「…じゃあ、元気でね、真理ちゃん」
「…はい、葉月さんも、弥生先生もお元気で。休みを取ってまで引越しの手伝いにお見送りまでしてくれて、ありがとうございます」
「何言ってるの。あたし達は大切な友人同士でしょうが。門出に祝いに出なくてどうするのよ」
「…ありがとうございます」
「とにかく、あっちに行っても仕事を頑張ってね。それから…『彼』の事もちゃんと決着着ける事。明日は折角のバレンタインだしね」
「…はい」
「夏休みには試合観がてらでも二人で絶対遊びに行くわ。…じゃあ真理ちゃんの前途を祝って、はーちゃんがいるから木遣り…といきたいけどそれはちょっと人数寂しいし、かなり恥ずかしいから…まあ、万歳三唱でもしますか」
 そう言って葉月と弥生はバンザイをしながら真理子を見送った。真理子はそれも気恥ずかしく思いながらも、二人の気持ちの暖かさへの感謝も同時に胸に抱き、飛行機のチェックインをする。最終便の飛行機に乗り、離陸して遠ざかっていく景色を見ながら、彼女はこれから始まる新しい仕事に対して精一杯努力をする決意を固めると同時に、『彼』への想いを貫き通す決意も同時に固める。ここまで来た事を思い出しながら――

「…出向…しかも移籍の可能性あり…ですか」
「ええ。松山の同系列の病院から各病院に支援要請が来たのよ。ベテラン職員が相当辞めてしまって、4月からの新人を育成するのにも支障をきたしてしまう状態らしくてね。作業療法士に関してはリハを主にやっているうちに打診が来たの…大久保さん、行ってくれないかしら」
 上司の山崎から呼び出され、話された話に真理子は一瞬呆然とする。呆然としながらも、自分の思いを伝えようと、途切れ途切れになってしまったが、彼女は口を開く。
「つまり…私は…ここには必要ない人材…って事ですか」
 真理子の言葉に、山崎は彼女の心を読み取り、宥める様に、しかしきっぱりと理由を告げる。
「いいえ。あなたは優秀だし、中途入職とはいえここの理念もきちんと理解して働いてくれる、得がたい人材よ。でもね、だからこそ手放さなくちゃいけないのよ。あっちに行って十分力を発揮できる人材で、遠隔地の出向も大丈夫と思えた人間は、あなたしかいなかったの。あなたと同様に働けるうちの職員は、結婚して子供が生まれたばかりとか、独身でも親の介護を持っているって人ばかりでね。独身で、ご両親も健在なあなたが一番身軽に動けるだろう、っていうのが上の判断なのよ。…あなたには、本当に申し訳ないんだけどね」
「そう…ですか…」
「そうは言っても、あなたにとってキャリアアップっていう意味では、いい話だと私は思うわ。それに…プライベートな意味でも、あなたには中々魅力的な話だと思うけど?」
「山崎さん、それはどういう事でしょう」
 真理子の言葉に、山崎は悪戯っぽい口調から、ふと真面目な顔になって口を開く。
「噂は色々聞いていて、相手が相手だったから、前に他法人で同じ様な話で騒動があった事もあって、うちの法人も影響が出ないとも限らないし…悪いけど裏を取らせてもらったわ。あなたと、四国にいる『彼』の遠距離恋愛の話はね」
「…!」
 山崎の言葉に真理子は驚いて絶句する。山崎は更に続けた。
「とは言っても、かなり複雑な仲だって事も分かったけどね…でも、調べた範囲ではかなりお互い本気の様ね。職場が職員のプライベートに口を出すってだけじゃなくって、医療従事者がこんな事を勧めるのはタブーって分かってるけど…本気で『彼』の事を想ってるなら、この際懐に飛び込んでしまいなさい。そうして仕事面だけじゃなくて、人間的にも成長してまたここに帰ってらっしゃい…どう、受ける?」
 山崎の言葉に、真理子はしばらく沈黙すると、一言静かに応えた。
「しばらく…考えさせて下さい」
「ええ、急な話だし、考える事もあると思うから充分考えて答えは出して。でも、今月一杯までに返答は出してもらえる?相手方との折衝もあるから」
「分かりました」
「じゃあ、重い話で悪かったけどとりあえずは平静な気持ちで仕事に戻って。患者さんに影響だけは出さないでね」
「分かっています…では、失礼します」
 真理子は一礼すると休憩室を出る。仕事に戻る道すがら、彼女は山崎の言葉を反芻する。山崎は彼女の実力を認めた上で、更に彼女の事情も理解してこの話を出してくれたのだという事は充分分かった。『彼』の事は別としても、実力を認めてもらえたのは嬉しいし、このチャンスで自分の力も試してみたいと思った。しかし、この話を両親にした時、両親は素直にそう思ってくれるだろうか――

「…駄目だ、許さん」
「どうして?お父さん。上はあたしの力を認めて行ってくれって言ってるのよ。それに、あたしも自分の力を試したい」
「いいや、他の場所ならいいが松山は駄目だ。…お前は『あいつ』の所へ行くつもりなんだろう」
「違う!『あの人』は関係ないよ!」
「とにかく許さん。…話はここまでだ。俺は寝る」
「お父さん…」
 真理子の父はすっと立ち上がると居間を出て行った。やっぱりこうなるのかと思って真理子は大きく溜息をつく。溜息をついている彼女に、彼女の母が声を掛ける。
「真理、お父さんの気持ちも分かってあげて。お父さんは誠を思い出すから、『あの人』を見るのが辛いのよ。なのにあなたは『あの人』と付き合っている。それに、たとえお父さんが辛くなくても、本当はドナー家族とレシピエントっていうあなた達は、二度と会っちゃいけないのよ。それを破っているって言う時点で、あなた達の恋はルール違反だって事を分かってちょうだい」
「お母さん、でも…」
「諦めなさい。移植を勧めた時点でこうなる事は分かっていたでしょう」
「…」
 真理子は沈黙した。そう、『彼』は亡くなった彼女の兄である誠の後輩であると共に、兄の角膜を移植されているのだ。そしてその角膜移植を決意していたのは誠だったとしても、その思いを受け継ぎ、勧めたのは自分。この恋の障害は自分で作ったものなのだ。胸の痛みと苦しさを覚えながら、彼女は兄がアイバンクへ登録をした時の事を思い出していた――

「…なあ、真理。本当にいいのか?この希望が聞き届けられたら、お前は二度とあいつに会えなくなるんだぞ」
「いいよ。お兄ちゃんがあの人の役に立ちたいっていう気持ち、充分分かるし、あたしもあの人の目がちゃんと治ってくれるなら嬉しいから、会えなくなっても我慢できる。だからお兄ちゃんの気持ちを無駄にしないで」
「真理…ごめんな」
「ううん、そんな事考えるなら、この希望が反故になる様に病気治して、逆にあの人とバッテリー組んでよ」
「そうか…そうだよな。ああ、真理のために絶対治して、バッテリー組んでやるよ」


 しかし誠は亡くなり、その角膜はその希望通り『彼』に移植された。そして自分は迷っていた『彼』に移植を勧めた。兄の気持ちを無駄にして欲しくなかったから――いいや、そうではなかった。『彼』の目が治るならどうなってもいいと思っていたのだ。たとえ二度と会えなくなるとしても、その時はいいと思っていた。しかし実際はそうならなかった。偶然職場でその患者として『彼』と再会し、彼女だけではなく、『彼』の方も恋に堕ち、お互い想いが止められなくなってしまった。二度と会ってはならないドナー家族とレシピエントの恋――この恋は最初から絶望的なもの。その絶望を身にしみて感じ、彼女はまた大きく溜息をついた――

「あいや~よりによって松山か~。話も裏取ったって事は絶対ピンポイントで真理ちゃん狙ったわね、その話」
「遠隔地って事以外は良さそうな話とはいえ、お父さんは確かに反対するわね。何しろ松山には『あの人』がいるし」
「その事関係無しにこの話受けたいのに、お父さん、その事があるからもっと意固地になっちゃって…どうしたらいいんでしょう」
 数日後の夜の都内某所の飲み屋の小部屋、真理子は同法人で親しい先輩の医師である弥生にこの件を相談し、弥生は親友であり二人をこの職場へと紹介した保健師の葉月を呼んで、緊急集合して飲みながらその話を聞いていた。葉月は焼酎のお湯割を飲みながら額に手を当て、呟く様に口を開く。
「ドナー家族とレシピエントじゃなきゃ、ここまでややこしくならないんだろうけどねぇ…」
「お父さんもそれを一番ネックにしてるんだものね。でも、本気で好きなんでしょ?『あの人』の事」
「はい…」
 サワー片手の弥生の言葉に真理子は頷く。二人はしばらく考え込んでいたが、やがて葉月がコップを置いて、きっぱりと口を開く。
「…分かったわ。医療従事者として本当は失格ってなるかもしれないけど、真理ちゃんの仕事に対する熱意と『彼』に対する想いは分かったから、あたしが一緒に行って説得する」
「え…葉月さん、そんな手間を…」
「手間じゃないわ。それに、真理ちゃんがパワハラで前の職場辞めたがってた時、『彼』からその話聞いて、この職場を紹介したのはあたしよ。だからそういう意味でも、ちゃんと責任を持ちたいの。その代わり約束して。話し合いの場では、ちゃんと全部を正直にお父さんに話す事。お願いね」
「葉月さん…すいません」
「あたしは何したらいい?はーちゃん」
「ヒナは…とりあえずは今回の件はノータッチでいいわ。ヒナにあたしが助けてもらった分、今度はあたしが真理ちゃんを助ける番よ」
「はーちゃん、大人になったねぇ…」
「ヒナを含めた皆のおかげよ…って訳で、明日は土曜だったわね。午後一緒に真理ちゃんの家に行きましょう」
 そう言うと葉月はにっこり笑った。真理子は葉月にお礼を言う。
「ありがとうございます…お願いします」
「いいのよ。皆が幸せになる事、それが大事なんだから」
 皆が幸せに――本当にそうできるのだろうか――

「…いくら説得にいらしたとしても、私の気持ちは変わりません。お帰り下さい」
「いいえ、帰りません。私が来たのは、お二人が感情的にならず話し合いできる様に、第三者が必要と考えたからです。冷静にちゃんと真理子さんの話を聞いて…お父様も自分の気持ちを話してあげて下さい」
 そうきっぱり言って葉月は真理子の父を見詰める。真理子の父も葉月をしばらくじっと見詰めると、ふいっと後を向き、口を開いた。
「入りなさい…話を聞こう」
 そうして話し合いが始まった。真理子は論理的に、自分が松山でなくても自分の力を認めてくれた上司に感謝し、また自らも自分の力を試したいからこの話を受けたいのだと話した。真理子の父は静かにそれを聞いていたが、やがてこちらも静かに口を開く。
「真理の気持ちは良く分かった。そんなに自分の力を試したいなら行くといい…ただし、条件がある」
「条件?」
「『あいつ』と別れろ。そして二度と会うな。それが条件だ」
「お父さん、だからそれは関係ないって…」
「たとえ関係なくとも、お前達はどちらにせよこのまま付き合いを続けていてはいけない関係だ。これを機会にきっぱりと想いを断ち切れ。…俺は見ているのが辛いんだ。お前達が恋と勘違いして誠の面影をお互いに求めている様に見えてな…」
「…」
 両者の間に沈黙が訪れる。しばしの沈黙の後、真理子が搾り出す様に呟いた。
「…違う」
「真理?」
「違う…違う、違うよ!あたしはあの時お兄ちゃんの意思を無駄にしないでって言ったけど、本当はお兄ちゃんの事は関係なかった…ううん、どうでも良かったの!あたしはずっとあの人の事が好きだった、最初に会った時からずっと…だからあの人の目が治るんだったら何でも良かった。会えなくなってもいいと思ってた。でも…駄目だった、諦められなかった。だから、偶然再会できただけじゃなくて、あの人も同じ気持ちになってくれたのが本当に嬉しかった…なのにお父さんはそれを勘違いだって言うの?どうして分かってくれないの!?分かって…分かってよぉ!」
「真理…」
 泣き叫ぶ真理子を彼女の両親と葉月はしばらく見詰めていたが、やがて静かに葉月が口を開く。
「…お父様、これが真理子さんの全ての本心です」
「…」
「一日…ゆっくり考えてあげて下さい。彼女の将来と、幸せを。彼女は私が一日預かりますから…ご両親だけで。では、失礼します。真理ちゃん、行きましょう」
 そう言うとまだしゃくりあげている真理子を促して葉月は立ち上がり、真理子の家を辞し、自分のマンションへ招いた。やっとの事で落ち着いた真理子と葉月は、葉月の手料理で食事をとり、葉月のいれたハーブティーを飲みながら静かに話す。
「真理ちゃん…よくあそこまで言ったわね」
「いえ…冷静になろうと思ったのに、もう止められなかったんです。自分の中の気持ちが…」
「そう…」
 しばらく葉月は沈黙していたが、やがて一口ハーブティーを飲むと、ゆっくり口を開く。
「でも…あの真理ちゃんの叫びで、あたしも腹が決まったわ。真理ちゃんを全面的に応援する」
「葉月さん…それはどういう…?」
 問い掛ける真理子に、葉月は静かに虚空を見ながら言葉を零した。
「実言うとね…仕事の方はともかく、『彼』との事はあたしもちょっと迷ってたのよ。お父さんと同じ理由でね」
「葉月さん…」
「でも、あの叫びを聞いて良く分かった。真理ちゃんはお兄さんの事は関係無しに、純粋に『彼』の事を愛してるんだってね…だからもうドナー家族だレシピエントだは関係ないわ。普通の二人の恋として、あたしは二人を応援する」
「…」
 真理子は葉月を驚いた様に見詰める。葉月はにっこり笑って更に口を開く。
「さあ、人事は尽くしたわ。後は真理ちゃんの気持ちをお父さんが、どう受け止めるかだけよ…だから、天命を待ちましょう」
「そうですね…そうだ」
「何?」
「葉月さんの恋の話…聞かせてもらえませんか。葉月さんの恋人って『あの人』と同じ立場の人だし、色々障害や騒動があったって伝説は聞いてるんですけど、どこまで本当か知りたいんで」
「…そうね、話しましょうか。その代わり、真理ちゃんも『彼』との話をする事」
「はい」
 二人は笑い合うと、お互いの恋の話を一晩中話し合った――

 そして翌日、真理子が家に帰ると、父が真理子を出迎え、居間に座る様に言う。真理子は素直に座り、父の言葉を待つ。昨日の事を、父はどう受け止めただろう――
「真理」
「…はい」
 真理子が父の目をじっと見詰めると、使い古されたキャッチャーミットと封書を差し出して口を開く。
「松山に行ったら…これを『あいつ』に渡せ。これ以上言う事は無い」
「お父さん…」
 真理子はキャッチャーミットと封書を受け取る。古ぼけたキャッチャーミット。それは兄の遺品だった。これを『彼』に渡すという事が意味するのは――彼女は父の心を察し、真摯な瞳で頷く。
「…ありがとう、お父さん」
「引越しには時間がかかる。今からちゃんと準備をしておけ」
 父はそう言うと居間を出て行った。彼女は父の心に感謝すると共に、自分の想いをここまで貫いたのだから、絶対に貫き通そうという決意を固めた――

「…じゃあ、受けてくれるのね」
「はい。行かせて頂きます」
 真理子の爽やかな笑顔での返答に、山崎もにっこり笑うと業務的な指示を与える。
「それじゃあこちらで住居や飛行機の手配はするわ。だからこれからあなたは引継ぎに従事して」
「はい、分かりました」
「じゃあ、行っていいわ」
「はい、失礼します」
 真理子が一礼して休憩室を出て行ったのを確かめて、山崎はふっと笑うと呟く様に口を開く。
「さて…と、ここまでうまく行ったんなら、最後の『仕上げ』に入りますか」
 山崎は事務所へ戻ると、一息ついた後に『ある人物』に電話を掛けた――

 そうして3月1日から本格的に仕事に従事するという事になり、住民票や引越しなど身辺の手続きに一週間、現場研修に一週間という期間を与えられ、2月13日の夜の飛行機で松山に行くと決定し、真理子の身辺は急な出向という事もあり、引継ぎやその他の業務で忙しくなり、そして今自分は松山へ行く飛行機の機中の人間となった。これから始まる新しい生活、新しい仕事、そして――と、着陸の知らせが入り、それと共に彼女はふとそういえばこの準備の忙しさで、バレンタインのプレゼントの事をすっかり忘れていた事に気がついた。いつもだと彼女がプレゼントを送ると、プレゼントが着いた当日に心底嬉しそうな声で『彼』から連絡が入っていた。あの様子だと、今回ないとしたらもしかすると相当落胆するかもしれないと思い、苦笑する。とりあえず明日の引越しが終われば余裕ができるので、向こうで何か買って、父から託された物と共に『彼』に直接会いに行こうと思った。その時の『彼』の驚く顔を思い、彼女は無意識に幸せな笑みが漏れていた。