「大丈夫か?こんなに長く運転して。疲れている様なら代わるぞ」
「ううん、ただ渋滞で止まってるだけだし大丈夫。それにあたし箱根は上りの方が怖くないのよ。だから怖い帰りをお願い」
「分かった。でも、疲れたらいつでも代わるからな」
「うん、ありがとう」
 箱根へ向かう道路で年末の渋滞に巻き込まれつつ、土井垣と葉月は彼の車に彼女の運転で箱根の旅館へと向かっていた。元々この旅行は、クリスマスに二人で一緒に過ごせないと不機嫌になっていた彼に、気を利かせた葉月の親友である弥生が、部活のネットワークを使ってプレゼントしてくれた旅行であり、また、二人きりで行く初めての旅行であった。彼は始め往復とも自分が運転すると言っていたのだが、彼女が『箱根の山道は自分の方が慣れているから』と行きの運転を引き受けて、今こうして運転している所なのである。彼は初めて彼女の運転する車に乗ったのだが、仕事で乗り慣れているせいかかなり上手な彼女の運転と、地元民ゆえの道の選択の見事さに感心しながら助手席についていた。そうして二人で土井垣推薦の曲をカーステレオで掛けながら目的地に向かっている時に、ふと彼が口を開く。
「…しかし、本当にお父さんがあんな簡単にこの旅行を許してくれるとは…な」
「…ん…」
 土井垣の赤面しながらの言葉に、葉月も赤面して頷く。いくら結婚を前提にして家族ぐるみで付き合っているとはいえ、一応は嫁入り前の娘である。彼も内心は反対されるだろうと思っていたのだが、旅行の許可を取りがてら彼女と出発の前日に彼女の実家に泊まりに行って事情を話すと、あっさり「二人とも忙しい身なんだから休息がてら行って来るといい」と許可が出たのである。ちなみに土井垣の家族の方もその前に顔を出して許可を取ったらあっさり許可が出て、彼の祖父に至っては「ひ孫の顔が見られる日もそう遠くはないのう」などと発言し、彼女を恥ずかしがらせていた位であった。彼女はその事も思い出したのか赤面しながら、ぽそりと口を開く。
「あたし達…そんなつもりじゃ…なかったのに…ね」
「あ…まあ…そうだな…」
 葉月の言葉に土井垣は少し狼狽して応える。土井垣としてはある決意と期待を持っているのだが、葉月としてはただ『年末年始を二人で一緒に過ごせるのが嬉しい』という事のみでこの話に乗っているのだろう。それが何を意味するか、二人がどうなっていくのかまでは考えが及んでいないかもしれない。二人の気持ちのずれを持ちながらも二人で一緒に過ごせる喜びをお互い感じながら、二人は車を走らせて行った。

 そうして二人は旅館へ辿り着いた。この旅館は葉月の先輩が女将をしている旅館だが、彼女も来るのは初めてで、その上品なたたずまいに感嘆の溜息をついていた。やがて車のキーを預け、中に案内された後、ウェルカムドリンクが出され、チェックインをする。ウェルカムドリンクをゆっくり飲んで少し落ち着いた後、仲居に荷物を運んでもらいながら二人は部屋へ案内される。案内された部屋は落ち着いた雰囲気のする和室で、部屋には小さな庭と露天風呂まで付いていた。二人は顔を見合わせて赤面する。やがて仲居がお茶を入れ去った後、二人でお茶を飲んでいると、上品な着物を着た、たおやかな女性がやってきて挨拶をする。
「当旅館へようこそおいで下さいました。女将の玲子でございます」
「あ、はい…」
 葉月も久し振りに見る大先輩の様子に戸惑った表情を見せる。玲子は旅館の説明を詳しくして、食事時間を尋ねる。土井垣が答えると、「承知致しました」と一礼し、顔を上げた所で彼女を見てにっこり笑って口を開く。
「…と、これで難しい話はおしまいにして。…ようこそ葉月ちゃん、うちの旅館に来てくれてありがとう」
 玲子の気さくな様子にやっと葉月も自分の調子を取り戻し、玲子に応える。
「いいえ、私とヒナ…弥生こそ何だか玲子さんに無理を言っちゃったみたいで…」
「いいのよ。丁度この部屋のお客様が急にキャンセルなさってね。部屋を遊ばせておくのもどうかと思ってた時に弥生ちゃんから電話があったから、渡りに船って乗っただけよ。だからお礼に宿泊料は勉強するから」
「ありがとうございます、玲子さん」
 そう言ってウィンクする玲子に葉月はお礼の言葉を出す。玲子は更に続ける。
「でも、葉月ちゃん結婚してたのねぇ。しかもプロ野球選手と?…OBネットワークにも乗ってこなかったから知らなかったわ」
 玲子の言葉に葉月は赤面して首を振る。
「いいえ!私まだ結婚してませんよ!そりゃ、この人とお付き合いしているのは確かですけど…」
「あら、でもさっきの宿泊者カードには『妻』って入ってたけど」
「…将さん…」
「…」
 土井垣の『悪戯』が分かって葉月は赤面したまま彼を睨みつける。彼はばつが悪そうに視線を逸らしていた。玲子はそれを見てくすりと笑うと宥める様に口を開く。
「まあ、可愛い悪戯じゃない。許してあげなさい。それに、ここに二人で来たって事はそういう仲なのは確かなんでしょ?」
「…」
「言わなくていいわよ、葉月ちゃんの事だから恥ずかしいのよね。とにかく、すごく忙しいって事は聞いてるから、ここにいる時位ゆっくりしていってね。ここの旅館の売りは料理ももちろんだけど温泉だから。葉月ちゃんお風呂大好きでしょ?楽しく過ごしてね。…あ、でも休みで来てるのに悪いんだけど、ちょっと葉月ちゃんに仕事の話をしたいから、スタッフルームへ来てくれない?スタッフには葉月ちゃんは出入り自由にしてって話は通しておくから」
「はい、じゃあ後で行きます」
「じゃあ長話してごめんなさいね。とにかくゆっくり箱根の自然と温泉を堪能して下さいね」
 そう言って玲子はまた一礼すると部屋を去って行った。玲子が出て行ったのを確認すると、葉月は土井垣に抗議の声を上げる。
「将さん、どうしてそういう事するんですか!後で変な噂が立って困るのは将さんですよ!」
 葉月の抗議の声にも動じず、土井垣はさらりと応える。
「もうこうして二人で旅行に来た時点で宿泊客からはそういう目で見られるんだ。俺はかまわん。お前は嫌なのか?…俺とそういう風に見られるのが」
 土井垣の言葉に、葉月は赤面するとぽつり、ぽつりと口を開く。
「…それは…でも…ホントは違うんだし…将さんに悪いと思って…」
「だから俺がいいからいいんだ。折角の二人きりの旅行だ。その…新婚気分…を味わう気持ち位でいよう」
「…」
 二人はお互いの言葉に赤面する。しばらく二人の間に気まずい沈黙が続いていたが、やがて葉月が不意にわざとらしく思いついた様に口を開く。
「そうだ…あたし、お風呂に入りがてら玲子さんの所へ行ってきます。将さんはどうしますか?」
「あ、ああ、そうだな…俺は少し休んでお前と入れ替わりで風呂に行ってみる。とりあえず先に行って来るといい」
「はい…じゃあ行ってきますね」
 そう言うと葉月は備え付けのフェイスタオルを持って部屋を出て行った。土井垣はそれを見送ると、ソファにもたれかかる。
『今は気持ちがずれているが…俺達はこの旅行で…どうなるんだろう』
 そんな思いにふと辿り着き、土井垣は赤面しながら残りのお茶を飲み干した――

 一時間程した後葉月が戻って来て、テレビを見ていた土井垣に申し訳なさそうに声を掛ける。
「ごめんなさい、待たせちゃって。将さんも旅館のお風呂行きたいでしょ?」
「ああ、じゃあ行かせてもらおうかな…そうだ、女将の話は何だったんだ?」
 土井垣の問いに葉月は感心した口調で答える。
「うん、仲居さん達含めたスタッフの健康診断をやってくれないかって。しかも頚腕、婦人科含めたフルコースで。『フルコースの上遠いですし、宿泊になるからお金かかりますよ』って言ったら『長く健康で働いてもらうためには、それなりにお金はかけなきゃ。それに、この辺りは婦人科検診ができる所少ないし、頚腕は葉月ちゃんの所だけでしょ?評判もちゃんと聞いてるから』ってあっさり。とりあえずは『年明けに渉外部長に連絡させます』って答えたけど、ちゃんとお金の使いどころを分かってるわ。さすが柊兄の経営学の師匠」
「御館さんの?」
「うん、元々玲子さんって小田原ではちょっと有名な会社のお嬢様でね。跡取りじゃないけど経営学を自分も学んで、歳の離れた弟さんが跡を継ぐまで繋ぎで経営をしていた人なの。で、柊兄の経営手腕も、大部分は玲子さんが叩き込んだの。ここにお嫁に来たのだって、その経営の腕とあの美貌をここの息子さんに一目惚れされて猛アタックされた末の事ですし。でもそんな女傑タイプに見えても、芯はものすごく優しくて、いろんな事を教えてくれて、あたし、玲子さんがOBの中では一番大好きだったな」
「そうなのか…でも、すごい女性なんだな」
「まあ…小田原では元女学校の白梅も女傑が多いですけど、元男子校の古城に望んで入る様な女子は、共学になった初期に入ったうちの母含めて、昔から女傑ばっかりですし」
「お前もその一人というわけか」
「あは…そういう事になりますね…あ、ごめんなさい。引き止めちゃった。お風呂行くんですよね。すごく気持ちいいですよ」
「そうか…じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
 土井垣は大浴場に足を運ぶと、車に長い間乗っていた疲れを癒す様にゆっくりと湯船に浸かる。檜作りの浴槽は綺麗に手入れされていて香りも良く、気持ちがいい。また、露天の岩風呂もあって、上を見上げると空が良く見え、夜に入ったらきっと綺麗だろうと思え、彼は満足しながら湯を堪能した。そうしてゆっくりして浴衣に着替え帰って来ると、丁度夕食の時間になった。二人は向かい合わせで料理と酒を堪能する。上品な郷土料理は多過ぎず、少なすぎず、また今日は大晦日という事もあって、特別にご飯の代わりに年越しそばが出され、土井垣はそのおいしさに舌鼓を打つ。
「このそば…うまいな」
「当たり前ですよ。箱根はおそばも名物なんですから」
「そうなのか」
「はい」
 そうして楽しく話しながら食事も終わり、片付けられた後、彼女はもう一度大浴場に行くと言った。土井垣は少しでも二人でいたい気持ちがあったので少し不満げに口を開く。
「そんなに風呂ばっかり行っていると、お前の事だから湯当たりするぞ」
「大丈夫です。それに私、温泉に来たら入り倒す主義なんで」
「だったら…そこの露天風呂でもいいじゃないか」
「…」
 土井垣は言葉の綾が半分の軽い気持ちで言ったのだが、彼女は赤面して黙り込んでしまった。土井垣も、彼女が黙り込んだ意味を察し、赤面して口を開く。
「…やっぱり…恥ずかしいのか?」
「…当たり前でしょう…」
「…そうだな」
 彼女の言葉に土井垣も納得する。障子を開ければすぐに見える露天風呂だ。さすがに二人の仲とはいえ、彼女としても恥ずかしいものがあるのだろう。土井垣は溜息をつくと口を開いた。
「仕方ないな…ゆっくり温まって来い」
「…はい」
 そう言うと葉月は着替えとタオルを持ってまた部屋を出て行った。それと入れ替わりに部屋係の仲居とスタッフが来て、布団を敷いて行き、並べられた布団に土井垣は鼓動が高鳴ってくる。もちろん自分達はそれなりの関係ではある。しかし、こう改めて旅館で布団を並べられると自分達の関係が醸し出される様で、照れ臭さとともにはやる心が止められない。心を落ち着けようと土井垣はテレビをつける。とはいえ全く画面が目に入ってこない。そんな気持ちで過ごしていると、彼女が戻って来る。旅館の浴衣に丹前を身に付け、上気した頬に彩られた彼女を見ている内に、彼は自分の衝動が抑えられなくなってくる。彼女の方も並べられた布団を見て戸惑った表情を見せた時、彼の中の理性の糸が切れた。
「葉月…」
「…はい」
「…来い」
「…」
 土井垣の言葉に更にためらいを見せる葉月を土井垣は抱き寄せて口付ける。そのまま彼は彼女を布団へ導こうとしたが、彼女が不意に身をよじって唇を離した。
「…駄目」
「葉月…?」
 葉月の行動にいぶかしげな表情を見せる土井垣に、彼女は取り成す様に口を開く。
「今日は…運転して疲れてるの…だから…ごめんなさい…」
「あ…ああ、そうか…そうだな。俺こそ…すまん」
「ううん…あの…あたし、もう寝ていいかしら。何だか眠いの」
「そうか…今日は頑張って運転したものな…もう寝るといい。俺は…もう少し起きているから」
「ごめんなさい…じゃあ、お先に…」
 そう言うと彼女はいつもの様に何かの薬を飲んだ後丹前を脱ぎ、布団に潜り込んだ。土井垣は自分の衝動を何とか抑えようと、自分ももう一度大浴場へ行く。露天風呂に入って夜空を見上げると、冬の冷気で更に輝きを増した星空と、満月に近い月が美しく浮かんでいる。彼はこの景色を二人で見られたらと思い、先刻の衝動は収まったものの、ある種の胸の痛みを感じた。その胸の痛みを感じたまま彼は部屋に戻ると明かりを消し自分も布団に入りそっと彼女の気配を探ると、彼女は先に寝たはずなのに、何となくではあるが、起きている気配がする。それを感じて彼は一瞬彼女の布団に滑り込んでしまおうかとも思ったが、彼女の先刻の態度を思い出すと、それはどうもためらわれた。彼は遠くに聞こえる除夜の鐘を聞きつつ、二人きりの旅行の初めての夜を過ごした――