そして夜が明け、二人は更に気まずくなったままお互いに身づくろいを済ませ、朝食をとると、テレビをつけ箱根駅伝を見始める。駅伝を見始めると、気まずさを忘れたかの様にテレビ越しに躍動するランナーを見ながら葉月は目を輝かせ、自分の出身校である東海大学を応援しつつも、レース展開にはしゃいでいた。
「嘘ぉ!東洋が2位キープしてる!お父さん大喜びだろうな~」
「そうか、お父さんは東洋大出身だったな。早稲田も東洋大と競っているから文乃さんも喜んでいるだろう。東海大は1位じゃないか。嬉しいか?」
「うん、最高!…でも神大はどうしちゃったんだろう、最近勢いがないなぁ」
「ふむ…駅伝の不思議があるな」
「そうね」
 そうやってテレビ観戦をして、入生田を先頭のランナーが過ぎた辺りで、彼女が立ち上がる。
「さあ、そろそろ行かないといい位置取れませんよ」
「そうなのか?」
「はい。大体どこの沿道でもどこかの大学のOB会の応援団が陣取ってるし、早く行かないと、いい所取られちゃって観られなくなるんですよ」
「ほう」
 土井垣は横浜出身とはいえ箱根駅伝を沿道で観戦した事がないので、こうした知識はない。改めてこの駅伝のすごさを感じつつ、彼女に連れられるまま沿道へと向かった。沿道へ行くと、もうかなりの人数が集まっていて、二人は配っていた旗を受け取りながら間に紛れる様に沿道がすぐ見える場所を確保する。そうしてしばらく待っていると、報道車の一端らしき車が『もうすぐランナーがやって来ます。温かい応援をお願いします』と応援の注意をしながらアナウンスしていき、それからしばらく待つと、報道車と共に1位に巻き返してきた順天堂大学のランナーが山道をものともしない軽快さで走ってくる。彼女は声を上げて応援をしていた。やがて次々と各校のランナーが走ってくる。軽快に走っているランナーもいれば、デッドヒートを繰り広げつつも足取りの重いランナーもいる。しかしそれぞれの一生懸命な走りに、土井垣もいつの間にか声を出していた。そうやって一生懸命応援をして、全てのランナーが通り過ぎた後、お礼のアナウンスをかけた車が走って行ったのを確認して二人はまた部屋へ戻って観戦する。1位は順天堂大学で変わらないままの上、ランナーは区間新記録を出してゴールインした。彼女は感嘆した口調で口を開く。
「あんなに軽々箱根の山登りをしてるのを観たのは十年近く前の神大の一年生以来ですよ」
「そうなのか?」
「うん。しかもその一年生、翌年には普通になっちゃってたし。何年もあれが続いてたあの人、すごいですよ」
「ふむ…」
 そうして次々とゴールインしていくランナーを見ながら二人は色々と話していた。そうして中継が終わった後、二人はお昼を何も食べていなかった事に気付き、旅館の中の喫茶室で軽食をとった後、何となく周辺を散歩した。たとえ彼女に触れられなくても、こんな風に二人で何でもなく過ごせる時間が嬉しくて、土井垣は葉月を引き寄せる。彼女はしばらくためらっていたが、やがて彼の腕にそっと寄り添った。そうして二人でありふれた、でも少しぎこちない時間を過ごした後、また外気に触れて冷えたので夕食前に身体を温めようと二人で大浴場へ行く事にした。そうして二人が大浴場へ向かう途中で、不意に玲子が二人を呼び止める。
「土井垣さん…だったわね。ちょっといいかしら」
「え?葉月じゃなくて…自分に何か用なんですか」
「ええ…ちょっとね。葉月ちゃん、彼、借りていい?」
「ああ、はい…じゃあ私先にお風呂行ってますね」
「ああ、後でな…じゃあ女将、行きます」
 土井垣は玲子に促されるままスタッフルームへ案内される。彼女は部屋にいたスタッフに席を外す様に頼むと鍵を閉め、彼を座らせると、厳しい口調で彼に問い掛けた。
「土井垣さん、あなた葉月ちゃんに何したの!?」
「え?」
「昨日夜中に葉月ちゃんここへ来てね、『旅行に来るまでは、二人で過ごせるのが嬉しいだけしか考えなかったのに、いざこうして過ごしてたら嬉しいのに哀しいし、あなたの気持ちを受け入れたいのに受け入れられなくって辛い』って私の前で泣いたのよ!?」
「やっぱり…泣いてたんですか」
「分かってて何でフォローしないのよ。葉月ちゃんが幸せになる度、その幸せを壊そうとする深い『傷』があるって、こうして旅行に来れる位の仲のあなただったら知ってるでしょう!?」
「女将…それを何で…」
 玲子が葉月の『秘密』を知っているらしいと察し、土井垣は絶句する。絶句する彼に、彼女は小さく溜息をつくと、ゆっくりと話し始めた。
「あなたになら言ってもいいわね。…葉月ちゃんが遭った『事件』は、弥生ちゃん含めて演研で彼女を知ってる人間の間では周知なのよ。そうなってるのを知らないのは、当の葉月ちゃんだけ」
「そうだったんですか。でも、何で…」
「簡単な話よ。葉月ちゃんはね、古城に入学してきて演研には自分から入ってきたけど、入って来た最初はどこか魂が抜けてる様な…何かを見ていても何も見ていない様な雰囲気を持った娘だったわ。それに男の人に…同級生はもちろん、先輩やOBも、何より先生に…ものすごく怯えてたわ。確かに古城の先生は変わった人が多かったけど、人畜無害なうちの顧問の岩瀬先生にまで怯えてたしね。普通に話ができた男の人は幼馴染のうちのOBだった柊司君と、その時三年生で自動車部にいた秋山君…あなたも知ってる隆君の旧姓よ…だけ。その二人ですら急に近付くと怖がってたのよ。それを見てれば、何かおかしいのはすぐに分かるわ。それで、皆で事情を知ってるらしい柊司君を締め上げて白状させたって訳。…理由が分かってからは、それとなく皆で葉月ちゃんが不安をなくせる様にフォローしていったわ。そうやっていく内に段々彼女も周囲を受け入れて、今みたいな明るい娘になっていったけど、そうなるまではかなり時間がかかったわね…」
「…」
 そう言うと玲子は当時を思い出したのか虚空を見詰める。土井垣は何も言えずに彼女を見詰めていた。彼女は更に続ける。
「そんな葉月ちゃんだったし、皆がフォローしてた中でも一番しっかり葉月ちゃんを守ってたのは柊司君だったから、葉月ちゃんは柊司君とくっつくものだって皆思ってたのよ。葉月ちゃんも柊司君に一番素直な姿を見せてたし、もう一人素直に接してた秋山君の方は、今現在見えてる通り宮田さん…つまり葉月ちゃんのお姉さんね…にベタ惚れだったしね。それが蓋を開けてみたら、今回あなたって言う人を連れてきた。これがあなたにとっても、葉月ちゃんにとってもどういう意味を持っているか…これだけ言えばもう分かるわよね」
「…はい」
「さっき言った通り葉月ちゃんは幸せになろうとすると、一緒にそれを壊そうとする傷があるわ。だから本当にこの幸せは続くのか、もしかしたら夢なのかもしれない。夢だとしたらいつか夢は終わる、だから夢が終わった後の覚悟をしなければ…って昨日の泣いてた葉月ちゃんからすると思ってるわよ。下手をすると…この旅行が終わったら、あなたとの別れが必ず来る。だから、この旅行は最後の思い出だって自覚して、別れが来ても傷つかない様に自分を守っていなければ…それ位まで思い詰めてる…それももう、分かるわね」
「…はい」
 そうだ、彼女は幸せになる程不安が更に襲い掛かる心を持っているのだ。いくら自分との幸せを信じていても、それは未だに変わっていない。その事を、二人で旅行ができる喜びですっかり忘れていた自分に土井垣は自己嫌悪を感じつつも、玲子のある種冷淡な言葉に、ただ頷くしかなかった。彼女はしばらく沈黙した後、静かに彼に問いかけた。
「…どうする?葉月ちゃんをこのままにして、この旅行を終わらせる?」
 玲子の問いに、土井垣は彼女の心を思い、同時に自分の想いを伝えるために、彼女の目を真っ直ぐ見て、きっぱりと答える。
「いいえ。彼女の不安をなくして、ちゃんと幸せを染み透らせて終わらせたいです。自分は…彼女を愛していますから、彼女には幸せでいて欲しいし…一緒に幸せになりたいんです」
「…そう」
 玲子は土井垣を見詰めると、にっこり笑って言葉を紡ぐ。
「うん、プロ野球選手だって聞いてたからチャラチャラした男かと思ってたけど、ちゃんとしたいい男みたいね。安心したわ。とはいえ今の葉月ちゃんの状態だとかなり難航不落よ。大丈夫?」
「分かりません。でも…最善は尽くします」
 土井垣の言葉に玲子はにっこり笑ったまま更に言葉を紡ぐ。
「正直ね…でも気に入ったわ。健闘を祈ってるわよ」
「はい…でも女将」
「何?」
「葉月の事、良く理解していますね。自分も敵わない位です」
 土井垣の言葉に、玲子はふっと寂しそうな表情を見せると、虚空を見て呟いた。
「そりゃ…ね、かつての恋敵ですもの。嫌でも視界に入れちゃうから理解もするわ」
「『恋敵』…?」
 土井垣は玲子の意外な言葉に思わず問い返す。彼女は虚空を見たまま、静かに言葉を紡いでいく。
「ええ。…とは言っても実際は私の一方的な片想い。『彼』は葉月ちゃんしか見えてなかったし、葉月ちゃんに至っちゃ、私の本当の気持ちにも『彼』の自分に対する恋心にも全然気付かなくて、『彼』には『事件』から立ち直ってからも無邪気に懐いてただけだったし、私の事は『玲子さん、玲子さん』ってOBの中では一番慕ってくれたわ。私の結婚式の時には、『大好きな玲子さんのために』って、柊司君と二人で演研の皆に木遣りを教えて、一生懸命唄ってくれた位よ…彼女らしいわね。でも、そういう葉月ちゃんだったから、彼女に対しての嫉妬と、慕ってくれる気持ちの嬉しさに挟まれて、自分の想いを諦めるまできつかったわ…」
「そうだったんですか…でも自分は葉月の話と今の短い会話でしか女将を知りませんが、それだけでも充分素晴らしい女性だと思う女将程の人に惚れられて、振り向かない男性なんているんですか?」
 玲子の話に土井垣は納得しながらも、ふと更に問い掛ける。彼女はその問いにふっと寂しそうに笑うと、ぽつりと答える。
「褒めてくれてありがとう…でもいたのよ、『たった一人』ね」
「それは…一体誰なんですか?」
 土井垣は問うてはいけない問いだと思いつつも、思わず問い掛けてしまった。玲子はその問いに、更にふっと笑って言葉を重ねる。
「分からないかしら…?…ならこれは昔話よ、だから内緒。…まあ葉月ちゃんにあなたって人ができて、今の『彼』も昔の私と同じ様に苦しい思いをしてるから、ちょっとざまあ見なさい、なんて思っちゃう私も結構意地悪ね…さあ、昔話はおしまい。あなたが考えるべきは今よ。行きなさい」
 そう言うと玲子は土井垣を送り出した。