翌朝、若菜は部屋の布団の中で目を覚ます。確か自分は誰かに連れられて山に登って、義経に会って、倒れていた義経を必死に正気に戻して、彼の身を守れるかといつも身に着けている守り袋を手渡して…それからどうしたのだろうか――この寝巻のまま裸足で山に登った事だけは覚えていたので、寝巻の濡れ具合や足が汚れていないかと確かめるが、寝巻は寝汗を程良く吸った程度の濡れ具合であるし、足も全く汚れていない。なら、昨夜の事は夢だったのだろうか――?そう思ってふっとボストンバッグを見ると、昨夜まで確かにそこに付けていたはずの守り袋が付いておらず、見回してもどこにも落ちていない。でも、まさか――色々と考えたが、やがて彼女は考えるのをやめた。夢でも現でもどちらでもよい事。とりあえずは彼が無事だという事は分かった。なら自分はこの地での残りの日々と街へ戻った後、彼が帰ってくるまで彼が山で過ごす無事を祈り、自分の元へ帰ってきた時、笑顔で迎えるだけ。そしてその時に、もし彼が守り袋を持っていたらほんの少しだけ驚いて、自分が体験した事を話せばいい。彼もきっと驚いて、そうして自分は改めて彼と、その命の源が繋いだ愛を噛みしめるのだろう。そうして噛みしめて、自分達の愛へとつなげよう。それでいいのだろう、きっと――そんな事を思いながら若菜は部屋の障子を開け、ほんの少し冷たいが、それ以上に爽やかで清らかに自分を包んでくれる山の空気を部屋一杯に迎え入れ、微笑みながら自分の胸にも一杯に吸い込んだ。
差し込んできた朝日が瞼にかかった事で、義経は目を覚ました。経典を開いたまま前に置き、装束のまま倒れこむ様に眠っていた事に気づいて、読誦をしている時にうっかり眠ってしまったのかと最初は思ったが、昨夜見ていた『夢』を思い出し、自分が夢うつつの狭間に彷徨い、そのまま意識を失ったのだと思い立つ。眠ってしまうよりはまだいいが、これ位の荒行で意識が混濁するとは修行が足りない、と自分を律した時、不意に懐に何か硬い感覚を覚え、その『感覚の元』を取り出す。『それ』は彼の愛しき人が常に身につけている、その故郷に縁の地の守り袋。荒行に出た時に潔斎が必要と俗世に関わる物は全て、特に彼女に縁がある物は念を入れ持っていない事を確かめ、この山に籠った。故にこの守り袋も確かに持って来ていなかった。では何故、いつの間に――そして昨夜の夢を思い返し、その合間に現れ、夢に堕ちかけた自分を引き戻し、この守り袋を渡してくれた彼の最愛の存在を思い出すと同時に、昨夜の『夢』が夢ではなかったのだろうかと考える。考えて、しばらくして考えるのをやめた。現であるなら随分自分に都合がいいが、夢でも現でもどちらでもよいのではないか。彼女が自分をこれ程に想ってくれている事が分かったのだから。それに何より、ずっと心の隅に染みの様に残っていた自分の曽祖父母に対する小さなこだわりや心残りが、これで全て自分の中で決着がついたのだから。自分の命の源は神仏に許され、自然の一部と化している。ならばこれから自分がする事はその存在と愛を静かに噛みしめ、残りの荒行を成功させて彼女の元へ帰るだけ。そうして帰ったら彼女にこの守り袋を見せて、自分が見た不思議な『夢』を話してみよう。彼女はきっと少し驚いて、最高の優しい微笑みを見せて自分に対する想いを語り、自分も彼女への愛を伝え、互いの愛と添い遂げる決意を、改めて確かめ合うのだろう。それでいいのだろう。いや、そうあってほしい――彼は身づくろいをすると、顔を洗うために室の外の井戸へ行こうと室の扉を開ける。そうして外気に触れ、その厳しさは変わらないのに、今まで自分を苛んでいたかの様な冷たいが爽やかで荘厳な空気が、今はまるで自分を護ってくれる様に包み込んでいると感じている自分に気がついた時その違いの理由を思って、彼は静かに微笑んだ。