――その屋敷には決して開かれる事のない部屋があった。そして、その部屋にはある男によって甘やかで、そして哀しい記憶が封印されていた――


 少年は母を知らなかった。父に母の事を尋ねても『少年がごく幼い頃に死んだ』と言うのみで、彼を母の墓地に連れて行く事はおろか、彼の母がどの様な人物であったかすらも語る事はなかった。それだけではなく、写真の一枚位残っていてもおかしくない筈なのに、広い屋敷のどこを捜しても少年の母親に関する物は一切見つかる事がなかった。まるで母親など初めから存在しなかったかの様に。

 その内に少年は奇妙な事に気が付いた。屋敷に決して開けられる事がない部屋が一室あったのだ。この部屋の扉の鍵が何処にあるのか、そして中に何があるのかを尋ねても誰も知らない。いや、知っていても知らない振りをしている様にも感じた。

――ここに母の何かがあるのかもしれない――

 それから少年は何とか部屋に入ろうと家人の隙を見計らっては開ける努力をしたが、何をしてもその扉が開く事はなかった。そしてある日、扉を開けようとしていた所を父に見られてしまった。父は鋭い眼差しで少年を見ると、彼がドアにかけていた手を乱暴に掴みんで引きはがした。
 「…い、痛い!放してよ!」
「何故この部屋を開けようとした」
 少年の手首を掴んだまま、冷たい口調で父が尋ねる。少年は自分に厳しい父に対する反発もあり、彼に食ってかかった。
「ここに一体何があるの?僕はそれが知りたいんだ。もしかして…母さんの物があるんじゃないの?」
 少年の言葉に父親は一瞬動揺する素振りを見せたが、すぐに表情を戻すと冷たい口調のまま口を開く。
「お前は知らなくていい事だ。…もういい」
 そう言うと彼は手を放し、少年に背を向け歩き出した。
「父さん、答えてよ……父さん!」
 少年が父親を引き止めようとその背に向かって声を掛ける。その言葉に彼は立ち止まると、少年に背を向けたまま口を開いた。
「…いい機会だ。明日から訓練を始める」
「父さん…」
「これからお前が一人前の超人になるまで、親子の情など入る余地はなくなる。母親の事など忘れるのだ。いや…父親もだ。これからは親子であって親子ではないのだからな。…いいか、親など初めからいないと思え!」
「…」
 そこまで言うと彼は少年を残して去っていった。彼はいつも少年に対して厳しかったが、少年は厳しさの中にもふとした彼への態度やさりげない気遣いに気付いていて、その中に父としての優しさを感じていた。しかし今の彼からはその優しさも感じられない。冷え冷えとした孤独感にさいなまれ、少年はその場に立ちつくした。

「…おや、坊っちゃま」
 その夜、少年は執事であるハンスの部屋のドアをノックした。彼は以前から寝付けない夜などは、よくこっそりハンスや彼の孫であり、親友でもあるエルンストの部屋に行って夜を明かす事があり、この日も父親の一言が気になっていた彼は寝付けずにハンスの部屋へ行ったのである。主人から訓練が始まると聞いていた老執事は少年が部屋へ来る事を予測して起きており、すぐにドアを開けると彼を部屋へ招き入れ、椅子に座らせた。
「さあ、どうぞ。体が暖まりますよ」
 ハンスはお茶を入れると少年に勧め、彼の差し向かいに座る。
「明日から訓練だそうですね…おめでとうございます。エルンストも、坊っちゃまが夢の第一歩を踏み出す事を喜んでおりましたよ」
 少年が昔から超人になる事を目指していた事を知っていたハンスは、心から祝福した。しかし、ハンスの祝福にも関わらず少年の表情は沈んでいる。
「どうかなさいましたか?…あまり嬉しくない様ですが」
 沈んでいる少年にハンスが怪訝そうに問い掛ける。少年はしばらく沈黙していたが、思い切ってハンスに尋ねてみた。
「…ハンス、父さんは僕の事をどう思ってるのかな」
「坊っちゃま、なぜそのような事を尋ねるのです?」
「だって…」
 少年は父親に言われた事を話した。ハンスは彼の話をじっくり聞いていたが、その内にゆっくりと口を開く。
「坊っちゃま、超人になるための訓練は大変過酷なものです。そして訓練をつける者はたとえ相手が息子といえども、情に流されてはいけないのです。訓練の苦しさのために、親子の絆が切れてしまう時もあります。その苦しみは…どちらにとっても計り知れません。親子の絆が絶たれる苦しみを味わいたくなかったら、初めからいないと思っていた方がいい…だんな様はおそらくそうおっしゃりたかったのですよ」
「そうかもしれない…でも、どんなに苦しくたって僕は忘れる事なんかできないよ!ハンス…じゃあ父さんは…僕が父さんの子供だって事忘れるの?そうできるの!?それに…母さんの事だって…」
「坊っちゃま…?」
 少年はあの時の父の言葉と態度を思い出し、唇を噛んだ。
「あんなに簡単に…何でもないみたいに『忘れろ』って言えるなんて…父さんは母さんの事を忘れてしまったの?…父さんは…母さんが好きじゃなかったの!?」
 泣きじゃくる少年をしばらく見つめていた老執事は、席を立ち少年の体をそっと抱き締めると、優しく言葉を返す。
「坊っちゃま…そんなことはありません。だんな様は坊っちゃまの事も…もちろん亡くなられた奥様の事も、愛しておられますよ」
「でも…」
「まだ坊っちゃまには分からないかもしれません。…でも…いつかだんな様のお気持ちが分かる日が、必ず参ります」
「ハンス…」
 ハンスは微笑んで少年を見つめる。少年も涙を溜めた目で彼を見つめていたが、やがて彼の気持ちを察し精一杯の笑みを見せると、老執事の胸に顔をうずめた。少年はしばらく彼の胸に顔をうずめていたが、顔を上げると思い切ってもう一つの疑問を尋ねてみる。
「ねえ、ハンス」
「何ですか?坊っちゃま」
「あの部屋…あの開かない部屋には…何があるの?」
 少年の言葉にハンスはハッとする。彼はしばらく迷う素振りを見せていたが、沈黙の後申し訳なさそうに応えた。
「申し訳ありません。…私からは申し上げる事ができません」
 執事として主や仕事に忠実なハンスが、決して隠し事やごまかしをしない事は少年も良く分かっている。その彼が隠そうとするという事は余程の事なのだろうと少年は察した。これ以上聞くのは彼に対して悪いと思い、少年は頷いた。
「そう、分かった…もう聞かないよ、ハンス。じゃあ、僕部屋に戻る」
「明日から早うございます。ゆっくりお休みなさいませ」
「うん。じゃあお休み、ハンス」
 少年はハンスの腕からすり抜けると部屋を出て行った。老執事は彼が出て行くと椅子に座り、しばらくぼんやりと何かを考えていたが、やがて虚空を見詰めたまま呟きを漏らした。
「あの部屋の扉は、いつか開かれなければなりません。…そしておそらく開かせる事ができるのは、坊っちゃま…あなたです」