「とりあえず…冷えぬ様に白湯でも飲みながら話すかの。茶ではなく申し訳ないが」
囲炉裏の前に座る様に促した後、白湯を注いで勧める総師の言葉に若菜はにっこり微笑んで頭を振ると、彼の出してきた白湯の汲まれた茶碗を受け取り、言葉を返す。
「いいえ。小田原の水も東京ほど強くはないのでまずくはないのですが、最近はやはり消毒された水道水ばかりなので…消毒しなくても飲めるこちらの井戸の水は、消毒の匂いや味がない分飲みやすくて。多分いれればお茶もおいしいのでしょうが…水そのままの味が楽しめるお白湯の方が、こちらの場合はむしろいいです」
「そうか」
「はい」
総師は若菜の眼差しと表情で、その言葉が嘘でも追従でもないと理解し、笑みを見せ、言葉を重ねる。
「では、このうまい水で入れる茶の味も知ってもらうために、あなたが帰る時には少々贅沢をして…あなたの手で皆に茶をいれてもらい、一緒に飲もうかの。親友の葉月さんの話じゃと、あなたは茶をいれるのがうまいそうじゃからの」
「はあ…でも本当はそう言ったおよう…葉月さん本人が、一番お茶をいれるのが上手なのですよ。私も彼女に教わったから上手にいれられるのです。彼女のお茶は本当においしいんですから。一度飲んで頂きたいです。きっと大好きになりますよ」
「そうなのか。茶の話は知らなんだが、語り口や気立てはあの娘さんも、それから弥生さんじゃったな…もう一人の娘さんも、それぞれ雰囲気は違うが、よき娘ごじゃった。…いつかまた会って、その時にでも飲めるといいのう」
そう言って少し寂しそうな表情で白湯を口にしながら語る総師の口調で、若菜はその心情を察し、そっと提案する様に言葉を掛ける。
「でしたら、二人が道場には来られないとしても…二人とも総師様と意気投合して、折々の手紙のやり取りを約束している訳ですし、確かこの間公演を観にいらした時にしていた話だと、こちらに縁のお寺がいくつか小田原やその周辺にあって、その一つが葉月さんの実家の傍でしたよね。何かどんな物でもいいですから用事を作って、予定を合わせてその用事を済ましがてら、小田原にまたいらっしゃればよろしいのでは?そうして会えば彼女のお茶を飲む機会も、きっとできますよ」
「おう、それは良い考えじゃ。…ならば冬は動きがとり辛いしの、雪解け頃か…向こうが忙しくないらしい夏辺りにでもそうしてみるかの」
「はい。……総師様がして欲しい事をおっしゃれば、きっと葉月さんはできる事なら何でも喜んでしてくれますよ。話したと知ったらきっと彼女は怒ると思うのでここだけの話にして欲しいですが、見た目は違いますが、私が知っている彼女のおじい様達が彼女に接していた雰囲気に…総師様はお追従ではなく、とてもよく似ていらっしゃるのです。それに彼女も総師様にお会いしてお話した後日私と会った時に、『そーしさんはおじいちゃま達みたいで、話せて嬉しかった』と心から喜んでいたのです。ですから…大好きだったのに、二人とも本当に突然亡くしたおじい様達にもっとしたかった孝行が、身代わりと言っては総師様に失礼かもしれませんが、同じく慕っている総師様にできるのですから…彼女はきっと喜びます。…総師様はそれでは寂しいかもしれませんが」
若菜の嘘がない、しかし総師の事を気遣っての打ち明け話に総師は優しく目を細めながら、その表情のままの口調で言葉を紡いでいく。
「そうか。…でものう、たとえ身代わりでも良いのじゃ。儂の方とて総師であるが故に、道場の皆が家族同様とはいえ、孫娘どころか普通の家族や孫そのものが絶対に授からぬ運命の身じゃったからの。不意に授かった『孫娘』の儂への心遣いは、何でもとても嬉しいのじゃよ…あなたの心遣いも含めてな。そういう意味では儂も…戒律を破ったとはいえ義経や…あ奴という命の源になった小太郎殿…義経の曽祖父の名じゃ…や静殿に感謝しておるのじゃ」
「…そうですか」
「うむ」
「なら…良かったです」
「うむ。…そういう訳でこれからこの爺が話す話は、山伏道場の総師からとしてではなく…あなたの『三人目の祖父』からの昔話と教えとして…聞いてもらえるかの」
「はい」
総師の優しいながらも真剣な口調に、若菜はやはり柔らかいが真剣にその心を一つもこぼさず受け取ろうとする心持を見せた表情で頷く。そうして白湯を飲みながら総師はぽつり、ぽつりと話し始めた。
「まずはそれぞれがどんな生い立ちでどんな人柄だったかから、儂の知っている範囲で話そうかの。まず…小太郎殿の方は幼くして二親を亡くしての。他の身寄りもなかった故、この道場に引き取られたんじゃ。どんな修行も並々ならぬ努力で身につけ、また心根が真っ直ぐで周りに対しての面倒見も良い人柄が道場の皆から好かれての、人望も厚かった。それ故その努力から来る実力と人望で、若年ではあったが道場の誰もが文句なしに総師として認めた程、良き男であったよ。しかしその強く真っ直ぐで純真じゃが、反面でみれば頑なでもあった人柄故、戒律を破っても静殿への想いを断ち切れなんだ。…そしてその強さ故その恋を咎められても、想いを貫くために決してひるまなかった」
「そうですか…」
「しかし、その想いの強さがそうした頑ななものだったが故に、まるで大木が強風で根元から折れてしまったかの様に…静殿が逝って、見ておられん程打ちのめされた。残された娘のるい殿はもちろん愛しんでおったが、それ以上に静殿が逝った哀しみが耐えられなんでな。そもそものるい殿の名付けの元も『涙』からじゃ。…愛する妻が命と引き換えに産み落としたるい殿を見ては泣き、今は冬で雪深い故寒椿や山茶花とと水仙が少々しか見られぬが、静殿が嫁いできてから『修行も大切ですが、張りつめた気持ちを時には和らげる事も必要です。ですから、皆様の憩いになる様に山に分けてもらいましたので、この花や木々で目と心を休めて下さい』と言って元からあったものに静殿自身の手を加え、山で採って来たものを植え足し整えた庭の四季の木々や花々、その中でも特に道場の庭の片隅に元々生えておったものを静殿が見つけて整えてからは、四季を知らせる庭を彩るかの様に増えた、まるで静殿の想いそのものの様な撫子の花を見ては立ち尽くし、そこにいれば現れるのではないかとばかりに、庭の中にある静殿の気配を探して心を虚空に彷徨わせておった…そしてその様な状態故皆が止めておったのもあったのじゃが、一時期は修行も山伏達の統率も何一つ手に付かず、できなんだの。…それでもその父の傍らで健やかに育ち、父に笑顔を見せるるい殿の成長と笑顔がほんの僅かであったかもしれぬが支えになり、日薬になっていたのか、やがて少しずつではあったが修行も再開し、ゆるやかに元の小太郎殿に戻っている様に、儂らは見えておった。…そもそもそこが我ら最大の見誤りじゃったがの」
「総師様、それがまさか…」
「そうじゃよ。…そうして時が流れ、るい殿が三つになる年の冬じゃ。…小太郎殿は『荒行のために山へ籠る』と言った。今義経が行っておる行と同じものじゃ。…皆一抹の心配はあったものの、その時の小太郎殿の穏やかで意志の強い表情に昔の小太郎殿を見て、もう大丈夫じゃろうと送り出してしもうた。…今顧みると、あの時に小太郎殿の表情ではなく目をしっかり見ておれば、小太郎殿の『本当の決意』が分かったかもしれなんだのにのう。…実際、まだ三つにも満たぬ幼子なのに、いつもなら修行をしている時の父の邪魔は絶対せず傍でおとなしくしておったるい殿が、その時だけは『ととさま、いかないで』と激しく泣き、縋りついて止めておったのじゃから。…小太郎殿の死後すぐ村の祖父母に引き取られ、その成長と行く末は見守っておったとはいえ、山と村に隔てられ二度と会えぬまま時が経ち亡くなられてしもうた故、結局真の所は聞けなんだが、きっと、るい殿は幼子の本能で分かっておったのじゃろうよ。自分の父が何をしようとしておったのか…そしてそのるい殿の怖れ通り…山を降りる日を過ぎても降りてこぬ小太郎殿に異変を感じた、儂を含めた道場の者が様子を見に荒行のための室に行った時には…とうに、その室の中で息絶えておった…」
「…」
「前にも言うたが…その時は山伏の身で妻を娶り子を儲けたため山の怒りを買い、行に失敗したが故の死じゃという事で皆まとまったが、今の儂は…これも後の静殿の話と絡めての推論ではあるが、小太郎殿は最初から死ぬつもりで山に籠ったのではないかと思うておる。…それが意識的なものであったか、無意識であったかは分からぬが…静殿に出会った山の中で死ねば…もう一度静殿に会えるのではないか、と思うてのな…」
「…」
若菜は言葉を失い、固く閉じた口の中が渇く感覚を持ったが、衝撃で手元の茶碗を手にする動きすら出来ず、総師が一息つき、白湯を口にした事でやっと手が動き、自分も白湯で口を潤す。総師は白湯を飲み干すと、若菜の分も含めて改めて白湯を茶碗に注ぎ、更に話を続けていく。
「静殿の方は…この山のすぐ下の村で生まれ育った娘ごじゃったが、親御殿達に言わせると…自らが産んだ娘とはいえ、まるでわが子ではないのではないかと思う時がある、普通の娘ごとはどこか違う所があったそうじゃ。そこから小太郎殿との出会いにもつながったのじゃがの」
「それはどういう事ですか?」
「この山は道場があるから女人禁制じゃったと言うだけでなく、そもそもの山の険しさもそうじゃが、もしかすると若菜さんも薄々は感じておるかもしれんが…その当時は今以上に山全体に漂うておる空気がどこかおなごを厳しく拒むものがあっての、それ故おなごは誰一人として山に入るどころか、その入り口にすら近づけぬ場所じゃった。しかし静殿は幼き頃より全く山を恐れぬどころか、まるでその山の一部の様に山の中へ何のためらいもなく足を踏み入れては小鳥や動物と戯れ、花や薬草などを『分けてもらった』と摘んで来ておったそうじゃ。小太郎殿と出会ったそのきっかけも、そうして薬草摘みに来ていつもより山深くまで入り込んで道に迷い、足を挫いて動けずにいたのを丁度修行で来合せた小太郎殿が手当てして、村まで送り届けた事じゃったしの」
「そうなのですか」
「確かにそう言われて静殿を思い返すと、我ら山伏は禁欲が原則の上、修行をしている身とはいえ所詮は未熟な人の男じゃからの。幾分かは静殿に対し不埒な欲望を持ってもおかしくなかったはずなのじゃが…静殿はその様な感情を持ってはならぬ、どこか人ならぬ神聖なる清らかさと気高さに包まれておった。まるで山の精か…この山におわす山神の娘なのではないかと思うてしまう様なの。…とはいえ日常接している時の静殿はその様な雰囲気は関係なく、物静かで笑顔が美しく、心根の優しい方じゃった。先刻言った通り、小太郎殿を始めとした道場の者達の心を和ませるために道場の環境や庭を整え、花を植え、庭木も自ら手入れしていた方での。その反面、小太郎殿と同様、二人の恋に関しては一歩も引かぬ所や、道場での暮らしで特別扱いは受けぬと頑なに拒む芯の強さも持ち合わせておった」
「…」
「その様に心根は互いに優しく清らかで芯の強い二人が惹かれあったのは、立場の事を差し引けば必然じゃろうて。そうした出会いの後日を置かず山で再会した二人はすぐに恋に落ち、小太郎殿の修行の合間に、山の中で短い逢瀬を重ねておったらしい。そしてある時それが発覚し、皆は女人は禁忌である山伏の、しかもその手本とならねばならぬ総師である小太郎殿の戒律を破ったその恋そのものも、皆を欺き信用を裏切った行為も咎め、別れる様に詰め寄った。静殿への咎めはもっと酷かった。ただでさえ女人が近づけぬ山へ躊躇いなく足を踏み入れていた事も災いして、村の者達からも、道場の皆からも、『穢れた女の誘惑で、神仏に仕える身を堕落させた妖女』扱いをされ、心身ともに痛めつけられた。しかしそれでも静殿は怯まず『人を愛するという事が男女の仲になっただけで神仏が咎めるのだとしたら、神仏が説く愛や慈悲とは何なのですか。人を愛するという事は何事にも隔てはないはずです』と毅然とした態度で小太郎殿に寄り添い、小太郎殿も『女人が穢れた存在だと言うならば、その女人から生まれ出た自分…いや、全てのつがいを持つ命が穢れた存在でありましょう。ならば女人とて、いやそうした生命の源である女人こそが真っ先に神仏によって救われるべき存在だと、この想いで私は知りました。ですから私は、全ての生命が救われるための働きかけの始まりとして、今私の隣にいる最愛の存在となった彼女が救われる様…彼女と共に、神仏の救いを求める道を選びます』と一歩も引かず、静殿を守り通し、妻として娶り、道場に住まわせたのじゃ。皆は最初のうちこそ静殿に冷たい態度をとっておったが、先刻申した静殿自身の人ならぬ清らかさと、どれほど厳しい態度を取られて、も全ての人間にみよがしではない本心からの心遣いを惜しまぬ純粋な優しさ、何より道場の人間と全く同じ生活を送りながら、夫である小太郎殿が修行に専念できる様そっと支え、そうして修行で張りつめた心を和ませる努力を怠らぬ静殿を、ほんの少しずつじゃが認めていった。…そうしてやっとの事で静殿の存在も認める雰囲気になっていったのに、それと引き換えにしたかのごとく、静殿は身体を弱らせていったが…静殿はそんな弱った身体であったのに身籠ったと分かってからも、ただひたすらややこを産む事と小太郎殿を支える事に全てを傾けておった。…おそらく、分かっていたのじゃろう。この山の暮らしが自らの身体を蝕むもので、暮らし続けておったら自分の命の火が消える事を。それでも小太郎殿と離れる事の方が、死ぬよりも辛かったのじゃろう…何故ならの、静殿は今際の際に枕元で必死に持ち直す様に励ましていた小太郎殿に対して、こう呟いたのじゃ。『山神様が…力づくで私を連れ戻しに参りました。…私は…もうここにはいられません。それでもほんの短い間でしたが…神仏にも…山神様にすら逆らっても、ずっと長い間想っていたあなたへの愛をこうして貫き…あなたとの子も残せて…私は本当に幸せでした。…これからの私は…この山の一部となり、祈り続けます…あなたと…あなたとの間に生まれたこの子の幸せを…』…とな。その時はまだ儂も坊主に近いほんの若造だった故その意味が分らなんだが、今ではその言葉と静殿の生い立ちを今思い返すと…時折感じていた通り、本当に静殿は山神の娘で…人の身を借りて生まれ出でたものの父神によって連れ戻され、小太郎殿と引き裂かれたのかもしれぬ…と、思う時があるのじゃ」
「…」
総師は一通り話し終わった所で白湯を飲み干した。若菜も冷めてとうに湯ざましになっていた白湯をやっとの事で飲み干したが、彼の怪異な『昔話』に言葉を失っていた。その内容を聞いただけでは夢譚でしかない様に思える話。しかし彼の眼差しがその話が夢譚でも、作り話でもない事を物語っていた。だから親族の人間は一言も語らなかったのか。その実際を見た者にしか信じられない話であり、あだおろそかに語れない内容であると皆思っていたから――