差し込んできた光で室に張られていた結界が破れた事を義経は感じ取ったが、おそらく今対峙しているだろう『山神』の手で張られた、人では破れないだろう結界が何故破られたのかと目を瞬かせていると、『山神』が怪訝そうな声を上げる。

――龍…?しかも箱根権現の匂いがするわ。九頭竜か。
この地に縁のない、しかも調伏された毒龍如きが何故小賢しく我の邪魔をする――

――それは九頭竜がお主にかつての自らと同じ匂いを感じ、
加えて自らに縁あるものに仇なそうとしておる故。
縁ある者、愛おしき者を護らんとするは神仏も人も道理は同じ。
しかしお主の場合は護る術と心根を間違うたのう――

――権現の開祖もいるか。この毒龍はともかく、お主こそ人の身で神に刃向うか――

――儂とて神仏に仕える身、平時なら刃向いなどせずただ仕え、見守るのみ。
しかしそれはまともな神仏であればこそ。
今のお主は禍つ神に堕ちておる。
娘の身を案じたとはいえ、愚かにも禍つ神に堕ちるとは
我らの信ずる神仏も、我ら人とそう変わらぬの。
しかしそれでこれ以上いらぬ禍を、しかも我らに縁がある者に起こされてはたまらぬ。
縁あるものを護り、全てを終息させる助力を与えるため
我らはこの地に遣わされたのじゃ――

――この地に縁もゆかりもない箱根権現に口は出させぬし、
人の身で我を愚弄するは許さぬ。
権現の開祖よ、消されぬうちにその毒龍を連れて去ね――

――否。
我らがこの地に縁がないのに参る事ができたのは、
今の流れの源になったお主の娘ごが、全てを終わらせるために他の神仏による助けがいると、
この地と我らの双方に縁あるこの若者と、かつてのお主の娘ごと同様にこの若者を愛した
我らにより縁が深いこの娘ごを通して、箱根権現に助けを懇願し
それを聞き届けた権現がその使者として、我らを遣わす道を開いた故じゃ。
これもお主とは違う流れだが、同じく神仏のお導き。
故に神仏に仕える身としてこのお導き、あだ疎かにはできぬ――

 義経は自分のあずかり知らぬ場所で交わされている会話の意味が分らず狼狽しつつも、その会話に聞き入ったせいか夢現の狭間で彷徨っている精神の乱れが、一時不意に狭間でとはいえ止まった。その止まった精神を『光さん!』という声がその微かな声量とは裏腹に、力強く引き寄せる。引き寄せられるままにそちら側に精神を合わせると、室の中に来られるはずがない若菜の姿があった。その姿を見た時、とうとう自分は夢に取り込まれたか、しかし夢であっても愛おしい存在の腕の中でその夢に堕ちて、命を奪われてしまうならそれも良いのかもしれないと思い、そのまま一片の執念で懸命に研ぎ澄ませていた神経を全てに飲み込ませる様に弛緩しようとする。すると、もう一度微かに聞こえる若菜の声が、力強くその精神を引き戻した。
『駄目です!しっかり心を定めて下さい!私はあなたを死なせるためにここに来たんじゃありません!』
「わかな…さん…?」
『心を定めて、もう一度研ぎ澄まして下さい!全ての元凶が分かるはずです!』
 言われるままに深く静かに一息ついて、もう一度神経を研ぎ澄ませる。そこには先刻感じた道場の者であろう気配と、それに寄り添い守る様な柔らかな気配。そしてその二つの気配、ひいては自分をも飲み込もうとしている、先刻の『山神』とどこか同じ怒りを感じる禍々しく照っている一条の光。そしてその光から二つの気配を護り、対峙する様に並び立つ一条の光と、その光に並んだかなり古い時代の僧衣を纏った老齢の僧とはっきり分かる気配が感じられた。その全てがまるで絵図の様に見えた時、若菜の声と体温が今度ははっきりと彼に届く。
『光さんがするべき事は、今こそ全ての元凶を鎮めて、行を成功させる事です。…今分かりました。その手助けをするために私もこの山に呼ばれたんです、光さんのひいおばあ様に。そのためにも…いいえ、そんな事関係ない。生きて帰って、私と共にいるために…心を強く持って下さい!』
 義経は若菜の声で今度こそ心が定まった。夢に堕ちるのではなく、夢から覚めて生き延びねばならない、行を成功させ生きて愛しい存在の元へ帰らなければならないと。そしてそう心が定まった時、自らの今回の行に対する神仏の導きがその身に焼きついた。この行で自分がやらねばならない事。それはかつて荘厳であったろう、しかし今では禍々しき存在に堕ちこんだこの『山神』の禍々しさを調伏し、全ての混乱を終わらせる事。それこそが山伏道場の次期総師であり、山伏の身で妻を娶り、子をなした曽祖父の血を引く自らの役目だと――全てを理解した時、彼は自分を抱き起こしてくれている『若菜』に向かって微笑むと自ら起き上がる。それを見届けた『若菜』は『…これを。おそらく必要なものです』と彼の手に彼女が常に身につけている九頭龍神社の守り袋を握らせ、微笑むとすっと消えた。彼がその守り袋の意味を理解し懐に入れ、居住まいを正すと、老齢の僧の気配が彼に近づき、持っている『錫杖』を目の前に差し出し、声を掛けた。

――道が見え、覚悟は決まったか――

――はい。
あなたがただ私の助力にいらしただけでなく
最愛の人を共に連れていらして下さったおかげで、
私の為すべき事が見え…覚悟も決まりました。
どうか、この全てを終わらせるためのお力を
この私にお貸し下さい――

――ならば、儂について読経せよ。今一時のみ調伏の経を授ける――

 義経はその『声』に対して頷くと、『錫杖』を受け取り片手に正し、もう片方の手を拝しながら僧の読経に合わせ読経する。今まで一度も聞いた事がない経なのに、彼はすらすらと読みあげていった。経が進む毎に禍々しい光が弱まっていき、『山神』が苦悶しているのが分かる。そして経の最後の一節を読み上げると同時に手の『錫杖』を打ち鳴らした時、『錫杖』が手から消え、光の筋と化すとともに禍々しい光が霧散した気配を感じ取った。それで義経はまず一つやらねばならなかった事が終わったと理解した。室の中から禍々しい気が抜け、静かで、荘厳な空気が戻ってくると同時に、先刻の怒りを感じていた『声』が今度は静かな畏敬を漂わせ、彼の耳に聞こえてくる。

――神でありながら妄執に乱れ、闇に堕ちこんだこの身を元に戻してくれた事、礼を申す――

――わが身は何も為さず。我はただ神仏の導きに全て従ったまで――

――かもしれぬ。
しかしその導き故、上人と龍神はともかく、ここにいる二人はこのままにはできず。
この室を一度出たらこの二つの魂は霧散し、輪廻の輪からも外され、
人でもなく、神でもない山の気となり、永久にこの山に漂わん。
それは如何とも免れえぬ――

――わたくしはよいのです、お父様。
この方と添い遂げるために人となった時から、それはもう分かっていた事。
…でも…この方まで道連れにするのは、本意ではありませんでした――

――いいのだ。
戒律を破り、そなたと添い遂げると決めた時
この身は無間地獄に堕ちてもかまわないと覚悟していた。
神仏に仕える身でありながら戒律を破り、神仏を捨てたこの身が
無間地獄ではなく、この山に溶け、そなたと永劫共にいられるのなら、
それはこの上なき幸せだ――

―それにのう、そなたは確かに戒律は破ったかもしれぬが、神仏を捨ててなどおらぬ。
この娘ごを色欲ではなく愛し、添い遂げ、
二人で神仏の救いを求めた事、間違いではないしの。
そなたの過ちは娘ごの死に耐えられなんで、自ら死を選んだ事、それだけじゃ。
その過ちにはとうに気づいておろう?
じゃからこそ娘ごに再び会い見える事ができただけでなく、
その娘ごと共にこの山の気として迎え入れられるのじゃよ――

――戒律を破り、自ら命まで絶った身に、もったいなきお言葉。
たとえこの魂消えようと、
上人殿のお心とお言葉は、どこかにきっと留めまする――

――あなたの魂が消えても…私が覚えていましょう。
あなたの血と魂を受け継いだ私が――

――我らのせいでいらぬ苦しみを与えたのに、そう申してくれるか――

――あなた達がいらしたからこそ、私という生がこうして生まれ、
そして私もあなた達と同じく、愛すべき存在を得る事ができました。
苦しみ以上にこの様な幸せを与えて下さった存在に感謝こそすれ、
恨む事がありましょうや――

――ありがとう――

――全ての流れはゆるりと、しかし確実に正しき流れに戻らん。
我らの助力はこれまで。
ではこの山の山伏の長よ。後の事、そなたに託す――

――はい。
この後の緩やかなる終息へ導く使命は、
私が山伏道場の次期総師として力の限り尽くします。
ただ…今のみ、今このひと時のみは…
次期総師としてではなく、また山伏としてでもなく、
先祖を慕うただの人の子として、我が血と魂の源の旅立ちを送る事
どうかお許し下さい――

――送るがよい。それも正しき終息への一端なり――

 義経は彷徨っていた二人がやっとの事で出会えたのに、その二人の魂を消す一端を担う事に、ほんの少しの胸の痛みを感じたが、二人がどんな形であれこれで永遠に共にいられるのだ、とは理解しているので、その二人の愛の深さを己の心に刻み込むために、そしてその二人に餞を送るために静かに読誦する。気配が一つ消え、二つ消え、そして最後まで残った二つの気配がどこか名残惜しさを残しながらも、ゆっくりと消えていったのを感じた時、義経は全てが終わった事を理解し、ふっと意識が遠のいていった――