そしてクリスマス当日の夜。土井垣は部屋で一人ワインを飲んでいた。夕方に文乃から連絡が入り、もしだったら葉月と一緒に自分達の家でクリスマスを過ごさないか、と声を掛けられたが、その葉月もいない中で、赤ん坊が生まれたばかりの幸せそうな文乃一家とクリスマスを過ごすのは切なくなる様な気がして、理由を話して丁重に断り、静かに一人で過ごす事にしたのである。ワインはもう結構な量を飲んでいるのに、彼はどうしても酔えずにいた。彼女がいない――たったそれだけでこれ程自分が気弱になってしまうとは、思ってもいなかった。それ程に彼女は自分の心を占める様になっていたのだと気付いて、彼は苦笑すると共に、またきりきりと胸が締め付けられる感覚が蘇って来る。彼女の笑顔が見たい、それが叶わないならせめて声が聞きたい――その心のままに彼は携帯を手に取り、彼女に電話を掛けた。数コール後、『はい』という柔らかいメゾソプラノの愛しい女の声が聞こえて来る。彼ははやる心を抑えながら『俺だ、今大丈夫か?』と言葉を掛け、彼女が『うん、大丈夫』と答えたのを確認して土井垣は言葉を次々に掛けていく。
「今…何をしていたんだ?」
『えっと…ホテルの部屋で本読んでた。早く寝ようと思ってたんだけど、何だか眠れなくって…でね、今あたしも将さんに電話掛けようかどうしようか迷ってたの』
「何故だ」
『声聞いたら…寂しくなっちゃいそうだったから』
 彼女の寂しげな声に、彼の胸がきりきりと痛む。しかしそうとは悟らせない様に、更に言葉を紡いでいく。
「そうか…大丈夫か、疲れていないか?」
『ん…ホント言うと…ちょっと疲れてる。仕事中は気を張り詰めてなきゃいけないし、夕食はスタッフさんと大きな居酒屋さんとかで食べてるんだけど、スタッフさんに気を遣わなきゃいけないし、慣れないお酒どんどん勧められて、ちょっと飲み過ぎにさせられたりするし』
「そうか…悪酔いとかはしていないか?」
『ん…その辺は何とか踏みとどまってる』
「そうか…無理はするなよ」
『うん、ありがとう…そうだ』
「何だ?」
『今日は…クリスマスなのよね』
「…そうだな」
『メリークリスマス…って言いたいけど…ごめんなさい、あたし…言えないわ』
「そうか…俺もだ。お前が傍にいないのにメリークリスマスとは言えん」
『…あたしもそう。将さんがいないのに、メリークリスマスなんて言えない』
 お互いに同じ想いでいる事が、切ないながらも土井垣を幸せな気持ちにさせる。彼は更に言葉を紡いだ。
「明日は…帰って来るんだよな」
『うん…でね、将さん』
「何だ?今度は」
『一つだけ…我侭言っていい?』
「内容にもよりけりだが…何だ」
『将さんのお料理、食べたいの。明日帰ったら将さんのマンションに行くから…そうしたら作ってくれる?』
 葉月の可愛らしい『我侭』に、土井垣は幸せで胸が一杯になって来る。その心のままに彼は彼女に言葉を掛けた。
「ああ、そんな事ならお安い御用だ。うまい物を作って待っているから…元気で…早く帰って来い」
『…ん、良かった。将さんのお料理が待ってるって分かったら、明日一日頑張れる。ありがとう、将さん』
「いや…とにかく、早く寝ろ。疲れてまた身体を壊したら大変だ」
『ありがとう、そうする。じゃあ…おやすみなさい、将さん』
「ああ、おやすみ」
 土井垣は携帯を切ると、ふっと溜息をつく。彼女の声が聞けた事と、彼女も同じ想いでいた事を確かめられて、胸の痛みはまだあるものの、暖かいものも湧き上がってきていた。そんな気持ちでまたワインに手を伸ばそうとすると、不意に携帯が鳴る。誰だと思って『はい』と電話に出ると、電話口から今度はアルトの特徴的な話し方で『こんばんは、朝霞です』という声が聞こえてきた。
「ああ、朝霞さんか。もしかして昨日の話の続きか」
『はい。『クリスマスプレゼント』無事用意できたんで電話しました』
 そう言うと弥生は『クリスマスプレゼント』の内容を詳しく話していく。その内容に土井垣は顔が赤くなっていくのを感じていた――

 そしてまた一日過ぎ、26日の夕刻。土井垣は彼女のリクエスト通り手料理を作りながら、彼女の帰りを待っていた。料理が丁度出来上がる頃、インターホンが鳴る。彼が受話器を取り「はい」と言うと、モニターに愛しい女の姿が映り、『あたしです。今帰りました』という声が聞こえて来る。彼は「お帰り…今開ける」と言うとオートロックのドアを開け、彼女が上がってくるのを待つ。しばらくして中のインターホンが鳴り、彼がドアを開けると、葉月が出張に持っていった中型のボストンバッグを下げ、微笑んで立っていた。
「ただいま…家に帰る時間も惜しかったから、そのまま来ちゃった」
「そうか…ほら、入れ。寒いだろう?」
「うん、ありがとう。あ、この匂い…将さん、鳥雑炊作ってくれたの?」
「ああ、疲れた身体には消化のいいものがいいと思ったし、俺もこの二日間暴飲暴食気味だったからな」
「ありがとう…あのね、偶然かもしれないけど、あたし、丁度将さんの作ったお雑炊が食べたかったの。…だから、すごく嬉しい」
「そうか…とりあえず荷物を降ろして手を洗え。丁度出来た所だから今盛り付ける」
「うん」
 彼女は嬉しそうにリビングの隅に荷物を置くと洗面所へ行き、手を洗う。彼はその間に二人分の鳥雑炊を盛り付け、キッチンのテーブルに用意し、戻って来た彼女を座らせ、その前に自分も座る。
「熱いから良く冷まして食えよ」
「うん、いただきます」
「いただきます…どうだ、うまいか?」
「うん…とってもおいしい」
「…そうか」
 その後は二人とも無言で雑炊を平らげていく。しかしその沈黙は彼女が出発した時の様な切ないものではなく、暖かく、幸せな沈黙だった。やがて二人とも食べ終わると、土井垣は優しく葉月に声を掛ける。
「じゃあ、お前は疲れているだろうから、今日は俺が片付けと食後の茶の用意はする。お前はゆっくりリビングで休んでいろ。眠かったらベッドで眠っていてもいいぞ」
「ん…じゃあ今日は頼んじゃう。ありがとう、将さん」
「いや…」
 そう言うと土井垣は食事の片付けをし、お茶をいれにかかる。湯を沸かして様子を見ていると、不意に背中に柔らかく暖かな感触が伝わってくる。驚いて振り向くと、葉月が彼を後ろから抱き締めていた。
「…どうした、葉月」
「…ごめんなさい」
「何がだ」
「クリスマス…一緒に過ごせなくて…」
 葉月の言葉と行動に土井垣は彼女の心を感じ、胸が一杯になって来る。彼はその心のままに自分の腰に回された彼女の腕を掴むと、静かな口調で口を開いた。
「…もういい」
「将さん…?」
「お前を引き止められなかった俺にも責任がある。…だから、もういいんだ」
「将さん…」
 土井垣の背中に何か暖かいものが染み透って来る。良く見ると、彼女は涙を零していた。彼は向き直り彼女の涙を拭うと、しっかりと抱き締める。
「泣くな…お前にそうやって泣かれると俺は弱い…」
「ん…ごめんなさい、将さん」
「ほら、もうすぐ茶が入る。リビングに戻って待っていろ。…すぐにお前の傍に行くから」
「…分かった」
 彼女は頷くと、リビングにとことこと戻って行った。彼はそれを確認すると、沸いている湯の火を止め、お茶をいれてリビングへ行き、彼女の隣に座ってお茶を差し出した。
「ほら…飲め」
「ん…」
 そうやって二人は寄り添い合いながらお茶を飲む。しばらくそうして静かにお茶を飲んでいたが、不意に葉月が思い出した様に口を開く。
「そうだ…将さん」
「何だ?」
「一日遅れだけど…クリスマスプレゼント、用意してあるの」
 そう言うと葉月はボストンバッグの中を探り、大き目の紙袋を取り出して土井垣に差し出す。彼が中を見ると、そこには手編みらしきセーターが入っていた。
「これは…お前の手編みか?」
「うん、急いで編んだから一番簡単な縄編みにしちゃったけど…貰ってくれる?」
「ああ…ありがとう」
 そう言うと土井垣はセーターに袖を通してみる。サイズがぴったりのセーターである事を彼は不思議に思い、葉月に問い掛ける。
「おい…お前に俺のサイズを教えた事があったか?」
「ほら、一度将さんに『スーツを見立ててくれ』って言われて、見立てた事あったでしょ?あの時に店員さんに教えてもらって覚えたの」
「そうか…そういえばそうだったな」
「それに…そうじゃなくても…その、何となくは分かるから…」
「ああ…そうだな」
 真っ赤になって言葉を紡ぐ彼女の言葉の意図を察し、彼も頬が熱くなってくる。そうして居心地が悪い沈黙が続いた後、土井垣も思い出した様に口を開く。
「そうだ…俺からのクリスマスプレゼントなんだが…実は、用意していなくてな…すまん」
「ううん、プレゼントなんかなくても、将さんがこうやって傍にいて、食べたかったお料理まで作ってくれた事であたしは充分。ありがとう、将さん」
「いや…続きがあるんだ」
「え?」
「実は、朝霞さんが気を利かせてプレゼントを用意してくれてな。…葉月、確かお前の年末年始休暇は30日から4日までだったよな」
「うん、そうだけど…それがどうしたの?」
「大晦日から3日まで…二人で旅行に行くぞ。旅館は朝霞さんが用意してくれた」
「ええっ?ちょっと待って。あたし、毎年箱根駅伝を実家の傍の沿道で見るのが楽しみなのに、それできないの?」
 驚いた様に声を上げる葉月に、土井垣は悪戯っぽい口調で更に言葉を紡ぐ。
「そう言うと思った…葉月、沢村玲子さんという人を覚えていないか?」
「OBの玲子さん!もちろん覚えてるわ、大好きな人だもん。箱根の旅館に嫁いで女将をしてる人よ。どうして将さんが…って…もしかして…」
「…そういう事だ。その人の嫁いだ旅館はコースに近いんだろう?お前は確か、一度箱根の山登りを直に見てみたい、と言っていたろう。それも叶うぞ。どうだ…乗るか?」
「ありがとう、将さん…でも…」
「でも?」
「二人っきりで旅行なんて…その…ええと…」
 顔を更に赤らめて狼狽している彼女の意図を察して彼も少し顔が赤くなるのを感じたが、そうして狼狽している彼女が愛らしくて、愛しくて、彼女を引き寄せて抱き締めると、わざと意地悪っぽくその耳元に囁いた。
「…嫌か?」
「…ううん…でも、恥ずかしいの…それに、お父さん達や将さんのお父様達が何て言うかなって思うと…それも…」
「大丈夫さ、お父さん達ならきっと快く送り出してくれるだろうし、俺の家族の方は気にしなくていい…むしろ喜ばれる様な気がする…」
「…」
 自分で言って土井垣も顔を赤らめつつも、顔を真っ赤にしながら迷う素振りを見せている葉月を抱き締めたまま、言い聞かせる様にまた囁いた。
「クリスマスは一緒に過ごせなかったが…年末年始はずっと一緒だ…いいな」
「…うん」
 彼女はしばらく迷っていたが、やがて顔を真っ赤にしながらも、静かにはっきりと頷いた。土井垣はそれを確認すると、満足げに、そして幸せそうに彼女を抱き締める腕に力を込めた。

――メリークリスマスが言えなくても、その後におせっかいな天使がくれた幸せが待っていた事に感謝しながら――