翌朝ブロッケンJr.とハンスは閉じられた部屋の前に立っていた。ブロッケンJr.はあの日父が置いて行った鍵をハンスに見せる。
「これだろ、ハンス」
「はい、坊ちゃま…確かにこの部屋の鍵です。だんな様はどうしてこれを…」
「多分…自分で開ける事が出来ないって分かってたから、俺に渡したんだよ…」
「坊ちゃま?」
「いや…何でもない」
 ブロッケンJr.が鍵を鍵穴に差し込んで回すと、カチャリという音がして鍵が開いた。扉を開けると十数年間封印されていた部屋は封印されたその日から時が止まっていたかの様に、当時の面影を残して二人の目に飛び込んでくる。
「ここが…母さんの部屋…」
 ブロッケンJr.は部屋を見回す。この屋敷の部屋は良く言えば実用的、悪く言えば無機質な造りだったが、この部屋は違った。壁紙は柔らかな色合い、家具一つ取っても凝った造りで、この部屋を使う人間に対する心遣いが現れていた。彼は部屋を見回すうちに、壁にかかっている肖像画をふと見上げる。
「…母さん…?」
 こちらに向かって微笑みかけている女性は、明らかに昨夜受け取った写真に写っていた女性。流れるような薄い色の金髪にぬけるような白い肌、一番印象的なのは瞳で、蒼みがかった緑の瞳には、画家の苦労が現れていた。
「…写真で見た時もきれいな人だなって思ったが、本当にきれいだったんだな…母さんって」
「はい…おきれいなだけではありませんよ。賢くお優しい方で、使用人達に慕われた素晴らしい奥様でした」
「そうか…」
 ブロッケンJr.は肖像画に向かって話しかける。
「母さん、久しぶりだな。…って言っても俺は覚えてないんだけどよ…今までずっと独りぼっちにしちまったけど、これからはいつでもここで会えるな。…そうだ」
 ブロッケンJr.は胸ポケットから懐中時計を取り出すと、肖像画に見せる。
「これ…母さんに返そうかとも思ったけど、やっぱり俺に持たせてくれよ。母さんにとっても思い出の品だけど、俺にとっても大切な品になっちまったからさ…ごめんな」
 ハンスも肖像画を見上げると、今は亡き主人夫妻に思いを馳せ、涙ぐんだ。
「あれ程愛し合っていたお二人なのに、その愛故に埋葬場所は離れ離れ。…お二人は最後の最後で永遠に引き離されてしまったのですね…」
「いいや、違うぞハンス」
「違う…?」
 涙ぐむハンスにブロッケンJr.は笑いかけると明るい表情で上を指す。
「そんなに好き合ってた二人だ。きっと天上(うえ)で一緒になってるさ」
「そうでしょうか…」
「そうさ」
 ブロッケンJr.は頷くと今は亡き父に思いを馳せる。あの日、『母の事は忘れろ』と言った父。あれは自分自身に言い聞かせていた言葉だったのだろうか。愛する者を失った悲しみに耐えるために、その存在を否定せざるを得なかった父。世間では恐れられていた父だったが、本当は誰よりも情が深かったのかもしれない――

――親父、もう母さんを離すんじゃねぇぞ――


「…さあハンス、母さんの墓に花を手向けに行くぞ」
 ブロッケンJr.は時計を胸ポケットにしまうと母に背を向け、時を超えようやく解放された想いがかすかに残る部屋を後にした。