翌朝から少年の想像を絶する様な訓練が始まった。基礎体力作りから始まり、瞬発力、持久力、筋力と、あらゆる身体能力を高めるために少年の体力の限界をはるかに越えるメニューが課される。訓練を始めた当初の彼は夜屋敷に帰り泥の様に眠れればいい方で、限界を越えた疲労と張り詰めた精神状態のあまり逆に眠れない事もしばしばだった。また彼は訓練の合間に戦闘超人としての心構えや戦略から歴史、文学、芸術と様々な知識を詰め込まれた。
 訓練は父が率いていた親衛隊の人間が行う事もあったが、ほぼ父が自ら行った。      元々厳しかった父親は訓練に際してはさらに厳しくなり、少年にはさながら鬼の様に感じられた。しかし少年は父を憎む事はなく、逆に父への信頼を高めていった。どれほど厳しくされても、鬼の様に見えても、少年は父の厳しいまなざしの奥に自分がこの訓練に付いて来るはずだという父の期待を感じていた。そしてそれは父も自分と同じく親子としての情を断ち切ってはいない、そして決して断ち切ろうとしていないという確信に変わる。その確信が鬼の様な厳しさを見せる父に対する憎しみの代わりに、自分を信頼してくれる父の期待に応えたいという思いを植え付けていったのだ。父の期待に応えるためにも一人前の超人になる―その思いのまま訓練に励むうちに、いつしか母の事を知りたいと思う心やあの部屋に対するこだわりは心の奥底にしまわれていった。
 そして数年が過ぎ、立派な青年に成長した少年は普通よりも早く一族の証である髑髏の徽章を与えられた。これにより少年は長年の夢であった超人としての人生を踏み出したのである。そしてドイツ内外でも期待のルーキーとしてデビューが待たれる身となっていた。

「おい、デビューが決まったんだってな」
 少年の親友であり今では祖父について執事見習いとなっているエルンストが、成長した少年―今はブロッケンJr.と呼ばれる身になっていた―に声を掛ける。ブロッケンJr.は読んでいた本から顔を上げる。
「ああ、今度開催される超人オリンピックが終わったらすぐだそうだ。お前、耳が早いな」
ブロッケンJr.の言葉にエルンストは笑って彼の背中を叩く。
「何言ってるんだ。もうとっくに屋敷中の噂になってるぞ。女中連中がお前のデビュー戦を誰が見に行くかで大騒ぎしてるのに気付いてないのか」
「いや、全然」
「…」
 エルンストは溜め息をつく。戦闘超人としても、一族の後継者としても一流だと思う。しかし自分の事に関してのこの無頓着さは何とかならないのだろうかとエルンストは主人であり親友である彼の事をいつも案じていた。気を取り直して彼は口を開く。
「…とにかく、屋敷中の皆がお前に期待してるんだ、負けたりしたら承知しないぞ」
 その言葉には『お前が負けるはずがない』という自信込められていた。ブロッケンJr.はエルンストに満面の笑みを見せる。
「ああ、もちろんだ…そうだ、デビュー戦だが、お前を招待するからルイーゼを誘って一緒に見に来ればいいじゃないか」
「ルイーゼ?確かに一番俺らと付き合いが長いし、あいつも行きたがっていたが…何で俺が誘うんだよ」
エルンストが不思議そうに尋ねると、ブロッケンJr.は悪戯っぽい目で彼を見つめ、からかう様に口を開く。
「だってお前、ルイーゼに惚れてるんだろ?こういう時は親友だろうが何だろうが利用しない手はないぜ」
「…!」
 エルンストは赤くなって絶句する。自分の事に関しては無頓着な割に他人に関しては物凄く鋭い彼に図星を指されて戸惑いながらも、エルンストは『この鋭さをもう少し自分自身に回して欲しいんだがな…』と思っていた。
「どうだ、乗らないか?」
「…折角だが遠慮しておく。…というより、先に招待する人間がいるだろうが」
 エルンストの言葉に、ブロッケンJr.は彼をからかうのをやめ苦笑いをする。
「そうだったな。ハンスには絶対見に来てもらわなくちゃいけなかった」
「そういう事です、坊ちゃま」
「やめろって、ハンスのまねは!」
 祖父である老執事の口まねをするエルンストにブロッケンJr.は笑った。エルンスト自身もおかしくなって吹き出し、明るい笑い声が部屋に響く。しばらく笑った後エルンストが思い出した様に口を開いた。
「そうだ。俺、だんな様に伝言頼まれてたんだった」
「親父がお前に?…珍しいな。それで何だって?」
「『後で部屋に行く』…それだけ」
「へぇ…」
 と、その時不意にドアをノックする音と、『入るぞ』という声。二人は顔を見合わせると、エルンストが慌ててドアを開けに走って行った。
「お待たせいたしました、だんな様」
 ドアを開けるとそこにはブロッケンJr.の父でありこの屋敷の主人であるブロッケンマンが立っていた。エルンストは一瞬のうちに使用人の態度に変わる。この屋敷の主人はエルンストの肩越しに部屋を見渡しながら口を開いた。
「エルンストか。あいつは…ああいるな。悪いが、二人にしてくれないか」
「かしこまりました。では失礼致します」
 エルンストはそう言って一礼すると部屋を出て行った。後に残されたブロッケンJr.は突然の父の来訪にどう振る舞っていいのか分からずとまどい、とりあえずそっけない態度を取る。
「親父…用があるなら俺から出向くのに」
「いや、今回は私からお前の部屋に行くべきだと思ってな」
 そう言うと父は手に持っていたワインとグラスを彼に見せる。
「今夜はお前と無性に飲みたくてな…どうだ」
「親父…?」
 父の態度にブロッケンJr.は奇妙な感情に襲われた。親子としての絆は失っていないが、この様なごく普通の親子としての触れ合いは訓練を始めて以来二人の間からは失われていたものだった。そのはるか昔に失われたものが今ここに戻ってきている―それは嬉しくもありまた居心地が悪くもあった。
「…嫌か?」
黙って自分を見詰める息子に父は問い掛ける。ブロッケンJr.は奇妙な感情を引きずりながらも、父の今まで見せたことがない態度に何故か今までにない親しみを感じた。
「いや…親父から飲みに誘うとは思わなかったから…」
「そうか…」
「とにかく座れよ」
 ブロッケンJr.は父を椅子に座らせると彼が持ってきたワインをグラスに注ぎ、自分も差し向かいに座った。二人は言葉を交わす事もなく、めいめいにグラスを傾ける。何か話したいのだが何を話していいのかが分からない。しかし、ブロッケンJr.はそれでもいい気がした。あの日から失った父との日々が今ここにある―それだけで十分であった。そうしてどのくらい時間がたったであろうか、ふと父が口を開く。
「…お前もこうして酒が飲める歳になったのだな…」
「まあな…俺も親父と酒が飲める日が来るとは思ってなかったぜ」
「そうだな…」
父はそう言うとふっと自嘲ぎみに笑う。ブロッケンJr.も苦笑いを見せ、また穏やかな沈黙が訪れる。しばらくの沈黙の後、今度はブロッケンJr.から話し掛ける。
「…なあ、親父」
「何だ」
「何で急に俺と飲もうと思ったんだ?」
 彼は軽い気持ちで問うただけであったが、父の表情は真剣なものに変わり、彼の目をじっと見つめると口を開く。
「お前もブロッケン一族として一人前の身となった。これから先はお互いに戦う相手としての関わりとなるだろう。その前に父親としてお前に話しておきたい事があったからだ…」
「『話しておきたい事』…?」
 ブロッケンJr.は怪訝そうに父を見詰め、言葉を繰り返す。父はしばらく沈黙していたが、やがて決心したように息子の目を見詰め返すと口を開いた。
「お前の母の事だ…今を逃したら二度と話す機会が無いかもしれないからな」
「親父…」
 その言葉にブロッケンJr.は心がざわめいた。幼い頃ずっと求めていた母の事がやっと聞ける―しかし、口からこぼれた言葉は意外なものであった。
 「…もういいよ、親父」
「もういい…?」
「俺もいつまでもガキじゃない。母さんはもう死んだんだって事で気持ちのケリはついてるよ。俺には親父がいる…それでいいさ」
「そうか…」
 本当は聞きたかった。母がどの様な女性であったか、そして父は母の事を愛していたのか―。しかし父が十数年決して話そうとしなかったという事は何か理由があってのことであろう、だからもう無理に聞くのはやめよう。今父がこうして話そうとしてくれている、それだけでいい――自然とそう思えた。
「それより親父、戦う相手同士でもいい…また一緒に…何回でも飲もうぜ」
「ああ…そうだな」
親子は顔を見合わせて笑った。やっと普通の親子に戻れた気がしてブロッケンJr.は幸せな気分に満たされる。その幸せな気分に身を任せているうちに彼は意識がふと遠くなってきた。
「親父…やく…そく…だ…」
 ブロッケンJr.は目の焦点が合わなくなり、机に突っ伏すと静かな寝息をたて始めた。ブロッケンマンは酔いつぶれた息子を抱きかかえて寝台に連れて行き、起こさないようにそっと寝かしつける。
『酒に弱い所は母親そっくりだな…』
 ブロッケンマンは残りのワインをじっと見詰める。その赤い液体は今まで自分が流してきた血の色に似ている様に感じた。
『ああは言ったものの、もうお前と飲む事はあるまい…』
彼は決心していた。息子が一人前になった今、思い残す事はもうない。自分は今まで流してきた血の報いを受け、愛する者の下へ旅立とうと―だからこそもう一度親子として向き合いたかった。全てを話し、思う存分語り合いたかった。
『結局、何も話す事ができなかったがな…』
 彼は今までの日々が親子の関係を普通とは違うものに変えていた事を感じ苦笑する。そして一気に残りのワインを飲み干すと胸ポケットから紐で鍵を結びつけた女物の懐中時計を取り出した。それは十数年間彼が肌身離さず身につけ続けていたものであった。
『お前のことも結局話してやれなかったな…』
 彼は懐中時計を見詰め、今は亡き最愛の女性に思いを馳せる。幼い頃、息子が母の面影を求めていた事には気付いていた。しかし自分には彼女の事を思い出として語る事ができず、逆にすべてを封印した。封印することによって彼は最愛の者の死という事実から逃げ続けたのだ。しかし逃げたことで息子の母を求めるという当たり前の感情をも封印してしまった。それだけではない。ほんの短い間であったが彼女が彼へ注いだ愛情も伝えられなかったのだ。『もういい』と言った時の息子の表情で彼はその事を痛感する。
『私の弱さのせいであれからお前を、そしてお前からもあれを奪ってしまったのだな…』
「すまん…」
 彼は呟いた。眠っている息子にも、ましてすでにこの世にいない彼女には聞こえないだろう。しかし彼はそう言わずにはいられなかった。彼はしばらく考えると、鎖に結んでいた鍵の紐を解き、鍵をテーブルに置く。
『これがせめてもの償いだ…』
 彼はもう一度寝台に近付くと無邪気な息子の寝顔を微笑みながら見詰める。そしてその額を撫でると呟いた。
「私に似ているとよく言われるが、寝顔はお前にそっくりだよ…アマーリエ…」

 翌朝ブロッケンJr.が目を覚ますと、父はもう部屋にはいなかった。ベッドに寝ている自分に昨夜の事は夢だったのかとも思ったが、テーブルに置きっぱなしになっているワイングラスとボトルが現実だと語っていた。
『親父も自分が持って来たんだから片付けていってくれてもいいのに…』
 そう思いながらテーブルの上を片付けようとした時、彼は昨日までなかったものを見付けた。それはこの屋敷のものであろう鍵。形は古いものであるが、大切にしていた物なのかよく磨かれ、一見すると新品のようであった。
『これは…』
 彼は直感した。この鍵はあの部屋の―決して開く事がなかった部屋の鍵だと。そしてこれは落としたのではなく父が意図的に置いていったのだという事も。では父はなぜこの鍵を置いていったのであろう─―
『親父…俺にあの部屋を開けろっていうことか?』
 昨日の父の言葉を思い出し、彼は迷った。母の事を話そうとした父。それを考えればあの部屋を開ける事に何の障害もないはずだ。しかし、逆にあの部屋を開ける事は今まで必死にあの部屋の事を隠そうとした父を裏切るような気もした。彼はしばらく鍵を見つめていたが、やがて机の引き出しにその鍵をしまう。

――いつか、親父から『部屋を開けよう』そう言われた時にこの鍵は使おう――

 しかし、その日は永遠に訪れる事はなかった。