「いいかいエルンスト…今日からお前はここに住む事になるんだよ」

 見た事もない広い屋敷。その大きさにエルンストは目を見開いて周りを見渡す。両親が事故で亡くなり、祖父に引き取られた彼は、この屋敷で祖父と共に働く事になっていた。働く事は決して嫌ではないが、こんな大きな屋敷でどう働いていくのだろう…そう思いながら物珍しそうに屋敷を見渡すエルンストを入口に控えていた女中達は気の毒そうな表情で見詰め、互いに囁き合う。
「…ねえ、あの子でしょ?クラウスさんの息子さんって」
「ええ。よく似てるわ……ほんとにかわいそうよね」
「自動車事故でしょ?しかもイザベルさん共々だもんねぇ…」
「いくら身内がハンスさんとマリアさんだけだからって…ここに引き取るのを認める代わりに使用人仕えさせるなんて、だんな様も酷いわよねぇ…坊ちゃまとそう歳も変わらないんじゃない?」
「シッ!…だんな様が来たわよ」
 軍服姿の男が二人、ゆっくりと階段を降りてくる。亡くなった自分の父とそう歳は変わらないであろうその二人を、エルンストはじっと見詰めた。
「だんな様…お久しぶりでございます」
 『だんな様』と言われた男は祖父のを見ると言葉をかける。
「ハンス、悪いな。折角隠居したお前を呼び戻してしまって」
「いいえ、それが私達一族の職務ですから…後継ぎがこの子しかいない以上、大きくなるまではご迷惑でしょうが、お世話になります」
「そうか」
 男の表情や口調には何の感情も表れていなかったが、内には祖父や自分に対する気遣いが隠れている事が、エルンストにも分かった。男は傍らで自分を見詰めるエルンストにふと気づくと口を開く。
「この子があの時の子か…」
「はい。…エルンスト、だんな様に挨拶しなさい」
「うん、おじいちゃん。…ええと…はじめまして、エルンスト・ベルガーです」
 ぺこりと頭を下げたエルンストを男はじっと見詰める。鋭いが、決して冷たい感じはしない眼差し。その雰囲気にエルンストは気圧されたがじっとその男を見詰め返す。と、男がエルンストにも言葉をかけた。
「エルンスト、両親がいきなり死んで大変だと思うが、今日からお前はここで働いてもらう事になる。もちろんお前は義務教育が終わっていない身だ、学業が優先だがな。学校にこのまま通うか、息子と共に家庭教師につくか決めておいてくれ」
「おじさんの子供…?」
「こらエルンスト、『だんな様』と言いなさい」
「あ、ごめんなさい。…だんな様」
「いや、おいおい慣れればいい」
 慌てて謝るエルンストに、男はあまり感情を見せない口調で声を掛ける。男は更に続けた。
「分からない事があったら、ハンスかそこにいるテオドールに聞くといい。…ああハンス、早々で悪いがちょっと来てくれ。テオドール、後は頼むぞ」
「承知致しました」
「ああ」
 二人が去ると、テオドールと言われたもう一人の軍服姿の男は、親しげな笑みを見せて口を開く。
「やあエルンスト、はじめまして…の方がいいかな。テオドール・シュライバーだ。お前の親父さんとは永年の悪友同士だった…ってとこだ。まあよろしく」
「あ、はい。よろしくお願いしますテオドールさん」
 エルンストの挨拶に、テオドールは呆れた様な声を上げる。
「お前、ホントに堅いな。確かにあのクラウスの子供だよ」
「どういう事?」
「折目正しい奴でな、俺やあいつにも『お前達はドイツを代表する超人なんだから、何かする時は自分の立場を考えろ』って、うるさかったんだぜ?お前の親父さん。…まあ、そのおかげで助かった面も、いくらかはあったんだがな…」
 口調は乱暴だが、親しみのこもった声と表情。そこに彼と父との仲が垣間見えた様な気がして、エルンストは思わず微笑む。その表情に気付いたテオドールはばつの悪そうな表情を見せ、口を開いた。
「…さて、それじゃ屋敷の案内と、ついでに『もう一人のクラウス』と面通しだな」
「『もう一人のクラウス』?」
 その時パタパタという足音が近付いて来た。足音のする方を見ると、小さい男の子が息を切らせて走って来る。
「テオドール、ハンスが来たんでしょ?どこにいるの…あれ?」
 男の子はエルンストを見ると、きょとんとした表情で小首を傾げる。
「テオドール、この子誰?」
「クラウス、お前の遊び相手だ。エルンスト、こいつがここのご令息。ほら、二人とも挨拶」
 テオドールはそう言うと、二人を向かい合わせて背中をポンと叩く。『遊び相手』という言葉を聞いてその男の子はパッと顔を輝かせると、エルンストを見詰め、問いかける。
「ホントにボクと遊んでくれるの?」
「えっ?…あ、うん…」
「うれしいなぁ!ボク、クラウス・フォン・ブロッケン」
「クラウス…?」
「うん!君の名前は?何て言うの?」
「あ…エルンスト。エルンスト・ベルガー」
「ベルガー…って事は今日来るっていってたクラウスの子供って君?」
「父さんを知ってるの?」
「うん。とっても優しいんだよ!ボクとよく遊んでくれるんだ!」
 そこまで言うと、少年は急に顔を曇らせる。
「でも、死んじゃったんだよね…」
「うん…」
 クラウスと名乗る男の子の言葉に、エルンストは両親の事を思い出し、涙を零す。
「父さん、母さん…どうして死んじゃったの…?」
「泣かないでよ、ボクだってクラウスが死んじゃって…ふえ…」
 二人はぽろぽろと涙を零し、大きな声で泣き出した。泣いている二人をテオドールは泣き止ませる事なく、自分も少し寂しげな眼差しで見つめていた。やがてひとしきり泣くと二人は落ち着き、泣き止むとエルンストはゆっくりと口を開く。
「…泣いても、父さんと母さんは戻って来ないんだよね。…悲しいけど、我慢しなきゃ」
「うん、ボクも悲しいけどがまんする。でもエルンストが来てくれたから、きっとがまんできると思うんだ」
「え?」
 エルンストは不思議そうにクラウスを見詰める。クラウスは無邪気な笑顔で続ける。
「だって、エルンストといっぱい遊んでたら、楽しくてきっとクラウスの事がまんできると思うもん」
クラウスの言葉に、エルンストも呟く様に口を開く。
「…僕も君と遊んでたら、お父さんの事、我慢できるかな…」
「うん、きっとそうだよ。一緒にがまんすれば大丈夫だよ!」
クラウスの明るい笑顔に、エルンストにも思わず笑みが漏れる。
「…うん、そうだね。きっと我慢できるよね…これからよろしく、クラウス」
「うん、仲良くしようね、エルンスト」
 嬉しそうに笑いあう二人を、テオドールは優しい眼差しで見詰め、二人を元気づける様に声を上げた。
「よし!じゃあこれからエルンストに屋敷の案内をするぞ!」
「じゃあボクも一緒に案内するよ!いいでしょ?テオドール」
「ああ、しっかり案内頼むぜ」
「うん!じゃ、いこ?エルンスト」
「うん!」
 こうして仲良くなった二人は、勉強する時も遊ぶ時もいつも一緒に過ごしていった。もちろん、エルンストには仕事があるのでその時は一緒ではないのだが…クラウスは簡単な雑務からこなす様になり、祖父から執事としての心得を少しずつ学んでいった。働き者のエルンストはすぐに使用人たちにも馴染み、ただの『坊ちゃんの遊び相手』としてだけでなく、簡単な仕事の戦力として扱ってもらえる様にもなり、そんなある日の事、エルンストがいつもの様に屋敷の仕事をこなしていると、クラウスがこっそりとエルンストを見詰めているのに気がついた。エルンストは不思議に思って声をかける。
「…どうしたの?クラウス」
「ん…まだ遊べないの?エルンスト」
「うん、この仕事、なかなか終わらなくて。…これが終わったら遊べそうなんだけど…」
「…そう」
 クラウスはとても寂しそうな表情で頷いた。その表情を見て、エルンストはクラウスの寂しさを少しではあるが察知した。『ブロッケン一族のお坊ちゃま』として傅かれてはいるが、この屋敷にエルンストを除いて子供は自分一人。同年代の一族の者もいるらしいが、この屋敷に訪れた事はそういえば無い様な気がする。クラウスはきっと寂しいんだ――エルンストは少し考えると、クラウスに向かって微笑みながら問いかける。
「クラウス…これ、手伝ってくれない?やり方は教えるからさ」
「えっ…いいの?」
 クラウスはぱっと顔を輝かせる。エルンストは頷くと、悪戯っぽい表情で続けた。
「うん。…でもおじいちゃんには内緒だよ。クラウスに手伝わせた、なんて言ったら怒られちゃうもん」
「うん、分かった!で、どうやるの?」
「ええとね…」
 こうして、エルンストは屋敷の者には内緒で仕事を手伝ってもらう事によりクラウスと過ごす時間を増やし、同時にその寂しさを埋める様に努力した。クラウスも自分が屋敷の人間達の役に立つ事が嬉しいらしく、エルンストとこっそり仕事をするのを何よりも楽しみにする様になった。遊ぶだけではなくいつも一緒――二人はお互いになくてはならない友人として育っていったのである。