「…あれ、土井垣さんじゃないですか。何でこんな所にいるんですか」
「お前こそ、こんな所に用はないだろう」
「いえ、実はチームの先輩に六本木まで飲みに出されたんですが、どうもつまらなくて抜け出してきたんですよ。それで土井垣さんがこの辺りでよく飲んでるって聞いてたんで、いるかな~と思ってここに来てみたら…」
「俺が歩いていた…って事か?」
「まあ、そんなところです」
「…」
偶然を喜ぶかの様に顔をほころばせる不知火とは裏腹に、声を掛けられた土井垣は『困った奴につかまったな…』と言う様な不機嫌な表情で溜息を付いた。ここは新橋。最近はオフィス街としても開けてきてはいるが、駅の近くには安価な飲み屋が数多く残っており、『サラリーマン(ぶっちゃけて言えばおじさん)の町』としても名高い。久しぶりに一人で飲みたくなった土井垣は馴染みの飲み屋へ顔を出そうとここへ来たのだ。彼の年俸なら同じ都内でももっと高そうな店へ行けそうなものだが、そういうところにはどうしても馴染めなかった彼は何とはなしにここが気に入り、時々飲みたくなるとふらりと一人で来る様になり、今では馴染みの店もできていた。今日もそういった感じでふらりと立ち寄ったのだが、まさかこうした『おまけ』が付いて来るとは思いも寄らなかった。不機嫌な表情を見せたままの土井垣に不知火は宥める様に言葉を掛ける。
「せっかくですから一緒に飲みに行きましょうよ。俺、おごりますから」
「俺は一人で飲もうと思っていたんだが…それに後輩におごらせる気もない」
「そんな淋しい事言わないで下さいよ。一人より二人の方が楽しいですよ」
しつこく食い下がる不知火に土井垣も諦めたのか、一つ溜め息をつくと仕方なさそうに口を開く。
「…仕方ないな、とりあえず付いて来い。飲み代は折半だからな」
「はい」
土井垣の言葉に不知火が明るい表情で頷くと、土井垣はまっすぐに繁華街から一歩離れた通りへ向かった。不知火が付いて行くと、彼は店の名前であろうものが書かれた提灯が入口に並べられた小さなビルの階段を下りて行き、下にあった飲み屋の入口をくぐった。
「いらっしゃ…ああ、土井垣君久しぶり。…おっ、珍しく連れがいるね」
「ええ。…マスター、久しぶりです」
『マスター』と呼ばれた店主らしき初老の男性は、親しげに土井垣と話をしている。他の客はそれぞれの連れと飲んだりしゃべったりしたままだ。その様子が不知火には不思議に思えた。これ程小さい店にそれなりに有名だと自負しているプロ野球選手の自分達が来て大丈夫なのかという不安が多少あったのだが、こうしていても客が騒ぐ様な様子は微塵もない。単に気が付いていないのか、それとも他に理由があるのか…と考えを巡らせていると、マスターが不意に不知火に声を掛ける。
「何で皆が騒がないのか不思議ですか、不知火投手」
「え?」
自分の気持ちを読まれた様な発言をされて驚いた表情を見せる不知火に、マスターは楽しげに笑うと続ける。
「ここに来るお客さんは皆肩書きを外してるんですよ。同じ客同士って事で、それ以上は気にしないっていうのが暗黙の了解になってましてね。客同士親しくなれば多少の『例外』もありますが…普通はそうじゃない客は、馴染みになる前に来なくなります」
「はあ、そうなんですか…」
不知火はマスターの言葉で土井垣がここを馴染みにしている理由を何となく理解し、頷いた。二人はカウンターで隣り合わせに座るとビールを頼み、土井垣はマスターに今日のつまみのお勧めを聞くと適当に注文して、先に出されたビールを飲み始める。二人でとりとめもない話をしながら飲んでいると、しばらくして店に一際賑やかな集団が入って来た。土井垣が入ってきた人間を見て少し楽しそうな表情になった事に気づいて、不知火は怪訝そうな表情を見せる。マスターはその不知火の表情を見ると、「土井垣君にとっての『例外の人達』ですよ」と囁いた。
「マスター、来たよ~…っと、土井垣君じゃないか!相変わらず大活躍だねぇ」
「ありがとうございます。お久しぶりです向居さん。いつもの練習後の飲み会ですか」
『向居さん』と呼ばれた杖をついた大柄の男性は楽しそうに笑いながら飲む仕草を見せ応える。
「ああ、歌うのも楽しいけどやっぱりこれも楽しくてね…へぇ、今日は連れまでいるのか。初めてじゃないか?君が他の人間をここに連れてくるのは」
「ああ…ええまあ…ああ向居さん、立っているのは辛いでしょう?他の人達はもう座ってますし、向居さんも座って下さい」
「ああ、ありがとう…そうだ、久しぶりだし一緒に飲まない?」
「でも、今日はこいつもいますから…」
「いいよいいよ、二人ともこっちへおいで」
「…すいません。じゃあ、遠慮なく…」
土井垣は悪いと思ったのか少し困った様に不知火を指して一旦は断ろうとしたが、集団の気さくな雰囲気に負け、彼らのいるテーブルの方へ移動する様に不知火を促した。集団と土井垣との親しげな雰囲気を不思議に思い、不知火は彼に小声で尋ねる。
「…土井垣さん、この人達と良く飲んでるんですか」
「ああ、何となく親しくなってここに来ると良く一緒に飲んでいるな。…いい方たちばかりだから楽しいし、飲み代も少しは浮くし」
そう言うと土井垣は悪戯っぽい表情で笑う。不知火は少し呆れた表情を見せながらも、飲み代が浮くなどと軽口が叩けるこの集団と彼の親しさに少し嫉妬する。しかし、先程の会話の一つに嬉しい事実を見つけ、素直にそれを口にした。
「…それにしても」
「何だ」
「土井垣さんが他人をここに連れて来たのは…俺が初めてだったんですね」
「う…まあな」
「ふふ」
不知火は嬉しそうに笑うと、土井垣と一緒に集団の仲間に入って行った。不知火が見渡すと、この集団は男女入り混じっているがほとんどの人間が自分や土井垣より年配の人間で、明らかに自分達と同年代と思えるのは女性が一人だけである。このメンツで話が合うのかと最初こそ不知火は遠慮していたが、話題が広くそれ以上に気さくなメンバーの勢いに圧されたせいもあって、あっという間にその場の雰囲気に馴染んでしまった。色々と話を聞いて行く内に、この集団はこの地域を中心として活動している合唱サークルの人間だという事が分かった。皆歌が好きらしく、飲みながら色々話していても時折そこから歌が飛び出てくるなど飲んでいて飽きない。そうして盛り上がっていると、その内メンバーの一人が取り置きしている焼酎を持って来て土井垣と不知火に振舞い、自分達も飲み始める。と、土井垣が咎める様に口を開いた。
「こら、宮田さん。君は飲むな」
不知火がふと見ると、土井垣は先程不知火の目に付いた一人年若い女性に何やら説教している。『宮田さん』と呼ばれているその女性は少し頬を膨らませながら、土井垣に反論する様に言葉を返していた。
「いいじゃないですか、ちょっと位」
「いつもサワー一杯飲んだだけで潰れているだろうが。いくらすぐ復活するからと言っても、女性が潰れるのはみっともないぞ」
「ひど~い、それ男女差別ですよ~。大丈夫です、今日はちゃんとお腹に物入れましたからちょっと位なら…」
「駄目だ」
「あ~あ、この歳で保護者付きなの?私ってホント箱入り娘…」
女性が大げさに溜息をついて嘆く振りをすると皆は面白そうに笑った。その後も何やら親しげに話す二人を見て、不知火は何となく胸が痛む。その胸の痛みは次第に腹立ちへと変わって行った。土井垣がそういう感情から彼女に話し掛けているのではない事くらい分かってはいるのだが、それでもやはり腹が立つのだ。不知火は酔いも手伝って腹立ちまぎれに二人の様子を睨みつけていた。…と、急にその女性が小さなあくびをして立ち上がる。
「すいません、眠くなってきたし、明日仕事が早いんでこれで失礼します」
「珍しいな宮田ちゃん、いつもなら何があっても最後まで残るのに」
不思議そうに尋ねるメンバーの一人に、彼女はにっこりと笑って答える。
「いえ、明日は出張復帰戦なんですよ。最初から遅刻したらシャレにならないんで…今日はさっさと帰って寝とこうかと」
彼女の言葉にメンバーは納得した様に頷くと、気遣う様に言葉を掛ける。
「そっか、とうとう復帰なんだ…じゃあ仕方ないか。となるとまた忙しくなるんだろうけど、演奏会近いんだから、体調整えてレッスンにはちょっとでもおいでよね…あ、この時間だよ、一人で大丈夫?」
時計を見ると針は10時をとうに過ぎていた。心配するメンバーに、彼女は『何でもない』という感じでさらっと応える。
「はい、慣れてますから。じゃあこれで…マスター、ご馳走様。お邪魔しました」
女性が自分の分のお金を払い会釈をして立ち去ろうとした時、土井垣が彼女に声を掛けた。
「いくら慣れているからといって、こんな夜遅くにこの辺りを若い女性が一人で歩くのは危ないだろう。しかも君は酷い方向音痴じゃないか。安全のために駅まで送って行こうか」
土井垣の発言に不知火の顔が更に厳しくなる。女性は『まずい!』という様な表情を一瞬見せたが、周りに気付かれないうちに表情を戻すと申し訳なさそうに、しかし少し茶化す様に言葉を返す。
「いえ。もうここから駅までの道は覚えましたし、送ってもらうのは申し訳ないです。…それに、送ってもらうなら私…土井垣さんより不知火さんの方がいいな~」
彼女の言葉に仲間達は酔った頭とはいえ(いや、酔った頭だからか)敏感に食いついて、口々に彼女や土井垣達をからかい出した。
「おっ?宮田ちゃんは土井垣君より不知火君の方が好みか」
「歳も確か同じだし、結構気が会うかもね~」
「分かった分かった、不知火君は宮田ちゃんに献上しよう」
「という訳で土井垣君はここに残って飲んでればいいよ」
口々にからかう酔っ払った仲間達に女性は苦笑している。土井垣もその様子に苦笑すると、引き止められているので申し訳なさそうに不知火に声を掛けた。
「…守、悪いが送って行ってやってくれないか。駅からここまでの道は難しくないから大丈夫だろう」
「…分かりました」
土井垣の言葉に、不知火は仕方なく席を立った。
「お前こそ、こんな所に用はないだろう」
「いえ、実はチームの先輩に六本木まで飲みに出されたんですが、どうもつまらなくて抜け出してきたんですよ。それで土井垣さんがこの辺りでよく飲んでるって聞いてたんで、いるかな~と思ってここに来てみたら…」
「俺が歩いていた…って事か?」
「まあ、そんなところです」
「…」
偶然を喜ぶかの様に顔をほころばせる不知火とは裏腹に、声を掛けられた土井垣は『困った奴につかまったな…』と言う様な不機嫌な表情で溜息を付いた。ここは新橋。最近はオフィス街としても開けてきてはいるが、駅の近くには安価な飲み屋が数多く残っており、『サラリーマン(ぶっちゃけて言えばおじさん)の町』としても名高い。久しぶりに一人で飲みたくなった土井垣は馴染みの飲み屋へ顔を出そうとここへ来たのだ。彼の年俸なら同じ都内でももっと高そうな店へ行けそうなものだが、そういうところにはどうしても馴染めなかった彼は何とはなしにここが気に入り、時々飲みたくなるとふらりと一人で来る様になり、今では馴染みの店もできていた。今日もそういった感じでふらりと立ち寄ったのだが、まさかこうした『おまけ』が付いて来るとは思いも寄らなかった。不機嫌な表情を見せたままの土井垣に不知火は宥める様に言葉を掛ける。
「せっかくですから一緒に飲みに行きましょうよ。俺、おごりますから」
「俺は一人で飲もうと思っていたんだが…それに後輩におごらせる気もない」
「そんな淋しい事言わないで下さいよ。一人より二人の方が楽しいですよ」
しつこく食い下がる不知火に土井垣も諦めたのか、一つ溜め息をつくと仕方なさそうに口を開く。
「…仕方ないな、とりあえず付いて来い。飲み代は折半だからな」
「はい」
土井垣の言葉に不知火が明るい表情で頷くと、土井垣はまっすぐに繁華街から一歩離れた通りへ向かった。不知火が付いて行くと、彼は店の名前であろうものが書かれた提灯が入口に並べられた小さなビルの階段を下りて行き、下にあった飲み屋の入口をくぐった。
「いらっしゃ…ああ、土井垣君久しぶり。…おっ、珍しく連れがいるね」
「ええ。…マスター、久しぶりです」
『マスター』と呼ばれた店主らしき初老の男性は、親しげに土井垣と話をしている。他の客はそれぞれの連れと飲んだりしゃべったりしたままだ。その様子が不知火には不思議に思えた。これ程小さい店にそれなりに有名だと自負しているプロ野球選手の自分達が来て大丈夫なのかという不安が多少あったのだが、こうしていても客が騒ぐ様な様子は微塵もない。単に気が付いていないのか、それとも他に理由があるのか…と考えを巡らせていると、マスターが不意に不知火に声を掛ける。
「何で皆が騒がないのか不思議ですか、不知火投手」
「え?」
自分の気持ちを読まれた様な発言をされて驚いた表情を見せる不知火に、マスターは楽しげに笑うと続ける。
「ここに来るお客さんは皆肩書きを外してるんですよ。同じ客同士って事で、それ以上は気にしないっていうのが暗黙の了解になってましてね。客同士親しくなれば多少の『例外』もありますが…普通はそうじゃない客は、馴染みになる前に来なくなります」
「はあ、そうなんですか…」
不知火はマスターの言葉で土井垣がここを馴染みにしている理由を何となく理解し、頷いた。二人はカウンターで隣り合わせに座るとビールを頼み、土井垣はマスターに今日のつまみのお勧めを聞くと適当に注文して、先に出されたビールを飲み始める。二人でとりとめもない話をしながら飲んでいると、しばらくして店に一際賑やかな集団が入って来た。土井垣が入ってきた人間を見て少し楽しそうな表情になった事に気づいて、不知火は怪訝そうな表情を見せる。マスターはその不知火の表情を見ると、「土井垣君にとっての『例外の人達』ですよ」と囁いた。
「マスター、来たよ~…っと、土井垣君じゃないか!相変わらず大活躍だねぇ」
「ありがとうございます。お久しぶりです向居さん。いつもの練習後の飲み会ですか」
『向居さん』と呼ばれた杖をついた大柄の男性は楽しそうに笑いながら飲む仕草を見せ応える。
「ああ、歌うのも楽しいけどやっぱりこれも楽しくてね…へぇ、今日は連れまでいるのか。初めてじゃないか?君が他の人間をここに連れてくるのは」
「ああ…ええまあ…ああ向居さん、立っているのは辛いでしょう?他の人達はもう座ってますし、向居さんも座って下さい」
「ああ、ありがとう…そうだ、久しぶりだし一緒に飲まない?」
「でも、今日はこいつもいますから…」
「いいよいいよ、二人ともこっちへおいで」
「…すいません。じゃあ、遠慮なく…」
土井垣は悪いと思ったのか少し困った様に不知火を指して一旦は断ろうとしたが、集団の気さくな雰囲気に負け、彼らのいるテーブルの方へ移動する様に不知火を促した。集団と土井垣との親しげな雰囲気を不思議に思い、不知火は彼に小声で尋ねる。
「…土井垣さん、この人達と良く飲んでるんですか」
「ああ、何となく親しくなってここに来ると良く一緒に飲んでいるな。…いい方たちばかりだから楽しいし、飲み代も少しは浮くし」
そう言うと土井垣は悪戯っぽい表情で笑う。不知火は少し呆れた表情を見せながらも、飲み代が浮くなどと軽口が叩けるこの集団と彼の親しさに少し嫉妬する。しかし、先程の会話の一つに嬉しい事実を見つけ、素直にそれを口にした。
「…それにしても」
「何だ」
「土井垣さんが他人をここに連れて来たのは…俺が初めてだったんですね」
「う…まあな」
「ふふ」
不知火は嬉しそうに笑うと、土井垣と一緒に集団の仲間に入って行った。不知火が見渡すと、この集団は男女入り混じっているがほとんどの人間が自分や土井垣より年配の人間で、明らかに自分達と同年代と思えるのは女性が一人だけである。このメンツで話が合うのかと最初こそ不知火は遠慮していたが、話題が広くそれ以上に気さくなメンバーの勢いに圧されたせいもあって、あっという間にその場の雰囲気に馴染んでしまった。色々と話を聞いて行く内に、この集団はこの地域を中心として活動している合唱サークルの人間だという事が分かった。皆歌が好きらしく、飲みながら色々話していても時折そこから歌が飛び出てくるなど飲んでいて飽きない。そうして盛り上がっていると、その内メンバーの一人が取り置きしている焼酎を持って来て土井垣と不知火に振舞い、自分達も飲み始める。と、土井垣が咎める様に口を開いた。
「こら、宮田さん。君は飲むな」
不知火がふと見ると、土井垣は先程不知火の目に付いた一人年若い女性に何やら説教している。『宮田さん』と呼ばれているその女性は少し頬を膨らませながら、土井垣に反論する様に言葉を返していた。
「いいじゃないですか、ちょっと位」
「いつもサワー一杯飲んだだけで潰れているだろうが。いくらすぐ復活するからと言っても、女性が潰れるのはみっともないぞ」
「ひど~い、それ男女差別ですよ~。大丈夫です、今日はちゃんとお腹に物入れましたからちょっと位なら…」
「駄目だ」
「あ~あ、この歳で保護者付きなの?私ってホント箱入り娘…」
女性が大げさに溜息をついて嘆く振りをすると皆は面白そうに笑った。その後も何やら親しげに話す二人を見て、不知火は何となく胸が痛む。その胸の痛みは次第に腹立ちへと変わって行った。土井垣がそういう感情から彼女に話し掛けているのではない事くらい分かってはいるのだが、それでもやはり腹が立つのだ。不知火は酔いも手伝って腹立ちまぎれに二人の様子を睨みつけていた。…と、急にその女性が小さなあくびをして立ち上がる。
「すいません、眠くなってきたし、明日仕事が早いんでこれで失礼します」
「珍しいな宮田ちゃん、いつもなら何があっても最後まで残るのに」
不思議そうに尋ねるメンバーの一人に、彼女はにっこりと笑って答える。
「いえ、明日は出張復帰戦なんですよ。最初から遅刻したらシャレにならないんで…今日はさっさと帰って寝とこうかと」
彼女の言葉にメンバーは納得した様に頷くと、気遣う様に言葉を掛ける。
「そっか、とうとう復帰なんだ…じゃあ仕方ないか。となるとまた忙しくなるんだろうけど、演奏会近いんだから、体調整えてレッスンにはちょっとでもおいでよね…あ、この時間だよ、一人で大丈夫?」
時計を見ると針は10時をとうに過ぎていた。心配するメンバーに、彼女は『何でもない』という感じでさらっと応える。
「はい、慣れてますから。じゃあこれで…マスター、ご馳走様。お邪魔しました」
女性が自分の分のお金を払い会釈をして立ち去ろうとした時、土井垣が彼女に声を掛けた。
「いくら慣れているからといって、こんな夜遅くにこの辺りを若い女性が一人で歩くのは危ないだろう。しかも君は酷い方向音痴じゃないか。安全のために駅まで送って行こうか」
土井垣の発言に不知火の顔が更に厳しくなる。女性は『まずい!』という様な表情を一瞬見せたが、周りに気付かれないうちに表情を戻すと申し訳なさそうに、しかし少し茶化す様に言葉を返す。
「いえ。もうここから駅までの道は覚えましたし、送ってもらうのは申し訳ないです。…それに、送ってもらうなら私…土井垣さんより不知火さんの方がいいな~」
彼女の言葉に仲間達は酔った頭とはいえ(いや、酔った頭だからか)敏感に食いついて、口々に彼女や土井垣達をからかい出した。
「おっ?宮田ちゃんは土井垣君より不知火君の方が好みか」
「歳も確か同じだし、結構気が会うかもね~」
「分かった分かった、不知火君は宮田ちゃんに献上しよう」
「という訳で土井垣君はここに残って飲んでればいいよ」
口々にからかう酔っ払った仲間達に女性は苦笑している。土井垣もその様子に苦笑すると、引き止められているので申し訳なさそうに不知火に声を掛けた。
「…守、悪いが送って行ってやってくれないか。駅からここまでの道は難しくないから大丈夫だろう」
「…分かりました」
土井垣の言葉に、不知火は仕方なく席を立った。