そして2年程たったある夜、テオドールは二人を連れて、クラウスが生まれてすぐできたという壁がある場所へ足を運んだ。夜もかなり更けていて、子供が出歩くには少々(いや、かなり)危険な時間帯だったが、二人は楽しい冒険の様な感覚でテオドールに付いて来ていた。
「…ねえテオドール、どうしてこんな時間にここに来たの?」
 無邪気にクラウスがテオドールに尋ねる。
「お前の親父さんから頼まれたんだ。『この時間に、この壁を見せろ』ってな」
「でも、何でこんな時間に見せるんですか?」
 エルンストの重ねての問いに、テオドールは少し厳しい様な、複雑な表情で答える。
「…この時間だからこそ見えるものがあるんだよ。色々とな。それで、俺達がやっている事を学んでもらう。それが今日の目的だ」
「はあ…」
 分かった様な、分からない様な返事を返すと、エルンストは壁を見詰めながら不思議そうに呟く。
「…この壁って、クラウスが生まれてすぐに作られたんでしょ?どうしてこんな壁を作ったんだろう」
 エルンストの言葉に、テオドールは苦々しげに、しかしどこか寂しそうな表情で呟いた。
「…みんな上の人間の欲のためさ。そんな欲のために一つの国が二つにされて、家族ですら離れ離れになっちまった奴らもいるんだ」
「…」
「…覚えておくんだ、こんな壁は馬鹿野郎のする事だってな。俺達の時代には壊せねぇかも知ねぇが、お前たちの時代になったら、こんな壁壊しちまえ。クラウス、お前の親父が率いているドイツ親衛隊ってのは、そのためにあるんだって事も覚えとけよ。絶対自分達の欲で動かすな…分かったな。それを教えるために、今日はここへ来たんだ」
「…」
 二人は難しい話に頭が少し混乱し、返事を返す事ができずに黙り込む。と、壁の向こうから銃声と女性の悲鳴、そして女の子と思われる子供の泣き声が聞こえてきた。三人は壁の方を向く。
「…亡命しようとして失敗したな。…さて、どうするか…」
「テオドール、助けてやって!テオドールならできるでしょ!?」
「僕からもお願い!助けてあげて!」
「ちっ…難しい事を言ってくれるぜ、この坊ちゃん達は…よっ!」
 必死の二人の願いに口ではぶつくさ言いながらも、テオドールは壁に飛び乗った。壁の上にいきなり男が現われた事に東側の兵士は驚き、テオドールに向けて銃を撃つ。しかし、テオドールは難なくそれをよけ口を開く。
「…よお、女子供にまで手をかけるたぁちょっといただけねぇな」
 突然壁の上に男が現われ、しかも確かに狙って撃った弾をよけられ驚きつつも、兵士はテオドールに向かって叫ぶ。
「何を言う!亡命者は何があっても止めるのが我々の任務だ!」
「亡命だろうが何だろうが、俺には関係ないね。その二人は俺が預かる」
「何を勝手な事を…う…まさかその姿は…」
 テオドールの姿を改めてはっきり見た兵士は、驚きのあまり絶句する。テオドールは感情を見せない冷たい口調で名乗りを上げた。
「俺はドイツ親衛隊のテオドール・シュライバー。…それだけ言えば充分だろう」
「う…」
「分かったら、その二人は俺がもらっていっても文句はねぇな」
「…」
 兵士は沈黙する。沈黙を肯定と捉えたテオドールは、高圧電流などを器用にかわし、女性と女の子を抱えて壁を乗り越え、クラウス達の所へ連れ出した。
「…ほらよ。全く無茶言うぜ」
「ありがとう、テオドール」
「ありがとうございます、テオドールさん」
 二人はテオドールにお礼を言う。彼に連れ出された女の子もテオドールにお礼を言った。
「ありがとう、おじさん」
「お、おじ……ええと、『お兄さん』って言ってくれないかな」
 女の子の言葉にテオドールは少しショックを受けながらも、しっかり訂正する。女の子はそれを聞いて笑いながらも、何故か声を出さない母親に向かって声をかけた。
「お母さん、これでお父さんの所に行けるよ…お母さん?」
 女の子が不思議そうな表情で母親の顔を覗き込む。母親の顔には血の気がなく、腹部から大量の血が流れていた。テオドールもそれを見ると、厳しい表情で口を開いた。
「…やられたな、こいつはもう駄目だ」
「駄目って…お母さん、死んじゃうの!?お母さん、大丈夫だよね?お母さん!」
「そんな顔をしないの。…折角のかわいい顔が台無しよ?ルイーゼ…」
 叫ぶ女の子を宥めながら、最後の力を振り絞って女性はテオドールに向かって口を開く。
「…ドイツ親衛隊の方だと…おっしゃいましたね…その名前は東にも届いています。助けて頂いてさらにご迷惑をお掛けしますが…この子を…父親の所へ…連れて行って頂けませんか…」
 必死の母親の様子に、テオドールも真剣な表情で彼女に問う。
「分かった…あんたの名前は、それにあんたのだんなの名前は」
「私は…ロミー・エアハルト。夫の名前はルドルフ…夫はミュンヘンの辺りに住んでいると聞いています」
「そうか…分かった。この子は必ず送り届ける」
「どうか…この子を…頼み……ま…」
 そこで女性はこと切れた。女の子は泣きながら母親を呼ぶ。
「お母さん、お父さんと三人で一緒に暮らすんだって言ったじゃない!死なないでよ!死んじゃやだ!」
「…」
 泣き叫ぶ女の子を二人はただ見詰める。テオドールが二人に厳しい表情で言う。
「…分かったか。これがこの国の現状だ」
「…うん」
 二人は頷いた。頷く事しかできなかった。テオドールは女の子の方へ向き直ると、静かに声を掛ける。
「お嬢ちゃん、悲しいがお嬢ちゃんの母さんは死んじまったんだ。だからこれから俺が、お嬢ちゃんを責任持って親父さんのところへ送り届ける。お嬢ちゃんの名前は?」
 泣いていた女の子は、少ししゃくり上げながらも名前を口にする。
「ルイーゼ…ルイーゼ・エアハルト」
「そうか…とりあえずルイーゼ、しばらくうちに来い。親父さんをとにかく見つけなきゃな」
「…うん」
 そして母親は丁重に葬られ、ルイーゼは父親が見つかるまでしばらくブロッケン邸に預けられる事になった。クラウスとエルンストは女の子だという事に戸惑いながらも、彼女と一緒に楽しそうに遊んでいた。実際ルイーゼは活発な女の子で、クラウスもエルンストもあまり気を遣わずに遊ぶ事ができた。そして数週間程過ぎたブロッケンマンの執務室。ブロッケンマンの座っている机の端に腰を掛け、テオドールが困った様に口を開く。
「…参った。あの子の父親だが、もう病気で死んじまってた。親戚がいるかと思って探してみたが、全然見つからねぇ」
「そうか。…あの子は天涯孤独の身になってしまったのか」
「あの子にどうやって話すか。…母親が目の前で死んじまってただでさえショックなのに、父親も死んでたなんて聞いたらどうなるか…」
 痛々しげに話すテオドールに、ブロッケンマンは怪訝そうな表情で口を開いた。
「珍しく肩入れをしているな。…やはりお前の娘と同じ位の娘だからか」
 ブロッケンマンの言葉に、テオドールは不機嫌そうな声を出す。
「おい、その話はやめてくれ。俺の事は関係ないだろ」
 テオドールの不機嫌そうな声にも構わず、ブロッケンマンは更に続ける。
「しかし、会いたくはないのか。無事に暮らしているという事と、生まれたのが娘で、クリスティーナと名付けた。…それしか知らないのだろう?超人ならば国境は関係ない。会いに行くのに不都合はなかろう…私の事は、気にせずともいい」
 その言葉にテオドールは不機嫌な表情を苦しげに変え、答える。
「そういう事じゃねぇよ。…そりゃ確かに会いたいさ…でもな、今はあの子を含め、俺と同じ様な立場の人間がゴロゴロいるんだ。俺だけ特別扱いってのは、俺自身が許せねぇ…それにあいつも…絶対に許さねぇ」
「そうか…そうだな」
 二人に沈黙が訪れた。しばらくの沈黙の後、ブロッケンマンが改めて口を開く。
「それで…どうする」
 ブロッケンマンの言葉に、テオドールが答える。
「俺からの願いだ。あの子をここに置いてやってくれねぇか。…あの子にはもう身寄りがねぇんだ。俺はここを追い出して、これ以上あの子を傷つけたくねぇ…それに、あいつらの遊び相手にも歳から言ってぴったりだろ?」
「ふむ…」
 ブロッケンマンは少し考え込んでいたが、やがて頷くとその願いを承諾した。
「そうだな。…身寄りのない子供を追い出す訳にもいかないだろう…それに子供達であの子の傷を癒す事ができるなら、一緒にいさせてやりたい」
「ありがとうよ…フランツ」
 テオドールはブロッケンマンに頭を下げた。それを見たブロッケンマンは彼の頭を上げさせる。
「頭を上げろ…お前が頭を下げる事ではない」
「しかし…俺の勝手な言い分で、あの子を置かせてもらうなんて…結局は俺の自己満足でしかねぇのに…」
 その言葉をブロッケンマンは感情をあまり出さない、しかし労わりのこもった声で制する。
「自己満足だろうが…自分の娘にできない事を、あの子にしてあげるといい。…兄さん」
 その言葉にテオドールは一瞬驚いた表情を見せたが、やがて穏やかに微笑んだ。
「ああ、そうさせてもらうよ…」

「…そう。お父さんも死んじゃったんだ…」
 テオドールはルイーゼを気遣いながら言葉を選び、真実を伝える。泣くかと思っていたが、ルイーゼはある種冷静な口調でそう呟いた。いや、あまりの現実の厳しさに呆然としているのかもしれない。テオドールは続けて、当主と話した提案を聞かせた。
「…それで、俺とここのご主人様とで話したんだが…ルイーゼもここで暮らさないか?もちろん、使用人として働いてもらわなくちゃならないが…」
 テオドールの言葉にルイーゼは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに寂しげな表情で口を開いた。
「でも…あたしがここにいたら、みんなに迷惑なんじゃないかな…」
 ルイーゼの言葉に、その場にいたクラウスとエルンストが口々に反論をする。
「そんな事ないよ!ルイーゼが来てくれて、ボク達とっても楽しいんだから」
「そうだよ!ルイーゼといると僕、楽しくてお父さんとお母さんの事、もっと我慢できるようになったんだよ!」
「ありがとう…あたしもクラウスやエルンストといると、楽しくてお母さんの事、少しは忘れていられる。…でも、それでいいの?」
 なおも迷うルイーゼに、テオドールは優しく頭を撫でながら言い聞かせた。
「この二人がルイーゼがいる事を何よりも望んでる。だからいいんだよ」
「…本当にここにいていいの?」
「ああ」
 ルイーゼは少し考え込んでいたが、やがてぽつりと口を開く。
「あたし…ここにいたい」
 やがて気持ちが湧き上がってきたのか、ルイーゼの目から涙が零れてきた。涙を零しながらルイーゼは続ける。
「あたし…クラウスやエルンストと一緒にいたい!一生懸命働きますから…あたしをここに置いて下さい!」
 ルイーゼの言葉に、テオドールはもう一度彼女の頭を撫でると、優しい表情で頷いた。
「よし分った。じゃあ今日からルイーゼも正式にこの屋敷の一員だ」
 テオドールの言葉に、クラウスとエルンストは両手を上げて喜ぶ。
「やったー!ルイーゼ、ずっと一緒にいられるんだね!」
「これからもよろしくね!ルイーゼ」
「うん!」
手を取り合って喜ぶ三人を嬉しそうに、しかし少し寂しそうにテオドールは見詰めていた。