ブロッケンJr.は目を疑った。超人オリンピックでドイツ代表となった父について親衛隊とともにセコンドについていた彼が見た光景は、それ程彼にとっては信じられないものだったのだ。誇り高く残虐ファイトはしても、反則は決してしなかった父の執拗な反則攻撃、対戦相手であるラーメンマンのそれを超える残虐ファイト、そのラーメンマンにキャメルクラッチによって胴体を引き裂かれる父、降り注ぐ血の雨、ラーメンマンの哄笑――すべてが現実離れしていて信じる事が出来なかった。しかし自分にかかった返り血と観客の絶叫で、すべてが現実だと思い知らされる。父の死を目の当たりにし、彼は泣いた。父を失った悲しみからではない。父らしくない無様な戦い方に対する悔しさ、怒りから彼は泣いていた。
「畜生!」
 彼は悔しさのあまり控室に置いてある父の荷物を壁に叩きつける。
『親父…何であんなわざわざ無様に死にに行くようなマネをしたんだよ…!』
 ひと時暴れてやっとの事で心を落ち着け、床に散らばった父の荷物を片付けていると、彼は散らばった荷物の中に父が持つには似つかわしくない物を見付けた。
『これは…?』
 それは女物の懐中時計。蓋などに細かい細工がなされており、かなり高価な品だという事が彼にも分かった。
『何で親父がこんな物を持ってるんだ…?』
 不思議に思ってあれこれ調べると、裏に『A.S』というイニシャルがあった。父のイニシャルではないという事を考えると、おそらくこの時計の持ち主なのであろう。
「『A.S』…誰だ…?」

 ブロッケンJr.がドイツに戻ると、すぐに父の葬儀がとり行われた。父はせめてものはなむけにと真新しい軍服に身を包み棺に入れられ、代々の当主が葬られる墓地へと埋葬された。当主としてすべての実権を受け継いだブロッケンJr.は父に勝るとも劣らない統率力と実務能力を発揮し、新しい当主として立派に葬儀を取り仕切り、年若い当主と侮っていた一族や親衛隊の心を確実に掴んでいった。そして埋葬の後、一族の墓地など一度も来た事がなかったブロッケンJr.は、当主として一族の埋葬されている位置を把握しようと墓地を歩き回る。一通り把握して帰ろうとした時、彼は墓地の外れに小さな墓石がある事に気がついた。他の墓は夫婦や親子でまとまっていたが、この墓は明らかにどの墓とも離され、むしろ隠される様にひっそりと建っていた。彼は誰が埋葬されているのかと墓碑銘を確認するためにその墓に近付く。墓石の前には日数が経ってしおれてしまっているが、白と分かる野草の花が小ぶりの花束になり手向けられていた。そして墓石に刻まれた名前は――
「『アマーリエ・フォン・ブロッケン』…」
 彼の脳裏にあの懐中時計のイニシャルが浮かぶ。
「アマーリエ…A…まさか…」

 ブロッケンJr.はその夜、真相を聞くためにハンスの部屋を訪れた。老執事は昔と変わらない優しい笑顔で彼を招き入れる。
「坊ちゃま…いえ、もう『ご当主』ですね。失礼いたしました」
「いや、ハンスには『坊ちゃま』って言われる方がしっくりくる。そのままでいいよ」
「そうですか。…では坊ちゃま、当主としての最初の仕事、お疲れ様でございました。その仕事がだんな様の葬儀だった事は悲しゅうございますが…」
「ああ…」
「ただいまお茶でもいれますので、少々お待ちください」
「いや。…それよりハンス、聞きたい事があるんだ」
「はい、何でございましょう」
 ブロッケンJr.は懐中時計を胸ポケットから取り出してハンスに見せる。
「親父が持っていたものだ。…誰のものか知らないか」
「坊ちゃま…」
 ハンスは一瞬驚愕の表情を見せる。その表情から、ブロッケンJr.は持ち主を確信した。
「母さんのものなんだな、ハンス…」
「…」
 ハンスは何も言わない。沈黙している彼にブロッケンJr.はさらに尋ねる。
「…今日墓地を一通り見てきたんだが。…もしかして母さんの名前は、アマーリエと言わないか?」
「坊ちゃま…もうそこまで…」
「…やっぱりな」
「…」
 ブロッケンJr.はため息をついた。ハンスはしばらく沈黙していたが、やがて意を決した様に重い口を開く。
「…だんな様がいらっしゃらない今となっては、私が話すべきでしょう。…お察しのとおり、その時計は亡くなられた奥様の…アマーリエ様のものです」
「そうか。でもこのイニシャルは…」
「結婚前にだんな様が奥様に贈られたものです。結婚前の奥様の名前は、アマーリエ・シェリングと申されました…」
「アマーリエ・シェリング…確かに『A.S』だな。…待てよ」
 何やら聞き覚えがある名前に、ブロッケンJr.は記憶の糸を手繰り寄せる。その結論にたどり着いた彼の表情に驚きの色が表れた。
「アマーリエ・シェリング…天才的な表現力で『ピアノの歌姫』と称えられながら、十数年前突然姿を消して伝説の存在になってる、あのアマーリエ・シェリングか!?」
「はい、そうです。…ではお話しいたしましょうか、お二人のお話を…」
 ハンスはぽつり、ぽつりと話し始めた。
「だんな様は偶然入り込んだ酒場で、奥様に出会いました。だんな様と出会った頃の奥様は、奨学金と酒場でピアノを弾く事で生計を立てている学生で、だんな様はそのピアノに惹かれ、それから度々酒場に足を運ぶ様になりました…」
 ハンスはその頃を懐かしむ様に穏やかな表情で虚空を見詰める。
「酒場に足を運ぶうちに、だんな様は奥様のお客に見せる笑顔や心遣いと時折見せる意思の強さに、奥様もだんな様の誠実さに惹かれ、お二人は愛し合う様になりました」
「それで…母さんは親父の援助でも受けて、ピアニストになったとか?」
「いいえ!奥様はその様な方ではございません!…確かにだんな様はそれを望みましたが、奥様は決して受け入れませんでした。…奥様がピアニストとして大成なさったのは、すべて奥様自身のお力です!」
「…」
 ハンスは厳しい表情でブロッケンJr.を見詰める。その表情に彼は気圧された。ハンスは表情を元に戻すと続ける。
「奥様はある公演でその表現力を認められ、ピアニストとしてデビューし、瞬く間に第一線で活躍する様になり…その頃すでに超人レスラーとして確固たる地位を確立していただんな様は、奥様に求婚しました。しかし、貧しい庶民の出だけではなく孤児である奥様とだんな様の仲を一族の者達は許さず…世間もその残虐ファイトから『ドイツの鬼』と呼ばれ恐れられていただんな様と『ピアノの歌姫』と称えられ愛されていた奥様の結婚を許さなかったのです…」
「それで親父達は…?」
「お二人はお互いの身を案じて一度は泣く泣く別れ、だんな様は他の女性との結婚を決めましたが、やはりお二人は離れられず…結局だんな様は婚約を破棄し、周囲の反対を押し切って奥様と結ばれたのです…」
「そうか…そんな騒動があったのか。親父も結構隅に置けないな」
「そうですね」
 感心するブロッケンJr.を見てハンスは微笑む。が、その表情がふと翳った。
「しかし、考えてみればこの頃がお二人にとって、一番お幸せな時期だったのかもしれません…」
「ハンス…?」
「結婚して間もなく奥様は坊ちゃまを身ごもりましたが、それが分かった直後の公演を最後にピアニストとして急成長していた時期であった筈なのに突然表舞台から身を引き、その後は決して表に出ようとはしませんでした。…周囲がなぜかと尋ねると、『今は1秒でも長くだんな様の傍にいたいから』…そうおっしゃっていました」
「でもそれだけ騒いで結婚したんだ。それ位言ってもおかしくないんじゃないか?」
「確かに…ただ聞けば幸せの絶頂から来る言葉だと思うでしょう。…しかしこの言葉は、そうした意味ではなかったのです」
「どういう事だ…?」
「…奥様は隠していらっしゃいましたが、元々体が弱かった奥様は苦学生の頃の無理と結婚前後の心労が祟って心臓が弱り病に冒され、相当お悪い状態だったのです…」
「何だって…!?」
 ハンスは当時の事を思い返したのか痛々しげな表情を見せ、更に続けた。
「出産すれば子供どころか奥様の身体すら危ないと知った私は、奥様に子供を諦める様に申し上げました。しかし奥様は微笑んでこうおっしゃいました。…『私はあの人にあの人を愛した証を残したい。私はもう長くないでしょうから』と」
「…」
「そして奥様は坊ちゃまをお産みになりました。奥様の祈りが通じたのか、元気な赤ん坊で…奥様も奇跡的に持ち直され、2年後に病が再発し亡くなられるまで、毎日病院や孤児院では勿論、何よりだんな様と坊ちゃまのために歌を歌い、ピアノを弾いておられました…」
 ブロッケンJr.は何も言えずに立ち尽くす。ハンスはほっと息をつくと椅子に腰を下ろした。
「奥様が亡くなられて、だんな様は葬儀も取り仕切れないほど憔悴してしまって…一族の者が代わりに葬儀を行ったのですが、一族は決して奥様の事を許していなかったのですね。…あの様な寂しい場所に奥様を埋葬してしまい…気がついただんな様が何を申し上げても、決して墓を移させませんでした」
「そうか、それであんな所に…」
「はい。…だんな様は長い間、暇を見付けては奥様の部屋で時を過ごす日々を送っておりました。しかしだんな様は、奥様が亡くなられた悲しみに耐えられなかったのでしょうね…ある日突然、奥様の部屋に鍵をかけてしまいました。…だんな様は部屋を閉じる事で全てをなかった事にしたのです。…そう、『始めから妻などいなかった、自分は誰も愛さなかった』…と」
 そこまで言うとハンスは沈黙する。ブロッケンJr.はしばらくハンスを見詰めていたが、やがてその肩をそっと叩いて労りの言葉を掛ける。
「ありがとうハンス。辛い事を聞いて悪かったな…」
「いいえ、いつかは話さなければならなかった事です。…坊ちゃまのおかげで、永年の重荷がやっとおろせました…しかしこの時計を持っていらしたという事は、やはりだんな様の心には、常に奥様がいらしたのですね…」
「そうだな」
「そうです坊ちゃま…あれを差し上げましょう」
 ハンスはソファから立ちあがると、本棚の所へ行きアルバム取り出す。そして一枚の写真をブロッケンJr.に差し出した。
「だんな様は奥様の写真をすべて焼いてしまったのですが、私が一枚だけ抜き取り残しておきました。これを坊ちゃまに…」
「ハンス…」
 ブロッケンJr.は写真を受け取る。少し古ぼけたモノクロの写真には、赤子を抱いた女性と若い頃の父が、幸せにあふれた笑顔で写っていた。
「親父…母さん…」
 ブロッケンJr.の胸が熱くなる。自分は直接には何も知らない。しかしこの写真から、二人がどれだけお互いを愛していたかが分かる気がした。そして両親がどれだけ自分を愛してくれていたのかも――彼は写真を見詰めながら口を開く。
「ハンス…明日あの部屋を開ける」
「坊ちゃま…でも鍵はどこにあるのか…」
「鍵は俺が持ってる。親父が俺にくれたんだ…あの部屋を開けろって」
 彼は確信した。父はあの部屋を開けて欲しかったのだ。自分に母の事を伝えるために、そして封印しつづけた自分の想いを解放するために――それが父の望みなら、もう迷いはない。
『親父、あんたの願い…叶えてやるよ』