は微笑んで、その後の言葉を言わせない様に、彼女の唇を塞いだ。
――その後――
「里中の肉じゃがが最高ですけど、宮田さんのお母さんの肉じゃがも結構うまいですね」それからしばらくして守が『その後どう納まったか知りたい』と言い出し(葉月にはこれについての経緯は秘密にしたが)遊びに来て、図らずも肉じゃがパーティーになった俺のマンションの食卓で、葉月のお袋さん直伝の肉じゃがを食べながら、守はご機嫌な口調で言葉を紡ぐ。
「そうですか?」
「ああ、人参入ってる以外は、結構味付けとか里中に似てるかも。作り方も宮田さんの話だと里中のより簡単だから俺でもできそうだし。里中の肉じゃがが食べたくなったら、食べられなくても、しばらくはこれ作れるようになれば我慢できるかな」
「そうですか。まあ、智君はうちのお母さんやおばあちゃまからも料理習ってましたからね、多少は入ってるんだと思います」
「そうか…じゃあ、料理の基礎を教えてもらうついでに、今度俺が肉じゃが作るの横で見て、細かい所アドバイスしてくれないかな。里中がいなくても何とか自力で作れる様になりたいし、里中にも何度も作らせた分、恩返しがしたいから作ってやりたいし」
「ああはい、いいですよ。まあ、作り方っていう作り方ないですから、包丁の扱いさえ慣れればすぐに不知火さんもできますよ。後包丁の扱いが苦手なら慣れるまで皮むきは秘密兵器、ピーラーとかも使いましょう」
「へえ…そんな手があるんだ。それに、この宮田さんのおばあさんの肉じゃがも、食べ慣れると後引きますね、土井垣さん」
「そうだな。汁気が無くて味が濃い分、酒のつまみに合っているし、うまいな」
「そうですか…良かった。お口に合って」
ご機嫌の守を見ながら、この分だとこれからしばらくは守に葉月を貸し出す事になりそうだと思い、それを考えると『里中の肉じゃが依存症』に罹っているこいつにとりあえず『頓服』がこうして出来上がったのは良かったのか悪かったのかと頭を抱える。しかし俺はそんな日々の中でも、こうして沢山の味を知っていきながら、いつか俺と彼女二人だけの『家庭の味』を作っていく日が早く来るといいと思い、その日を思ってふと顔が緩むのを感じていた――