土井垣はまんじりともせずに夜を過ごし、新年の朝を迎えた。まだかなり朝早い時間の様で、葉月はまだ眠っている。何となく目が冴えてしまった彼は、ものは試しと部屋の露天風呂に入ってみる事にした。やはり檜でできた露天風呂は外気の寒さで適温になっていて中々気持ちがいい。それに部屋にいながら露天風呂で朝風呂というある種贅沢な事ができるこの部屋が、彼は何となく気に入った。後で彼女が起きたら恥ずかしがるだろうが、折角これ程に気持ちいい風呂なのだから彼女にもそれとなく勧めてみようと思いつつ、彼は風呂から上がり、浴衣から普段着に着替え、部屋に戻る。部屋に戻ると彼女もどうやら起きた様だ。布団から起き上がり、目をこすっている彼女の姿は、いつも共に朝を迎える時の様に、長い髪が乱れ気味なのもそうだが、更に浴衣が寝乱れて胸元と裾がかなり開いていて、いつもより更に艶かしさを感じてしまう。しかし彼女はまだ寝ぼけているらしく、それには全く気付いていない風情だ。土井垣は目のやり場に困りつつもその寝乱れた姿に鼓動がまた早くなってくる。毎朝彼女のこんな姿を見せ付けられて土井垣は自分の忍耐が何処まで続くのだろうと困惑しながら高まる鼓動を抑えつつ、彼女に声を掛ける。
「…おはよう、ねぼすけ。ちゃんと起きてるか?」
「ん…え…?ああ、おはようございます…って、やだ~っ!」
 葉月はしばらく自分の置かれた状況に気付いていなかった様だが、土井垣に気付いて朝の挨拶をした後、自分の姿にやっと気付いたのか、慌てて浴衣の前を掻き合わせる。土井垣は鼓動を抑えつつ、落ち着いた口調で声を掛ける。
「その様子だと、目覚ましに風呂に入った方が良さそうだな。そこの露天風呂に入るといい。かなりいい風呂だぞ…その…俺は見ないから」
「…本当?」
「ああ」
「…じゃあ、そうします」
 多少二人きりに慣れたのか、昨日より少し素直な様子を見せた彼女は、頷くと自分の着替えと部屋に備え付けのバスタオルを持って、露天風呂へ向かった。土井垣は約束通り障子を閉めると、気を紛らわせるためにテレビをつけた。まだ朝が早いのでお正月特番もそうだがニュースを放送している所も多く、土井垣はテレビに集中しようとしたが、どうしても障子の向こう側が気になって仕方がない自分も感じていた。自分はこんな人間だったのかと多少の自己嫌悪を感じながらテレビを見ていると、やがてすっかり目が覚めて着替え、髪もすいた彼女が土井垣の前に現れた。二人は何となくぎこちなく新年の挨拶をお互いにする。
「おはようございます…それから、明けましておめでとうございます」
「ああ、明けましておめでとう…今年もよろしくな」
「…はい、よろしくお願いします」
 何となくぎこちなく、居心地の悪い雰囲気が続き、やがて仲居が布団をあげ、朝食の支度をして行った。二人は何となくぎこちないまま朝食を食べ、食後に出されたお茶を飲んでいたが、やがてそのぎこちなさが耐えられなくなったのか、葉月が口を開いた。
「将さん、今日はまだ駅伝やらないから一日ありますし、折角箱根に来たんですから、登山線に乗って、大涌谷にでも行ってみます?それとも、バスに乗って芦ノ湖に行ってみましょうか」
 葉月のぎこちないながらも自分を気遣った心遣いに、土井垣は心が温まる。彼は少し考えた後、優しい笑顔で応えた。
「そうだな…登山線は前に自主トレに来た時に一度乗ったから…芦ノ湖が見たいな」
「じゃあ、そうしましょう。もし営業していたら遊覧船にも乗りませんか?」
「それも楽しそうだな」
「じゃあ、善は急げで行きましょう?」
 そう言うと葉月はにっこり笑って立ち上がる。土井垣もそれに釣られて立ち上がると、二人で部屋を出る。二人が並んで歩いていると、彼に気付いた何人かの宿泊客がこそこそと何やら話している様子が見えたが、彼は全く気にならなかった。自分達はそういう仲なのだ。何も後ろ暗い事はない。そう思って彼はいつもよりむしろ堂々とし、彼女の肩を引き寄せて歩いた。彼女の方は何故か寂しげな様子を見せていたのにも気付かずに――。二人は旅館のフロントに鍵を預けると傍にあったバス停から彼女の案内でバスに乗る。混み合ったバスに乗って終点まで行くと、目の前に様々な建物と共に芦ノ湖が広がる。彼は湖から来る爽やかな風を感じながら、二人でこうして旅行に来た幸せを改めて感じていた。そうしながら横にいる彼女を見て、彼はやっと彼女が寂しげな表情で湖を見詰めているのに気が付いた。彼は彼女の表情が訝しくなって問い掛ける。
「…どうした?」
「…えっ?…ああ、何でもないです…あ、遊覧船やってるみたいですよ。乗りましょう?」
「…ああ」
 土井垣は葉月の表情の意味が分からずいぶかしく思いながらも、彼女の勢いに圧されて遊覧船に乗る。湖上を進む遊覧船から望む景色はまた格別で、彼は先刻のいぶかしさも忘れて爽やかな空気と広がる景色を満喫していた。彼はすっかり遊覧船を満喫していたので、彼女の方が何かを考える様にぼんやりと景色を眺めていたのには気付かなかった。やがて彼女の勧めで箱根園の桟橋で降り、寄り添い合ってそこにある水族館や、興味を持った寄木細工のコーナーを見て回る。水族館では彼女も無邪気に楽しんでいる様に見えたので、彼はすっかり先刻の彼女のおかしい態度を忘れてしまい、自分も楽しんだ。寄木細工のコーナーでは、工程や材料などの展示がされていて、その細工の見事さに土井垣は感嘆する。そこでは完成した箱根細工も売っていたので、彼はクリスマスプレゼントがあげられなかった分彼女に何か買おうと思い、彼女が品物を楽しげに見ているのを好機に手ごろな品を探す。手鏡、小箱、キーホルダー…様々な物があったが、ふと髪留めが彼の目に留まる。彼女の美しい髪にこれを付けたらさぞ似合うだろうと思い、彼は様々な模様を厳選してこれだという物を選びこっそりと購入する。彼女は飽きずにまだ小さな引き出しなどを見て楽しんでいた。彼はそんな彼女を微笑ましく見詰めると、『そろそろ昼だ、何か食おう』と声を掛けて、園内の食堂へ入った。昼食をとった後、二人は一息つく様に話していたが、やがてふと会話が途切れた時、彼は先刻買った髪留めの入った箱を彼女に差し出した。彼女は箱を開けると、驚いた様に彼を見詰める。
「将さん、これ…」
「遅くなったがクリスマスプレゼント…いや、もうお年玉になるかな。お前に似合うと思ってさっき買った。もらってくれないか」
「…」
 葉月は驚いた表情のまま彼を見詰めていたが、やがて何故か寂しげに微笑むと、受け取って口を開いた。
「…ありがとう」
 土井垣は葉月の表情の意味が分からず、思わず声を掛ける。
「もしかして、嫌だったか?もし嫌なら返してくれていいぞ」
 土井垣の問いに、葉月は今度は取り成すように微笑むと、ゆっくりと頭を振って応えた。
「ううん…とっても嬉しいの…でも…こんなに嬉しい事ばっかりでいいのかなって思って…」
「葉月…?」
 土井垣は更に訳が分からなくなる。嬉しいと言っているのに葉月の表情はどこか寂しげで、慰めたくなってしまう様な表情だ。彼女は一体何を考えているのだろう――彼の表情に気付いたらしい彼女は、多少無理があったがぱっと明るい表情を見せると、わざとらしい位明るい口調で問い掛ける。
「ねえ、これ今つけてみてもいいですか」
「ああ、つけた所を俺も見たい。つけてみてくれないか」
「うん」
 そう言うと葉月はサイドの髪を後ろにまとめて髪留めを付ける。思っていた通り良く似合い、土井垣は嬉しくなり彼女に声を掛ける。
「良く似合っているぞ…思った通りだ」
「…ありがとう」
 葉月も恥ずかしそうに笑い、お礼の言葉を言うと、更に口を開く。
「今日…これ、このままつけていようかな」
「そうだな。折角こんなに似合うんだ、つけていて欲しい」
「じゃあ…そうするわね」
 そう言って葉月はまた何故か寂しそうに笑った。土井垣は彼女の表情の意味が分からず不可解な気持ちが拭いきれなかったが、それでもその後は楽しげに笑いながら物産コーナーやショッピングモールで土産物を選ぶ彼女と、その彼女を彩る髪留めを見ているうちにまたどうでも良くなった。二人はお互いに家族などへの土産を買い、また遊覧船に乗って元の場所へ戻るとバスに乗って旅館へ戻った。

 旅館に戻ると葉月は髪留めを外して箱に入れた後丁寧に包んで荷物にしまい、お互い疲れたし寒かったので温泉に入ろうという事になって、二人で大浴場へ行った。お互い別れて浴室に入り、湯船に浸かって身体を温めつつも、土井垣は彼女の様子がおかしい事をふと思い出し、理由を考える。単に二人きりの旅行で緊張しているという訳ではない事は分かっている。しかし昨日の様子と、今日の彼女の様子を見ていると、何故か昔の彼女を思い出し、そしてその事に不安を覚える自分を感じていた。土井垣の気持ちが信じられず、自分自身を追い込んでいた彼女。その後ある出来事の後、彼女は自分の気持ちを信じられる様になり、自分達はうまくいっていたはずだ。なのに、自分の想いを信じられなかった頃に戻った様な彼女の態度と、それに不安を感じる自分は何なのだろう――考えている内にのぼせそうになって、彼は風呂から上がると、浴衣に着替えて廊下に出る。廊下では彼女が浴衣に着替えてもう待っていてくれて、また二人で部屋へ戻った。部屋へ戻ると彼女がお茶を入れ、二人はぎこちない雰囲気を感じながらも、今日の楽しかった事を話しながらお茶を飲んでいた。やがて運ばれてきた夕食をとり、ルームサービスの酒を二人で飲んで、土井垣はお互いのぎこちない雰囲気をそれとなくなくそうとしたが、どうしても彼女の方が壁を作っている感じがして、彼は彼女に近づけないものを感じていた。そうしてまた布団が敷かれ、ぎこちない雰囲気が更に強まったのを感じ、彼はそれを何とか打破したい思いと、自分の中の不安をかき消したい気持ちに駆り立てられ、強引に彼女を抱き寄せると、布団へ押し倒した。彼女は彼に押さえつけられながらも、必死に抵抗する。
「葉月…!」
「嫌…っ!」
 土井垣は更に強引に葉月に口付ける。彼女はそれは受けたものの、それでもそれ以上は嫌だという様に抵抗を続ける。土井垣は強引に彼女を押さえつけながらも、彼女の頑なな態度がどうしても理解できずある種の哀しさを感じ、彼女に問いかける。
「何故だ?どうしてこんな風になるんだ?…お前と俺は…こんな仲だったのか…?」
 土井垣の哀しげな言葉に、葉月は抵抗をやめて涙を零すと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「そうじゃ…ないの…でも…どうしても…駄目なの…ごめんなさい、将さん…」
 葉月の涙に、土井垣は自分のした行動が彼女を傷付けかねない事に気付き、彼女を解放する。彼女は慌てて彼から離れると、彼に背を向け、身づくろいをした。彼はゆっくりと彼女の背中に謝罪の言葉を紡ぐ。
「…すまん…」
「ううん…あたしこそごめんなさい…あたしだって…将さんの気持ちは分かってるし、本当は将さんを受け入れたいの…でも、今のあたしは…どうしても将さんを受け入れられないの…ごめんなさい…」
 そう言って葉月はまた涙を零す。泣いている彼女が見ていられなくなり、土井垣はそっと近付くと彼女をゆったりと抱き締める。抱き締められて彼女は怯えた様に身体を震わせたが、彼はそれを宥める様に髪をすき、優しく声を掛ける。
「大丈夫だ…もう、何もしないから…」
「ごめんなさい…」
「もう…いいんだ。俺はお前を怯えさせたくない…」
 涙を零し続ける葉月を向き直らせてその涙を土井垣はそっと拭うと、優しく口付ける。彼女は今度は抵抗しなかった。唇を離すと、彼は優しい口調のまま口を開く。
「さあ、もう寝よう…明日はお前の楽しみにしていた駅伝だ。早起きしないとな」
「…ん…」
 葉月が頷いたのを確かめて、土井垣は電気を消すと、二人はそれぞれ布団に入る。気まずくなった事を気にしながらも疲れが出たのかその内睡魔が襲ってきて、彼は眠りに就いていた――

 ――土井垣はゆっくり眠っていたが、ふと何か音が聞こえた気がして、不意に目が覚める。まだ夜中なのに何で目が覚めたのだろうと思いつつ隣を見ると、葉月が布団から消えている。どこへ行ったのかと思いつつ起きていると、どのくらい時間が経っただろうか。また音がして、彼女が布団に戻ってくる。彼は寝た振りをしてそれを感じ取っていたが、やがて寝息が聞こえて来たのを確認して彼女をそっと覗き込む。すると、彼女の目に涙の跡が残っているのが暗がりにぼんやり見えた。
『葉月…どうしたんだ?』
 葉月の涙の跡の意味を図りかね、土井垣は不可解に思いながらも、彼女が痛々しくも思え、頬にそっとキスをする。
『…何だか、この旅行はお前を悲しませてばかりだな…すまん』
 そんな事を思いながら土井垣はまた自分の布団に入ると再び眠りに就いた。