彼は湯船で玲子の言葉を反芻しながら、彼女がどうしたらいつもの幸せを実感してくれる彼女に戻ってくれるか考える。考えるがどうしても思い浮かばない。色々考えている内に彼はのぼせてきた。倒れてはまずいと慌てて湯から上がると、待っていた葉月がその様子を見て、心配そうに彼を見詰める。彼は取り成す様に笑って、ふらふらする頭を何とか持ちこたえさせて部屋へ戻ったが、部屋へ辿り着くなり倒れこんでしまった。彼女は彼の様子にびっくりすると、慌てて彼に声を掛ける。
「将さん…!将さん…大丈夫ですか?私の声、聞こえますか?」
「あ…ああ…大丈夫だ…ちょっと湯当たりしただけだから…」
そう言って起き上がろうとする土井垣を葉月は制して、声を更に掛ける。
「起きちゃ駄目です。今風通しのいい所へ連れて行きますから…ごめんなさい」
そう言うと葉月は土井垣を引きずって、露天風呂の見える廊下に連れて行くと少し窓を開けて、土井垣の浴衣の帯を緩める。
「とにかく静かにして、水分を取らないと…そうだ、飲みかけですけどこれ飲んで下さい」
そう言うと葉月は土井垣を膝枕し、自分が飲んでいたスポーツドリンクを少し彼の口に運ぶ。土井垣は口に入ってくる液体を飲み込むと、少し身体が楽になった。自分に対する想いへの不安を持っているのに、こうして心底彼を心配してくれる彼女の気持ちが嬉しくて、そして彼女の想いのこもった心遣いを受けている内に、彼女がどういう思いでこの三日間を過ごしていたのかを本当の意味で考えず、ただ自分だけの想いをぶつけていた事が申し訳なくなって、彼はいつの間にか言葉が零れ落ちていた。
「葉月…」
「…何ですか?」
「…すまん」
「…え?」
訳が分からず問い掛ける葉月に、土井垣は聞かせるともなしに心の言葉を零していく。
「俺は…俺だけの気持ちで走っていたんだな…お前がこの旅行をどういう気持ちで過ごしていたのか考えもせずに…」
「将さん…」
「でも、そんなお前だから…俺の気持ちを…真っ直ぐに言う。…俺は…お前との仲を確かなものにしたかったから…この旅行に来たんだ…もう口約束だけじゃない…秘密でもない…ちゃんとした形を持った事実にしたくて…」
「…」
「結婚していようがいまいが関係ない…お前は…俺の大切な恋女房だ…いや…もう少し…後投手陣が固まったら…名実共にお前を女房に迎えるんだ…信じてくれるか…?」
土井垣の言葉に、葉月はしばらく黙り込んでいたが、やがて一筋涙を零しながらも優しく微笑むと、ゆっくりと言い聞かせる様に彼に話しかけた。
「…ん…だから今はもうしゃべらないで…具合を良くする事だけ考えて…」
「…ああ」
二人の間に沈黙が訪れる。そうして心配そうに自分に風を送りながら、時折スポーツドリンクを口に運んでくれる葉月が傍にいてくれる事に、土井垣は湯当たりしたのは恥だと思いつつも、幸せな気持ちになってくる。やがてそうしてどれだけ時間が経っただろうか。大分楽になり、彼はゆっくり起き上がる。
「…もう大丈夫だ。…ありがとう、葉月」
「ううん…良かった。具合が良くなって」
そう言ってにっこり微笑む葉月に、土井垣は赤面しながら更に言葉を重ねる。
「それで、さっきの言葉だが…湯当たりの戯言じゃないからな。全部…本気だ」
「…ん」
「最初から…こう言えば良かったんだな…お前が不安を感じていたのは気付いていたのに、俺は何もしなかったどころか、自分の不安をなくすために、自分の気持ちだけ押し付けようとした…本当にすまなかった…」
そう言って頭を下げる土井垣の頭を葉月は上げさせると、頬を手のひらで包み込んでそっと唇を合わせる。驚く彼に彼女は唇を離してふわりと微笑むと、優しく言葉を紡いだ。
「もう…いいの。大晦日からずっと将さんと過ごしてきて、あたしはどれだけ将さんの事を想ってるのか…それからさっきの将さんの言葉もちゃんと心に響いて重なって…将さんがどれだけあたしの事を想ってくれてるのか…ちゃんと分かったの。だから…あたしこそごめんなさい。自分勝手に不安になって…」
「…いいんだ。そういうところもひっくるめて、俺はお前に惚れている…そう言っただろう?」
「…そうだったわね」
土井垣は葉月を抱き締めると、今度は自分から彼女に口付ける。彼女もそれに応え、やがて唇を離した後、彼は彼女に優しく言葉を掛ける。
「もう最後の夜だが…やっと…二人で旅行に来たという感じだな」
「…そうね」
そう言うと二人は顔を見合わせて笑う。そうしていると食事が運ばれてきて、二人はお互い幸せを噛み締める様に料理を口にし、酒を酌み交わした。食事が下げられ、布団が敷かれても、今度はもうためらう事はなかった。二人は縁側で寄り添いながら夜空を眺め、お互いに求め合い、肌を合わせ、幸せな眠りに就いた。
翌朝、今度は山下りを観に二人は沿道へ足を伸ばす。勢い良く山を下って行くランナーにまた声を上げ応援した後、二人は遅い朝食をとり、チェックアウトした。帰り際、玲子が二人に声を掛ける。
「うん、いい旅行になってくれたみたいね。嬉しいわ」
そう言って微笑む玲子に、二人は照れ臭いながらもお礼を言う。
「ありがとうございました、玲子さん」
「ありがとうございました、女将」
「また機会があったら来てね。待ってるわ」
「はい」
二人は土井垣の運転で旅館を後にした。またカーステレオを掛けながら、二人は照れ臭そうに話をする。
「色々ありましたけど…楽しかったですね」
「そうだな」
「…また…二人で旅行…しましょうね」
「…ああ、今度は自分達で予定を立ててな」
「…うん」
そうして暖かな沈黙が二人に訪れる。しばらくの沈黙の後、葉月が思い出した様に口を開く。
「そうだ、お正月と駅伝の渋滞で大変かもしれませんけど、帰りがけにうちと将さんの家に寄って行かないと。新年の挨拶、ちゃんとしないと駄目ですよね」
「…ああ、確かにそれが正しいんだろうが…何だか気恥ずかしいな…」
「…そうですね」
お互いの家に行った時の事を考えて、二人は顔を赤らめまた沈黙する。そんな沈黙をカーステレオが彩りながら、二人は車を走らせて行った。