真夏の夕刻、小次郎は土井垣のマンションに向かっていた。土井垣が女性と付き合っていると聞いて興味が湧き、その女性に会わせろと渋る土井垣にしつこく言い募り、今日小次郎が遠征に東京へ出てきたのを機会にやっと酒盛りがてら会う事になったのだ。初めてその女性の事を土井垣から聞いた時、自分の知っている土井垣が好みそうな女達とはあまりに違う雰囲気を感じた小次郎は、その当人に会えるのが心底楽しみだった。マンションに着き、オートロックのドアを開けるためインターホンを鳴らすと聞き慣れた『はい』という声が聞こえてくる。『俺だ、開けろ』と小次郎が答えると『小次郎か、今開ける』という答えとともにドアが開く。小次郎が入ると閉まる直前にもう一人人間が駆け込んで来た。ディパックを背負い男物のシャツにジーンズ、キャップを目深に被っているが、小次郎の肩くらいまでの身長に細身の体型と、一つにまとめた腰まである髪から女性だと予測する。二人で無言のままエレベーターに乗り、小次郎は土井垣の部屋がある階のボタンを押す。しかし『彼女』はボタンを押そうとしない。自分がボタンの側に立っているからかと思った小次郎は気を遣って『何階に行くんですか?』と尋ねてみる。すると『彼女』は俯いてはいたが柔らかなメゾソプラノの声ではっきりと『同じ階ですから大丈夫です』と答えた。その声と返答に小次郎はやっぱり女だったのかと納得して後は黙っていた。そうしてエレベーターを降りて土井垣の部屋へ向かうと、何故か彼女も後ろから付いて来る。何故だろうと思いつつも土井垣の部屋の前に着き、部屋のインターホンを鳴らすとドアが開き、土井垣が顔を出した。
「よお、土井垣」
「よお…なんだ小次郎、葉月と一緒に来たのか」
「何?」
 土井垣の言葉に小次郎が驚いて着いて来た女性の方を見ると、彼女は顔を上げてにっこり笑うと帽子を取ってぺこりと頭を下げ口を開く。
「はじめまして、犬飼さん。宮田葉月です。お会いできて嬉しいです」
「じゃあ…こいつがお前の女なのか?」
「そうだが…なんだ、葉月お前一緒に来たのに挨拶しなかったのか」
「うん、犬飼さんだって分かってたんですけど、どう挨拶していいのか分からなかったからつい黙っちゃいました」
「遠慮せずにどうとでも言ってくれれば良かったのによ、何も言わないで付いて来るから逆に不気味だったぜ」
「すいませ~ん」
 小次郎の言葉に葉月はぺろりと舌を出して首をすくめた。その様子に小次郎は彼女の性格の一端を見た気がして思わず笑みが漏れる。土井垣もその二人の様子に苦笑すると二人を部屋へ招き入れた。部屋へ入ると土井垣が彼女に声を掛ける。
「つまみは作っておいたからな」
「は~い、ありがとう土井垣さん。あ、そうだ。この間のワインは飲んじゃったんですよね。犬飼さんお酒好きだって聞いてたから勝彦おじ様から秘蔵のお酒貰って来ました。後魚屋のおじさんがおいしいマグロの剥身があるよって勧めてきたからおつまみにって思って買って来たんで、冷蔵庫で冷やして下さい」
「ああ、そうか。じゃあ冷やすか…という事は一旦仕事から家に帰ったのか?」
「うん、今日はあおば洗ったから汗だくになっちゃってお風呂入って着替えたかったから」
「そうか、どうりで少し日焼けしている訳だ。今日は暑かっただろう、大変だったな」
「まあ、真冬に洗うよりは今の時期の方が辛くない…っていうか水浴びできて気持ちいいですし」
「それもそうだな」
「何だ?その『あおば』って言うのは」
 二人の会話が分からずに思わず問い掛けた小次郎の言葉に葉月がにっこり笑って答える。
「あおばって言うのはレントゲン車に付けてる名前です。私の仕事は巡回健診の保健師なんですよ。で、用具の手入れとか機械の整備も仕事なんです。今の時期は閑散期ですし水使っても辛くない時期なんでレントゲン車の大掃除をするんです。今日は3台あるうちの1台の掃除をしてたんですよ」
「へぇ…巡回健診ってどういう仕事をするんだ?」
「そうですね…とりあえずお茶でも飲みながら話しませんか?土井垣さん、お茶いれさせて下さい」
「そうだな、いれてくれるか。茶菓子は俺が用意する」
「はい」
「頼む。…じゃあ小次郎、こっちへ来て座れ」
 土井垣は小次郎をリビングのソファに連れて行き、煎餅を持ってきて二人で座る。その間に葉月はお茶をいれる支度を始めた。その様子に小次郎は土井垣を窘める言葉を出す。
「おい、いくらお前の女だからってここはお前の家で彼女は客だろう。茶ぐらいお前がいれてやれ」
 小次郎の言葉に土井垣はふっと笑って応える。
「いや、あいつもお前をもてなしたいんだよ。それに、あいつのいれる茶は最高にうまいぞ」
「そうなのか?」
「ああ」
 土井垣は和やかに微笑みながらキッチンの方に顔を向ける。しばらくすると葉月がお茶を運んで来て土井垣の隣に座ると二人に勧める。勧められるままにお茶を飲んだ小次郎はそのおいしさに思わず感嘆の声を上げた。
「うめぇ…こんなにうめぇ茶飲んだの初めてかもしれねぇ」
「だろう?」
「そんな…あんまりお上手言わないで下さい」
「いや、お上手じゃねぇよ。本当にうめぇ」
「ありがとうございます、私の取り柄ってこんな事しかなくって…」
「何を言ってるんだ。お前は歌の才能もあるだろう?」
「土井垣さん、それはいいっこなしです」
「あんた、歌をやってるのか?」
「あ、ええ…趣味のサークルで合唱をちょっと…」
「へぇ…」
 小次郎の言葉に葉月は恥ずかしそうに応える。そこから二人は話が弾んでいく。小次郎は詳しい自己紹介を葉月にして、葉月は先刻聞かれた彼女の仕事についての話を小次郎にした。
「…へぇ、あちこち外を回って健康診断するだけじゃなくて、準備から事務処理まで全部やるのか」
「はい、さすがに荷物の積み込みは非力だから手伝い程度ですし、レントゲン車の運転は危ないからって免除されてますけど、頚腕とかVDTの時はワゴン車なんで自力で運転したりしますよ」
「男職場だって言ったな。男に混じってそこまでやるなんてすげぇよ。うちのマドンナみてぇだ」
「マドンナさんって、確か犬飼さんのチームにいらっしゃる女性の選手ですよね、あの方の方がすごいですよ。プロスポーツを男性に混じってしているんですから。私なんか大した事ないです」
「いいや、お前は良く頑張ってる。丈夫じゃない上に女性は持たないと言われる位忙しい部署に配置されても泣き言一つ言わないで一生懸命仕事をしているし、沼田さんから聞くとかなり有能だって評価を貰っているらしいじゃないか」
「そんな…土井垣さん、それは沼さんの評価が甘いんですよ」
「でも一生懸命なのは本当じゃないか。お前は偉いよ」
「土井垣さん…」
「…」
 二人の甘くなった雰囲気に当てられて小次郎は何となく言葉が出なくなる。急に黙った小次郎にふと気付いた葉月がそれとなく小次郎に声を掛けた。
「犬飼さん、どうしたんですか?」
「あ、ああ…何でもねぇ。ところでよ、お前ら付き合ってるのに土井垣はともかく何であんたの方はこいつの事名字で呼んでるんだ?」
 小次郎の問いに葉月は苦笑して答える。
「いえ、つい癖で。…二人の時はそれなりに呼びますけど誰か他の人がいる時はいつも私、土井垣さんの事名字で呼んでるんで」
「へぇ、そうなのか。だったら俺の事は気にしなくていいぜ。二人でいる時みたいに呼んでくれた方が気を遣わなくて済むからな。それにそういうのを今日は見に来たんだし」
 にやりと笑って言葉を返す小次郎に、葉月と土井垣は顔を赤らめる。しばらくの沈黙の後、葉月は急に気ぜわしげに立ち上がると口を開いた。
「あ…そろそろ持ってきたお酒も冷えたと思うんで飲みましょう。用意してきますね」
「ああ、じゃあ頼むか。お前は飲めないから麦茶を用意しておいたぞ」
「ありがとう。じゃあ将兄さん、犬飼さんとゆっくりしていて下さい」
 そう言うと葉月はキッチンへ行った。葉月の土井垣に対する呼び方に、お茶に口をつけていた小次郎は思わずむせる。その様子を見た土井垣は小次郎に問いかける。
「どうした?」
「…おい、何だよあの『将兄さん』ってのは」
 小次郎の問いに土井垣は苦笑して答える。
「ああ、あいつは恥ずかしがりやなんだよ。普通に名前を呼ぶのが照れ臭いしらしくて、語呂がいいからっていつもはああ呼んでるんだ」
「お前…本当にそれでいいのか?」
「まあ、呼ぶべき時にはちゃんと『将さん』と呼んでくれるからな。あまり気にならん」
「…」
 ふっと笑って答える土井垣に小次郎は『呼ぶべき時』というのはどんな時なんだと聞きたかったが、聞くのは野暮だと思い至り言葉を失う。そうしていると、葉月が盆に酒とつまみを乗せて持ってきてテーブルに並べると、小次郎と土井垣に酒を振舞う。小次郎は一口飲むとそのうまさにまた感嘆の声を上げる。
「この酒もうめぇ…」
「本当だな。さすが勝彦さんだ。礼を言わないとな」
 二人の言葉に葉月は嬉しそうに応える。
「良かった、お口に合ったみたいで。じゃあ私も一口だけ飲もうっと」
「お前は本当に一口だけだぞ。その代わりつまみを沢山食べろ」
「はぁい」
「何だ、あんた下戸か」
 二人のやり取りに小次郎は葉月に声を掛ける。その言葉に彼女はにっこり笑って応えた
「はい、下戸って訳じゃないですけど私はあんまりお酒飲めないんです。姉や父程は弱くはないんですが」
「ああ、お母さんや隆さんはともかく、文乃さんとお父さんは正真正銘の下戸だったな」
「うん、お姉ちゃんなんかビールコップ三分の一で寝ちゃってるでしょ?父方の親戚はおんなじ様な人多いし、飲めるお母さんとか隆兄もあんまり自発的には飲まないからうちの宴会あの通りお酒ないの」
「それもそうだったな」
 二人のやり取りが小次郎はまた不思議に思え、土井垣に問いかける。
「おい土井垣、お前彼女の家族の事も知ってる…っていうか親戚揃った宴会にまで出た事あるのか」
 小次郎の問いに土井垣と葉月は『しまった!』という表情を一瞬見せ、土井垣がばつの悪そうな表情で答える。
「…ああ。実は結婚を前提にして、もうお互い家族ぐるみの付き合いをしているんだ」
「へぇ…そこまでいっててよく隠し通せてるもんだよな」
「う…」
「はあ…」
 土井垣の言葉に小次郎はにやりと笑う。その様子に二人はまた赤面して沈黙する。何となく居心地の悪い沈黙がしばらく続き、やがて葉月がそれを取り成す様に口を開く。
「ま…まあとにかく飲んで下さい。おつまみもどうぞ…将兄さん、つるとん作ってくれたんですね」
「この暑さでお前の事だから、それ程食べていないと思ったからな。これなら沢山食べられるだろう?」
「うん、ありがとう将兄さん」
「『つるとん』?」
 また分からない言葉が出てきて小次郎は思わず声を上げる。その言葉に葉月はにっこり笑って応える。
「まあ、言っちゃえば豚しゃぶなんですけど、ちょっと一味違うんです…食べてみれば分かりますよ」
「へぇ…」
 葉月に勧められて小次郎は『つるとん』を口に運ぶ。確かに一見普通の豚しゃぶだが、豚しゃぶと違ってつるりと口当たり良く口に入っていく。その口当たりの良さに小次郎は驚いて声をまた上げる。
「何だよこれ、すっげえ口当たりいいじゃねぇか」
「でしょう?私の知り合いの人のオリジナルなんですけど、あんまりおいしいからレシピ教えてもらって、将兄さんにも教えたんです。夏の食欲ない時とかにいいんですよ」
「そうなのか。俺にも教えてくれねぇか?」
「いいですよ。すごく簡単ですからすぐ覚えられます」
 そう言うと葉月はレシピを口頭で小次郎に教える。彼女の言う通り簡単だったので小次郎もすぐに覚えられた。
「ありがとよ。今度俺も作ってみるか」
「どういたしまして。ぜひ作ってみて下さい」
 そこから三人は盛り上がり、酒盛りが始まった。葉月が買って来た剥身もおいしく、酒のおいしさも手伝い小次郎は上機嫌になりながら二人の馴れ初め等を聞く。土井垣は小次郎に酒を勧めつつ自分も飲みながら言葉少なに答え、葉月も相槌を打ちながら用意してもらった麦茶を飲みつつつまみをちょくちょく食べていた。しばらくそうして飲んでいたが、不意に小次郎が思い出した様に口を開く。
「そうだ宮田」
「はい?」
「あんた合唱やってるんだろ?土井垣のさっきの言い方からすると結構上手いみてぇだし、折角だから何か歌ってみてくれねぇか?」
「ええ?」
 小次郎の唐突な言葉に、葉月は困惑した表情を見せる。もじもじしている彼女に小次郎は更に念押しする。
「いいじゃねぇか、何でもいいからよ」
「でも…」
 困惑している葉月に、土井垣も声を掛ける。
「何か短い曲でいいから歌えばいいじゃないか。俺もしばらくお前の歌を聞いてないから聞きたい」
「…」
 二人の言葉に葉月はしばらく沈黙していたが、やがて『仕方がない』という表情をみせて口を開く。
「…分かりました、じゃあ…」
 そう言うと葉月は『エーデルワイス』を原語で歌い始める。小次郎は自分が言い出したものの彼女の歌の見事さに息を呑む。土井垣は優しげな微笑みを浮かべながら彼女の歌に聞き入っていた。歌が終わると小次郎は自然と拍手をしていた。
「すげえ!あんたすげえ歌うまいじゃねぇか!」
「いえ、そんな…」
 小次郎の感嘆の言葉に葉月は恥ずかしそうに微笑む。土井垣は優しげな微笑みを浮かべたまま彼女に声を掛ける。
「さすが葉月だな。でも俺としては『たんぽぽ』が一番好きだがな」
「何でですか?」
「お前が『たんぽぽ』を歌っていると心底楽しげに見えるからな。それに…歌詞はそのままお前だと俺は思っているから」
「…」
 土井垣の言葉に、葉月は顔を赤らめて沈黙する。その様子を見ていた小次郎は訳が分からなくて土井垣に問いかける。
「何だよその『たんぽぽ』ってのは」
 小次郎の問いに土井垣はふっと笑って答える。
「ああ、そういう歌があるんだよ。最近は小学校の教科書にも載っているらしい。俺も彼女と知り合うきっかけになった人達が歌っていて覚えたんだがな」
「へぇ…どんな歌なのか聴いてみてぇな。歌ってみてくれねぇか」
「えっと…じゃあもう一曲も二曲も同じなんでお言葉に甘えて…」
 そう言うと彼女は歌い出した。歌声の見事さもそうだが、今度は歌詞が心に残る。様々な困難に負けず花を咲かせるタンポポを通してひたむきに生きる人間を励ます歌詞の内容に、小次郎は土井垣がこの歌が彼女そのものだという心を思い、何だか赤面してしまう。歌い終わると葉月は恥ずかしそうに頭を下げた。
「やっぱり葉月の『たんぽぽ』はいいな」
「いえ…失礼しました」
 小次郎はしばらく赤面したまま黙っていたが、やがて呟く様に口を開く。
「…土井垣」
「何だ」
「無自覚にのろけるんじゃねぇよ」
 小次郎の言葉の意図を察し土井垣はもちろん葉月も赤面する。小次郎は呆れた様に続けた。
「まったく、毒気抜かれちまったよ。お前らの感じがあんまりあっさりしてると思ったから何か言ってやろうって思ってたのに、本当はラブラブじゃねぇか」
「…」
「…まあ、仲がいい事はいいけどな」
 赤面して沈黙する二人に小次郎はまたにやりとする。小次郎は楽しげに続けた。
「…さあ、飲もうぜ。今日は色々聞かせてもらうからな」
 小次郎はそう言って土井垣に酒を注ぎ、自分もまた飲み始めた。