「…お前も、やっと自力で肉じゃがを作ろうという気になったか」
土井垣は感慨深げに目の前にいる自分のキッチンでエプロン姿でいる長身の男を見詰める。その男――不知火守は真剣な眼差しで土井垣とその隣で微笑んでいる彼の恋人の宮田葉月を見詰めながら、その眼差しと同じ口調で言葉を返した。
「はい、里中の肉じゃががうまいのは変わりありませんが、ずっとそれに甘えていてはいけないと思ったんです。それに、里中にも恩返しに俺の作った肉じゃがを食ってもらいたいんです!」
「ええ、ピッチングもそうですけど、何事もうまくなるためには目標がある事はいい事ですよ」
「そ…そうか」
土井垣は不知火の意図が葉月の考えているものとは何十メートルも離れている様な気がしたが、それは表に出さず、静かに二人の様子を見ていた。葉月は買い出した材料を並べて口を開く。
「じゃあ、ゆっくり作っていきましょうか。流れは智君のを見て覚えてるんですね?」
「ああ」
「じゃあ、まずは野菜を洗って切る所から始めましょうか、不知火さん、野菜洗って下さい。そうだ、玉ねぎは洗いながら皮をむくといいですよ。むく目安は茶色の皮が目立たなくなる所までです」
「ああ」
そう言われた不知火は真顔で洗い場の横にあった台所用洗剤に手を伸ばす。それを見た土井垣は慌てて不知火の手を掴んで怒声をあげた。
「馬鹿野郎!食い物を洗剤で洗う馬鹿がどこにいる!」
「…え?違うんですか?」
「…」
土井垣は溜息をつく。まさかこんな根本的な所から教えなければいけないとは…葉月はそれを見ても何も動じない風情で微笑みながら言葉を紡ぐ。
「はい、よくできました。最初の間違いですね。ここを料理初心者なら間違わないと大変です。野菜やお米とか食べ物は洗剤で洗うものじゃありません。昔は葉物野菜なら洗剤とかで洗ってた時期もあったらしいですけど、本当は流水でよく洗うんですよ。ただし、お肉はものによっては塩水で洗う場合もありますが、基本は洗っちゃ駄目です。そのまま使って下さい」
「分かった」
そう言って頷くと不知火は丁寧に流水で野菜を洗い、玉ねぎは教えられた通り皮をむくと籠に入れ、洗い終わった所で問い掛ける。
「次はじゃがいもの皮をむくんだよな。…でも俺は包丁をほとんど使った事がないんだが…」
不知火の言葉に葉月はまたにっこり微笑んで土井垣に言葉を掛ける。
「大丈夫です。そういう方のために…土井垣さん、あれ貸してください」
「ああ、分かった」
そう言うと土井垣は掌サイズの『ある物』を葉月に手渡す。葉月は『それ』を見せながら言葉を紡ぐ。
「…はい、これが『秘密兵器』ピーラーです。これを使えば割合簡単に皮むきができますよ。不知火さんはまずは切る事で包丁に慣れていってから包丁での皮むきを覚えましょう。それまではこれで皮をむけば大丈夫です。これならじゃがいもの芽も取れますしね」
「『じゃがいもの芽を取る』…?」
「じゃがいもの芽…このボコボコした所ですね…には毒があるから、綺麗に取らないと身体に良くないんです。まず皮をむいた後芽を取ります。始めはやり方を見せますから見て覚えて下さい」
「分かった」
そう言うと葉月は慣れた手つきだが、不知火にも分かる様にゆっくりとピーラーで皮をむき、芽を取ると、水で全体を洗い流す。それを見た不知火が不思議そうに問い掛ける。
「何で洗ったのにもう一度水に通すんだ?」
葉月は不知火の問いに、にっこり微笑んで答える。
「後で理由教えますから…さあ、同じ様にやってみて下さい」
「え?…ああ」
そう言うと不知火はピーラーでも危なっかしい手つきで皮をむいていく。それを見た土井垣は、うちのエースピッチャーが肉じゃがごときで手を怪我されてはたまらないと、蒼白な顔で声をかけていく。
「こ…こら守!そうじゃない!刃を指に近づけるな!もっと軽く!撫でる様に!」
真剣そのものの不知火と、それを心配を前面に出した様子で世話をする土井垣を、葉月は楽しそうに見詰めていた。そうして何とかかんとか皮をむき終わると、葉月は続きを説明する。
「じゃあ次は火を通す前のメイン…野菜と肉を切る作業行きましょうか。準備からいきますよ。最初にまな板が滑らないか確認して下さい。滑って怪我する事もありますからこれは結構大切なんですよ」
「そうなのか…う~ん、何となく滑るな」
「じゃあ、綺麗な布巾を濡らして固く絞ってまな板の下に置いて下さい。そうすると滑らなくなりますから」
「分かった…ああ、本当だ」
「それから、本当なら肉やお魚を切る面と、野菜を切る面は別にするのがいいんですけど、最近のまな板は木でできてませんからそこまで気にしなくても大丈夫です。ただ、切る順番はお豆腐とか野菜の次に、肉やお魚の順番にして下さいね」
「そうか…色々決まりがあるんだな」
「決まりというか…食べ物の扱いの昔からの倣いみたいなものですよ」
「そうなのか…それから、じゃがいもは『面取りをする』と本にはあったんだが…『面取り』って何だ?」
「ああ、『面取り』は煮崩れを防ぐための下ごしらえですが、別にやらなくても支障はないですから。不知火さんはしばらくそこまで考えなくていいですよ」
「そうか」
「それから今回はじゃがいもとか玉ねぎを切るから…ボウル二つに水を入れて下さい」
葉月の不知火には想像もつかない言葉に、彼は問い掛ける。
「さっきから気になってたんだが…妙に水を使わないか?」
不知火の問いに、葉月は説明をする。
「確かに、使ってますよね。でも理由があるんです。じゃがいもはでんぷん…いわゆるあくがあるから切ってしばらくすると切り口が茶色くなって色も味も悪くなるんですよ。あ、ちなみにりんごも同じ様に切ると色や味が悪くなりますから、りんごの場合は塩水につけて下さい。それから玉ねぎは最近はそれ程でもないですが、切ると成分で目が痛くなるのが、切ってすぐ水につけるとかなり楽になるんです。不知火さん、玉ねぎ切るのも慣れてないでしょう?だから少しでも楽にしようと思って。それに新玉ねぎとかは生で食べられるんで、そういう時にもこうすると余分な辛味がとれるんですよ」
「そうか…ありがとう」
不知火は葉月の心遣いに感謝してボウルに水を入れ、更に『水切りがしやすい様に』とざるをボウルの中に入れる。そこから不知火の闘いが始まった。土井垣の怒声が飛ぶ中、不知火はピッチング以上に集中して包丁と食材を相手に闘う。
「…違う!包丁の持ち方はこうだ!そうじゃない!…添える手は指を伸ばすな!丸めろ!『猫の手』だ!…材料の安定感を見極めろ!手を切りたいのかお前は!」
「はい!土井垣さん!宮田さん!次は!?」
『熱血料理教室』と化している土井垣と不知火とは裏腹に、葉月はのんびりと春の日差しの様に対応する。
「そうですね、じゃがいもは食べやすいようにもう半分に切ってそれから大きめの一口サイズに切って下さい…はい、そうです。玉ねぎは…まず頭を切りましょう。転がらない様に注意して…そうです。そうしたら頭を下にして縦半分に切って…そうです。その半分をまた広い切り口を下にしてくし切りに…」
「くし切り?」
「簡単に言うとこうざくざくと中心に向かって四つぐらいに切って下さい」
葉月が身振り手振りで切り方を教えると、不知火はその通りに玉ねぎを切っていく。
「…こうか?」
「そうです、そういう感じで…で、根っこがある方は根っこの部分全部取りたいけど不知火さんはまだそこまでは無理だから…スパッと切って同じ様にくし切りにして下さい」
「ええと…こうだろうか」
「はい、いいです。じゃあ水に晒してる間にお肉を切りましょう。とは言っても今回はこま切れ肉を買ってきたんで切らなくて大丈夫ですから。お肉切るのもちょっと技がいりますから、しばらく包丁に慣れるまではこま切れ肉とかひき肉を使う様にしましょうね」
「ああ、分かった」
じゃがいもと玉ねぎを水に晒しつつ、今度は葉月は土井垣の調理用品から不知火でも扱えそうな、フッ素樹脂加工の鍋を選んで取り出して説明する。
「じゃあ、今度は調理していきますよ。お鍋やフライパンは焦げ付いても大丈夫な様に、不知火さんは鉄鍋よりはフッ素樹脂の加工されている鍋か、ホーロー鍋を使った方がまだいいですね。アルミ鍋はしばらくは不知火さんはいらないかな。ホームセンターで選ぶ時にはそういうものを選んで下さい。本当なら圧力鍋とかが使えるといいんで…」
「やめろ葉月!守を殺す気か!」
土井垣の脳内で最悪のシナリオが展開される。『ファイターズのエースピッチャー不知火守、圧力鍋の使い方を誤り爆発させ死亡!』などとスポーツ新聞の三面記事にでも載ってしまったらシャレにならない。ここはどうしても譲れない。不知火の料理レベルは初心者以下、下手をすると小学生にも負けるのだ。ちゃんと不知火のレベルに合わせた調理法で教えてもらわねば。土井垣の怒声に驚いて怯えた表情を見せた葉月を宥める様にその願いを込めて、土井垣は静かに言葉を重ねる。
「守には…圧力鍋はまだ早い。普通の鍋とフライパンでできる料理を教えてやってくれ」
「あ…はい」
土井垣の勢いに圧されて、今までのどかな春の様な雰囲気だった葉月も少し気を引き締める。そうして最大の難関、調理が始まる。
「じゃあ不知火さん、お鍋を火にかけて、あったまってきた所で少し油を引いて中火にして下さい」
「中火?」
「この位の火の強さです」
「ああ…分かった」
「…で、油も暖まった所でじゃがいもを入れます。水はよく切らないと油はねますから…っと、こんな感じです」
油がはねたのを避ける葉月を抱きとめながら、土井垣は不知火に怒声を浴びせる。
「馬鹿野郎!葉月に怪我をさせる気か!」
「すいません!すまん宮田さん!」
土井垣の怒声に思わず謝る不知火に、葉月はにっこり微笑んで言葉を返す。
「大丈夫です、私は慣れてますから。それよりじゃがいもをよく見ながら炒めて下さい。そっちの方が大事です」
「分かった。どのくらいまで炒めればいいんだ?」
「表面が少し透明になったかな~と思う位…そう、この位です。何となく分かります?」
「ああ、何となくだけれど」
「しばらくはそれでいいです。慣れれば分かりますから。そうしたら玉ねぎを入れて、透き通るまで炒めて下さい。玉ねぎの方は分かりますね」
「ああ…この位か?」
「はい、そうです。そうしたらお肉を入れてさっと炒めて、色が変わったかなくらいで最初に用意しといたお酒を入れます。大体私も目分量なんですが、不知火さんは慣れるまで智君が言った通り、今日みたいに最初に量って用意しとくといいですよ」
「分かった…次は?」
「ここでお水です。この位…ひたひた位なんですが、不知火さんは初心者だから焦げ付かせない様に少し多めに」
「その言葉が分からないんだが…『ひたひた』ってどの位なんだ?」
不知火の問いに、土井垣が呆れた様に言葉を紡ぐ。
「どの位って…『ひたひた』は『ひたひた』だろう」
「里中もそう言ってましたがね。分からないものは分からないんです」
「…」
不知火の言葉に、土井垣は無愛想な顔で口をつぐむ。葉月はそれを宥める様に説明する。
「そうですね。お料理初心者は中々そういう用語、難しいですよね。『ひたひた』っていうのは大体材料全部がお水を被る位の量です。そう言えば感覚として分かりますか?」
「ああ、そう言われれば分かる」
「『ひたひた』は良く出てくる言葉だから覚えておくといいですよ。『材料が被る位』も大体同じ意味です。料理の本によって表現違ったりしますんでその辺りは柔軟に」
「分かった。また分からない用語があったら教えてくれるか?」
「ええ、いつでも」
「葉月…守とあんまり仲良くするな」
仲良く会話をしながら料理をする二人と、その二人に説教ばかりする自分。本当は自分が彼女の恋人なのに、これでは自分が新婚夫婦の間に来た友人か姑の様ではないか。不機嫌な土井垣の様子を見て、葉月は彼を静める様に言葉を続ける。
「…土井垣さんを通して教えますよ。メモ書きにすれば分かりやすいでしょうし」
「ありがとう」
「…おっと、煮立った。火を弱くして下さい」
「弱くか…この位でいいか?」
「はい、その位に。そうしたらあくを取ります」
「あく?さっき取ったよな」
「煮立ててから出るあくもあるんですよ。…ほら、この白い細かい泡みたいなもの。これがあくです」
「そうか。どうやって取るんだ?」
「ここでお玉が登場です。これですくって流しへ捨てて下さい」
「ええと…こうか?」
「馬鹿野郎!すくって持ち歩くな!お前も俺達も危ないだろう!」
あくをすくってお玉のまま流しまで持ち歩こうとする不知火に、土井垣が怒声を浴びせる。怒声を上げる土井垣に、葉月が宥める様に声を掛ける。
「ごめんなさい土井垣さん、私がいけなかったわ。不知火さん。あくはすくったらボウルに一旦入れて、溜まった所で捨てればいいですから」
「あ…ああ、そうか。すまない、俺も考えなしで」
「いいえ、私の教え方が良くなかったんですよ。それよりあくをちゃんととって下さい」
「ああ…こんな感じでいいか?」
「はい。その位でいいです。そうしたら、おしょうゆと、好みですけど今回はお砂糖を入れて、時々焦げ付かない様に上と下を混ぜながらじゃがいもが柔らかくなるまで煮込んだら出来上がりです。ここで落し蓋をすると、もっと味がしみておいしくなりますよ」
「『落し蓋』…これも本を読んでも分からなかったんだ」
「簡単に言うと鍋より一回り位小さくて、材料に直接被る木の蓋なんですが…アルミホイルとかでも簡単に出来ますから…こんな風に」
そう言うと葉月はアルミホイルで落し蓋を作って、鍋に入れる。不知火は初めて見る料理の(不知火のレベルでは)高度なテクニックに驚いた表情を見せる。
「すごい…アルミホイルだけでこんな事ができるのか」
「まあ、あってもなくてもいいものなんですが。でも煮魚とか作る時にも使えて便利ですし、最近は扱いやすいステンレス製で大きさ変えられるものとか売ってますから、お鍋買う時に一緒にお店で聞くといいですよ」
「ちなみにうちにもあるんだが…」
「え?そうだったの?」
「ああ。悪かったな、言い忘れていて」
「いいわ。あるか聞かなかった私も悪いんだから」
「…」
何だかんだ言いつつ二人が一番甘い雰囲気を出しているじゃないかと呆れつつも、不知火は肉じゃがを凝視して二度と鍋が再起不能にならない様にと祈りつつ作った。その祈りが通じたのか無事に、人に手伝ってもらったとはいえ、人生初の成功した自作の肉じゃがが完成した。葉月は嬉しそうな不知火ににっこり微笑みかけながら言葉を紡ぐ。
「とりあえずはこれが基本の肉じゃがです。後は慣れていくごとに好みに合わせてしらたきとか、人参とか、彩りに茹でたさやえんどうとかを使って下さい」
「分かった」
「じゃあ、試食してみますか。…今回は四人分の材料で作ったんで今夜の夕飯位は持ちますけど、とりあえず小さな一皿ずつ、皆で食べましょう」
そう言って三人はキッチンに座って小鉢に盛った肉じゃがを試食すると、その味にそれぞれ感想を述べる。
「ふむ…中々の出来だな」
「うん、不知火さん自信がないって言ってましたけど、上手ですよ」
「…」
「守?」
「不知火さん?」
箸を握りしめ、無言で俯き肩を震わせている不知火に土井垣と葉月が声を掛ける。と、不知火は唐突にがばっと顔を上げ葉月の両手を握ると言うより掴み、口を開く。
「頼む!これからずっと俺の専属料理教師になってくれ!」
「…は?」
「これだ!俺が求めていたものはこれなんだ!里中と同じ家庭の味…しかし里中は中々スケジュールが合わないし、何より俺は里中を驚かせたい!だから宮田さん、君…ガッ!」
急に後頭部に衝撃を覚え、不知火が振り向くと、そこには土井垣が憤怒の形相で立っていた。
「…貴様…人の恋人を何だと思っている!」
「いいじゃないですか、手を出そうっていう訳じゃないんですから、ただ料理を教えてもらうだけで…」
「それでも間違いが起きないとも限らんじゃないか!お前には俺が料理を叩き込んでやる!」
「そんな…」
ぎゃあぎゃあとやり合っている二人を楽しそうに見詰めながら、葉月は『こんな楽しい食卓、初めてだわ』と幸せそうに肉じゃがを口にして微笑んだ。