東京スーパースターズの秋季キャンプが無事終わった後、義経は冬のオフに伴い道場に戻るとそのまま恒例の荒行のため、山へ籠もる。街中どころか道場からすらも隔絶された山中で、わずかな保存食や湧水のみの食事の身での水行や山駆けに加え、経典の意味をさらに深めるための読誦や夜間の短い睡眠をとるための室での行という身体的なものもそうだが、それ以上に孤独という一番の辛さに耐え独りで行う、自らの体力と気力を極限まで高める荒行。一歩間違えば命を失う――実際彼の曽祖父が命を落とした程に過酷な行。それでも彼は自らの体力と気力の限界を超えた行をこなしていた。そして今年は例年の一片の失敗への不安を持っていた身とは違い、絶対にやり遂げられるという自信があった。何故なら、自分の最愛の女性が年末年始のほんの短い間だけではあるが、『この人程の苦労はできないでしょうが、この人が歩んできた道をほんの少しでもいいから知りたいのです』と道場に滞在させて欲しい旨総師に願い出、総師も彼女の心意気を理解し特例としてそれを許し、今この地にいて道場での暮らしをその身で学びながら、自分の身を案じてくれている事を彼は知っているから。同じ山にいるとはいえ遠く離れている上彼女どころか誰一人として連絡が一切取れない隔てられた状況。それでも、空を渡る山の風が自分を苛みもするが、その激しさや厳しさの陰にそっと隠して彼女の自分の無事を願う心を届けてくれていると、彼は心の片隅ではあったが感じていた。何物に隔てられていても自分を案じ、無事を祈る心を伝えてくれる愛しい存在。その彼女に護られている自分は必ず戻る、いや戻れる、その愛しい存在のもとへ――しかしそうして行を行い日々を過ごしながらも、彼は同時にいつもの荒行の時とは違い、行の合間に彼女の想いとは別に、時折今までは感じなかったがずっと過去からこの山と室にあったらしい、妖ではないが、何か温かいが同時に哀しげな『魂』あるいは『想い』の様なものが漂っている事にも気付いていた――
「…若菜さん、ちょっと良いかの」
それと同時期の山伏道場。水行は『鍛えていない身には危険が高すぎるから』と免除されているが、それ以外の行や食事作りや洗濯や掃除などは共に全く同じ様に行って、寝る時も彼らの修行と同じく、暖房もない部屋と薄い布団で過ごす事を望み、その通りにしている。とはいえ一応女性のため、部屋に関してだけは義経の曾祖母が彼の曽祖父との愛を貫き、道場で過ごしていた当時に与えられていたという他の山伏とは離れた部屋を同様に与えられた。そして初日の仕事の後寝支度も終え、その部屋で本を読んでいた若菜の所に総師が不意に顔を出した。何か不手際があったのかと彼女は不安そうに問いかける。
「はい。あの…総師様、何か私、皆様にご迷惑をお掛けしたのでしょうか」
若菜の言葉に総師は穏やかに頭を振ると、持っていた物を若菜に差し出して手渡す。
「いやいや、若菜さんは良くやってくれておる。子どもの頃に宗派は違うが寺が開けていた保育園におって、噛み砕いた内容とはいえ仏法に親しんでいたそうじゃの。そのためかの、経典もどこを読んでおるか位までは分かっておる様じゃし、内容も分からないなりに理解しようとしておるし、何より一番大切な、神仏に対する礼儀はきちんとできておる。それに皆の話じゃと掃除でも洗濯でも料理でも、道場の人間より手際良く、しかし細やかにこなしてくれている様じゃの。皆、あなたが来てたった一日なのに掃除や洗濯の手抜きではない効率的なやり方や、料理も質素な内容であっても、ほんのひと手間で更にうまくする技などが分ったと喜んでおるぞ。まあそれはともかく…今来たのは、若菜さんにこれを使うてもらおうと思うてな」
『それ』は高齢である総師以外は時折道場に訪れる客人にだけ使わせると聞いていた、毛布と湯たんぽだった。『それ』を手渡された若菜は、困った様に頭を振って返そうとする。
「駄目です。私は客人としてではなく、光さんの生活を知るために、道場の皆さんと同じ様に過ごしますと言ったはずです。このお部屋だけで充分です。これ以上の特別扱いは受けられません」
若菜の言葉に、総師は優しく言い聞かせる様に言葉を重ねる。
「いや、同じ様に過ごしたいとしても、男とおなごの身体では造りがやはり違う。おなごにとって冷えは大敵じゃからの。それにの…同じ様に頑なにこうした特別扱いを拒んで道場の者と過ごしていた、この部屋のもとの主である静殿…義経の曾祖母じゃな…はそうして過ごしたここに嫁いだ最初の冬越えから身体を弱らせ始めて、次の冬に…まるでややこを産む力のみ残していたかの様に、その力を振り絞ってるい殿…義経の祖母じゃ…を産み落とし、無事生まれた事を見届けて時をおかず力尽き、逝ったんじゃ。…静殿はこの山での厳しい暮らしを何も言わず微笑んで受け入れておったが、この山の暮らしそのものもそうじゃが…特に冬の雪深さと寒さは、行で鍛えておる山伏の男でも音を上げる者がいる程じゃ。ましておなご…しかもややこを宿した母の身には本当は言葉にならぬ程過酷じゃったろうて。…じゃからの、これは特別扱いではなく、あなたがしたい通り、道場での暮らしをおなごの身で男と同様健やかに過ごすための『最低限必要な備え』じゃと思うておくれ」
「総師様、でも…」
「それにの…今静殿の事を話したろう。もし同じく今その身に、それとは知らずややこが宿っておったら何とする。冷やした事がもとで流れてしまうかもしれんぞ」
「…」
総師のある意味二人の仲を見通した言葉に、若菜は赤面して何も言えなくなる。それを見た総師は柔らかな笑みを見せて、更にその笑みのままの優しい口調で言葉を重ねる。
「たとえ今宿っておらずとも、いつかはややこを宿すであろう身じゃ。…もし特別扱いと思うてしまうのなら…その特別扱いはあなたへのものではなく、いつか宿るあなたのややこへのものと思うて…使うておくれ」
総師の言葉と思いやりに、若菜は少しの恥ずかしさはあったが静かに微笑むと、毛布と湯たんぽを受け取った。
「…では、お言葉に甘えて…使わせていただきます。ありがとうございます」
そうして微笑んで一礼した若菜を、総師は何とも言えない表情で見詰めていた。それに気付いた若菜はその表情の理由が知りたくて問いかける。
「総師様…どうかなさいましたか?」
若菜の言葉に総師はふっと柔らかではあるが、同時に寂しげな表情を見せて答える。
「いや…顔立ちも、性格も…そして何より道場の男達に不埒な考えを抱かせぬ清らかで芯の強い雰囲気が、若菜さんは静殿にほんによう似ておるな、と…ふっと昔の事を思い出しておったのじゃ」
「そうですか…」
そうしてしばらく二人は沈黙していたが、やがて若菜が静かに口火を切る。
「総師様に光さんとこの道場の関わりの本当の事をお聞きしてから、ずっと思っていたのですが…もし、支障がないのであれば…その静おばあ様と、光さんのひいおじい様の事で総師様が知っているお話…聞かせて頂く事は叶いませんか。おばあ様達は亡くなられていますし、光さんのご両親をはじめとした親族の方達は『何も知らない』の一点張りで、どんな方だったのかさえ話して下さらないのです。もしそれがとても哀しい話で、聞いた時の私や光さんの痛みを気遣って下さっているのだとしたら、その気持ちはとても嬉しいのですが、それでも…私は聞きたいのです。ひいおじい様が普通の総師として過ごしていたら生まれる事はなかった、光さんという生命へつながった…そのお二人の話を」
「…」
総師はしばらく迷う様に沈黙していたが、やがて静かに頷いて応える。
「そうじゃの…義経にはともかく…若菜さんには話した方がよいかの。静殿の話を…そして二人の愛とその結末から儂が抱いておる、義経へもそうじゃが…何よりあなたへのこれからについての助言が少々あるしの」
「…ありがとうございます」
そう言って若菜は静かに頭を下げた。それを見て総師はやはり優しさと寂しさが交じった複雑な表情を見せると、「長い話だから、囲炉裏のある儂の部屋で話そう」と彼の部屋へ促した――