そしてその場で詳しい日程を決め、約束の日曜日。瑛理はスポンサーから件の着物はデザインしたデザイナーが気に入って持っていると聞いたのでそのデザイナーから参考に撮影に使ったもの一式を一旦借りて『道案内もあるからバイクは遠慮して欲しい』という言葉に従って新幹線で小田原駅へ向かう。駅の改札へ着くと、葉月がもう待っていてにっこり笑って迎えてくれた。
「こんにちは、瑛理さん。よく来てくれたわね」
「いえ、私こそお手間かけさせちゃったんじゃないかなって…」
「いいのよ。私も祖母孝行ができて楽しんでるんだし。この企画話したお姫も『丁度改めてうちの着物全部に目を通したかった所だから有難い』って喜んでたし」
「そうですか。それでこれからどうやってそのおばあ様の家まで行くんですか?」
「ああ、お姫がこっちに車回してくれる手はずになってるわ。もうそろそろ…ああ、あれね」
 そう話して小田原駅の西口を出ると、駅出口から少し離れた所に車がやってきてパッシング音を鳴らす。その車に近付いていくと、若菜がにっこり笑って窓から顔を出し、口を開いた。
「いらっしゃい、盾野さん、久しぶりね。おようも久しぶり。じゃあ後ろに乗って」
「あ、お久しぶりです…おゆきさん」
「おひさ、ありがとね、お姫。車まで回してもらっちゃって」
「いいのよ。盾野さんの事思い出しながら着物を見てたら、候補がいっぱい出ちゃってね。私の分の着物持っていくのに車使いたかったし。うちのおばあ様がホント着道楽だったってよく分かったわ、今回の事で」
「うちのおばあちゃまと二人でね。…で、その着物は?」
「二人が後ろに乗るって分かってたし、厳重にしまってトランクに入れてあるわ。無下に扱ったらおばあ様達が怖いもの」
「そうね…じゃあ行きますか」
 そう言うと二人は若菜の車の後ろに乗り、車は葉月の実家の反対方向へ走っていく。そして10分程走っただろうか、細い路地に入った平屋建ての質素だが瀟洒な一軒家に辿り着く。若菜は家の前に車を止め、まず二人を降ろした。
「じゃあ二人はここで降りて。私は…どうしようかしら、勝彦おじ様に駐車場貸していただこうかな。おばあ様の家の駐車場だと、私車庫入れうまくできないのよ」
「いいんじゃない?断りいれれば。ここの駐車場はお父さんと正太郎叔父様と隆兄と柊位しか入れらんないって」
「そうね…じゃあおじ様の駐車場に止めて、ご挨拶してから私はそっち行くから先に入ってて」
「オッケー」
 そう言うと若菜はもう少し先の駐車場まで車を走らせていった。瑛理は今の会話が分からなくて問いかける。
「ええと…今のはどういう事ですか?」
 瑛理の問いに、葉月はにっこり笑って家の隣にある車一台がギリギリ入る位の空き地を指して言葉を紡ぐ。
「ほら、そこがうちのおばあちゃまのうちの駐車場。土地の関係で見た通り車一台入るか入らないかギリギリの広さで、車庫入れにテクニックがいるのよ。だから車だと運転が特別うまい人じゃないと使えなくって。でも、運がいいのか悪いのかこの辺り一帯うちの親戚の土地だから、仲のいい人なら挨拶すればその土地に車一台位なら置かせてくれるって訳」
「そうなんですか~いいですね~」
「その代わり、まあ近所の人含めてネットワークも強くて悪事もすぐにばれるから、一切できなかったけどね」
「それもすごいですね」
 そんな事を話していると若菜が車を置いて挨拶も済ませたのかやって来る。
「二人とも、待っててくれたの?ありがとう」
「どういたしまして。じゃあ入りますか」
「そうですね」
 そう言うと三人は門扉を開け家の扉の前に立つ。瑛理が見ると表札には『酒匂』とかかっていた。葉月がインターホンのボタンを押すと、きっぱりした女性の声で『どなた?』という声が聞こえてくる。葉月が『おばあちゃま、葉月だよ。約束の着物の件でお姫…若菜ちゃんと、主役の盾野瑛理さんと遊びに来たよ』と言うとインターホン越しの声が嬉しそうに『まあまあ良く来たわね。今開けるわ』と崩れ、引き戸が開かれる。そこには小柄で確かに老齢だが、緑なすとはいかないがそれでもほんの少し色がくすんだ程度で十分なしなやかさを保った黒髪のせいか、年齢を感じさせない毅然とした雰囲気を持った女性が立っていた。その雰囲気に圧倒され、瑛理は思わず言葉を失い、女性はにこやかに三人に声を掛ける。
「いらっしゃい。葉月、若菜ちゃん。その可愛らしい女性が盾野さん?」
「そうだよ、おばあちゃま。瑛理さん、この人が私の母方の祖母よ」
「こんにちは、はじめまして。酒匂春日よ」
「あ、はい…あの…はじめまして…盾野…瑛理です…」
「あらどうしたの?緊張しなくていいのに」
「おばあちゃまがあんまり若くて綺麗で緊張しちゃったのよ、瑛理さんは」
 葉月の悪戯っぽいが瑛理を気遣った優しい心遣いに春日も気づいたのか、にっこり微笑むと三人を中へ促す。
「あらそう?嬉しいわ…まあ荷物もあるし中へお入りなさいな」
 三人は居間らしき部屋へ通される。部屋にはテレビなどと一緒に年代物の足踏みミシンがあり、瑛理は目を丸くしてミシンを見詰めて問いかける。
「あの足踏みミシン…あのおばあ様が使ってらっしゃるんですか?」
 瑛理の問いに葉月と若菜がそれぞれ答える。
「そうよ。おばあちゃまは都内の洋裁学校を出て、洋裁店でも働いてた事がある元モガ。お姉ちゃんも私も良く服を縫ってもらったし、私とお姫は洋裁の基礎をおばあちゃまから習ったの。お姫は応用もだったよね」
「ええ。私はそれだけじゃなくって、お裁縫が楽しかったから和裁も少しおばあ様に習った後、もっと覚えたいからってお教室を紹介してもらったりしたわ」
「すごいんですね~お二人とも」
「おばあ様が一番すごいわ。一時期とはいえ職業洋裁師をしていたんだし」
「そうですね…それに」
「それに?」
 問い返す葉月に、瑛理は申し訳なさそうにおずおずと言葉を紡ぐ。
「あの…葉月さんのおばあ様って、お若く見えますけど…おいくつですか?」
「ああ、確か今年の3月に87になったはずよ」
「じゃああの髪…失礼ですが、やっぱり…染めてらっしゃるんですよね…?」
 瑛理の言葉に葉月はあっさり首を振って応える。
「ああ、信じられないでしょうけど、おばあちゃまの髪はあれが地毛」
「ええ!?」
「酒匂家…おばあちゃまの家ね…の女性って皆髪が結構年取っても白くならないのよ。だから前会った娘のお母さんもあの黒髪は地毛で。前具合悪くなって病院に駆け込んだ時に、遺伝子学が実は専門だった当直のお医者さんが驚いて『この髪は地毛なんですか?染めてるんですか?』って症状より先にまずそっち聞かれて突っ込みたかったってお父さん言ってたっけ。お姉ちゃんはその血をそのまま受け継いだのか真っ黒な髪なんだけど、私は宮田の血が入ったのか、量は酒匂の血の通り多いんだけど色はこの通り少し茶色くなってて、宮田の血だと年取ると結構真っ白になるから、どっちになるかなって今からドキドキしてるわ。まあ宮田の血を受け継いだ場合の白髪は真っ白できれいだから気にならないと思うし、どっちに似てもはげる事はないからそれは良しなんだけど」
「…はあ」
 葉月の悪戯っぽい言葉に瑛理は驚きの連続でため息ばかりついている。そうしていると春日がお茶とお茶菓子の煎餅を持ってやって来た。
「あらどうしたの?盾野さん。ため息なんてついて」
「いえ…こちらに来てから驚きの連続で…」
「おばあちゃまが元モガだったって話したり、さっき言った通り若くて綺麗だからびっくりしちゃってるの」
「あのミシンの話もしたら驚いたみたいですよ。確かに中々ないものですしね」
「あらそう?嬉しいわね。そういう話をするとまた若返る気がするわ…じゃあお茶をどうぞ。ああ、着物は隣の仏間へ持っていきなさい。私の着物もあっちにあるし、お茶とかで汚したら困るでしょう?」
「そだね。盾野さん、お姫。とりあえず着物避難させよっか」
「そうね」
「はい」
 そう言うと三人は持ってきた着物を隣の仏間へ持っていき、まずお茶を飲みながら瑛理と春日で話す状態を作っていく。春日は初対面の瑛理が馴染める様に、明るく彼女が興味を持ったらしいと感じた、昔の洋裁学校の話や過去に葉月達に縫った服の話などをしていく。瑛理はその語り口の聡明さに、以前の会話で葉月の性格を作ったのは町内の人間や他の家族だと思っていたが、それは表面の性格で、根幹の性格を形作ったのは春日なのだという事が何となく分かった。そうして馴染んできた所で三人は仏間へ移動し、瑛理の着物を見せてもらう事にする。瑛理が着物を広げると、一瞥して春日はきっぱり口を開いた。
「確かにこれは和服には向かない色に見えるわ。洋服だと映えるんだけど和服だときつくなるっていういい例ね。葉月の気持ちが分かったわ。それにこの帯に帯揚げね…瑛理さんを見た限りだと私も葉月と同意見。きつい色に加えて確かにポスター用とはいえこの手の金襴の帯だと着物が浮く気がするわ。若菜ちゃんは?」
「私は…おばあ様の言う通り着物の色も気になるんですけど、それ以上にこの帯が…申し訳ないんですけど、安っぽい気がして…だから洋風の色と相まって更に悪目立ちするのかなって」
「うわ、お姫さらっとあたしとおばあちゃまが言い淀んだ事言ったわね」
「でも同じ金襴でも宇都宮さんの帯見慣れた身だと、明らかにこの帯は悪く見えるわよ」
「まあそうだけどさ。グラビア用でしょ?実用と写真映えの良さは違うだろうから仕方ないよ」
「あの~『うつのみやさん』って何ですか?」
 瑛理の問いに葉月がにっこり微笑んで答える。
「『宇都宮さん』はおばあちゃまやお姫のおばあ様の代から、私やお姫が行きつけにしてる呉服屋さんでね。お店は小さいけど品はとってもいいの。今からそのお店の品出すから、それ見れば瑛理さんも今言った理由が分かるわよ」
「はあ…」
 訳が分からず首を傾げる瑛理を横に、三人はそれぞれ帯の候補を出していく。
「金襴だったらもう少し落ち着いたこっちの方がいい気がするんですが」
「瑛理さんだったらこの色の帯も似合いそう」
「ポスターとか考えないんだったら、いっその事この位落ち着かせてもいいんじゃないかしら」
「あ、それが一番いい気がする」
 そのどの帯も瑛理がグラビアで使った物より質素であっても、明らかに上品で物がいいと一目で分かる物であった。そうして選ばれた帯は白地に黒の質素な刺繍がされた織り名古屋帯と淡い黄色の帯締めと同系色の帯揚げ。そして着物と重ねられると、落ち着いた分着物にも馴染み、落ち着いた上品さが増していた。しかし、前の様な色に対する違和感がほんの少しだが消えた事に気づき、その選択の見事さと帯の上品さに瑛理は感嘆の溜息をつく。
「何ていうか…すごいです。こんなに着物のイメージが変わるなんて。…それに…この着物の色の違和感がほんの少しですけど…減りました」
「そう、良かった」
「それに、今言った事分かりました。着物の事分からないわたしでも分かります、こっちの帯の方がこう言っては何ですけど質素なのに…上品で…とってもいい物だって分かります」
「でしょ?」
 瑛理の言葉に葉月が悪戯っぽくウィンクする。それを見て若菜と春日もにっこり微笑むと、春日が口を開く。
「でも、これだと根本的な解決にはならないのよね。…という訳で今度は盾野さんの似合いそうな着物を若菜ちゃんや私の手持ちの着物の中から選んでみましょうか。それで、見たら私と背丈も腕の長さもそう変わらないみたいだし、私のものだったらその着物はあげましょう」
「え?そんな…この帯と同じお店の着物でしょう?でしたら相当なお品じゃないですか。そんな気軽に頂けませんよ」
 固辞する瑛理に、春日は優しい笑顔で言い聞かせる様に言葉を更に重ねる。
「いいえ、もらって欲しいわ。本当は葉月や文乃にあげたいのだけれど…二人には私の着物は着られなくてね。何枚かは着られる様に洋服や羽織に仕立て直してあげたけれど、やっぱり着物は着物で譲りたいし。私が死んだら、しつけすら取ってなくても折角お金かけて仕立てた着物がキロ何千円っていう古着になってしまうから」
「え?着られないって…」
 瑛理の言葉に、葉月が寂しそうな笑みを見せて応える。
「ほら…私、おばあちゃまよりかなり背が高いでしょう?お姉ちゃんは私よりももっと高いし。丈が合わないのよ。着物は小さい人が大きいものを着る分には融通が利くけど、洋服以上に大きい人が小さいものは着られないから」
「ああ…」
「若菜ちゃんも同じ様に背丈の関係で着られないし。だから、同じ様に葉月に縁が深い盾野さんにもらってもらえるなら嬉しいわ。葉月にはその分背丈には関係ない帯をあげる事になっているし…それに」
「それに?」
「あ…ええ、何でも。とにかく、無駄にしないためにも一~二枚持って行ってちょうだい」
「…本当に…いいんですか?」
「ええ。形見分けだと思うと重くなるから…廃品回収だと思ってもらって?」
 春日の心遣いが分かる言葉に瑛理は何だか甘えてもいいのかなという気持ちになり、その気持ちのままに素直に頷いた。
「初対面で…そこまでしてもらっていいのかって思いますけど…そう言ってもらえるなら…お言葉に甘えます」
「ありがとう」
 そう言うと春日はにっこり微笑んだ。そうして今度は春日と若菜の持っている着物を瑛理の肩に掛ける形で色合いが合うかどうか試していく。
「これはうちのおばあ様が娘時代に仕立てたものだって聞いているわ。ちょっと色合いが涼しすぎて肌映りが良くないかしら」
「これは私が結婚してすぐ位に仕立てたものよ。ちょっと瑛理さんは年寄り臭くなっちゃうかしら」
 そうして何枚か合わせていくうちに、春日の着物で二枚瑛理にとても色合いが似合うものが見つかった。一枚は紫がかった桃色に近い赤の袷。もう一枚は藤色の小紋。色合いが似合う事を確かめ、春日は袖を通させて丈などが合う事も確かめると、にっこり微笑んで口を開く。
「良く似合うわ。葉月には申し訳ないけど、私の着物を継いでくれる娘がこうやってできてくれて本当に嬉しい事。じゃあ盾野さん、その二枚はあなたにあげましょう。さて、襦袢も仕立てないといけないし、着付けとかが分からないなら事前に連絡をくれてここに来てくれたら、襦袢を仕立ててもらいがてら私が教えてあげるわ。でなければ葉月も分かるから東京で葉月に教わってもいいし」
「はい、そこまでしていただいてありがとうございます。わたしは海外で活動が主なのでなかなかお邪魔できないかもしれませんが…葉月さん達にも協力してもらって、この着物を大切に着られる様にします」
「ありがとう。後はこれに似合う帯を見繕いたいわね…でもその前に、若菜ちゃんと葉月は台所にお菓子を焼いて包んであるから、若菜ちゃんの着物を持って帰って、神保さんに今日のお礼を言ってらっしゃい。もう若菜ちゃんの着物はなくても大丈夫だから」
「あ、うん…じゃあ行ってくる。でも若菜ちゃん連れて戻って来ていいんだよね?」
「それはもちろんよ。じゃあ行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます」
「おばあ様、一旦失礼します」
 二人は素直に頷いて若菜の着物をしまい、家を出て行った。二人が家を出て行ったのを確かめると春日はにっこり微笑む。
「さて、少しだけど二人だけの時間が作れたわ」
「あ…はい」
 春日の年齢を感じさせない聡明でたおやかな雰囲気に、瑛理は圧されつつ頷く。その様子に春日はふっと笑うと口火を切った。
「そんなに緊張しなくていいわよ…で、早速話に入るわ。葉月から聞いていたけど、盾野さんのこの着物は…あなたのために作られた色で染められたものだそうね」
「あ…はい」
「さっき私は、洋服では似合う色でも和服では似合わない色だって言ったけど…あえて率直に言うわ。あなたのための色だとしても…多分洋服でも、私には…今見ているあなたに、この色は似合わない様に思えるの」
「え?」
 葉月よりも更に突っ込んだ意見を言った春日に、瑛理は驚いて春日を見詰め返す。春日は続ける。
「多分私がレーサーとしてのあなたを知らないからでしょうね。でも、レースをしているあなたを見たら似合うと思うかしらとも思ったけれど、今のあなたから知ってしまった私には申し訳ないけど、多分一生…って言ってももう老い先短い身だけれど…この色が似合うあなたというものが…分からないと思うわ。私には同じ赤なら、むしろ今日あなたにあげた着物みたいな…あれは紫がかっているけれど、そうでなくてももっと柔らかい…朱や桃色みたいな赤の方があなたには似合うと思うの。勝手な意見だけど…レースの時のあなたは知らないからともかく、私にとっては中身はそんな柔らかくて優しい人よ、あなたは。葉月はそこまでははっきり言わなかったけれど、きっとあの子も、無意識でしょうがそう思っていたんだと思うわ」
 春日の冷静な言葉に隠された優しさに、自分がこの『色』に対して戸惑っていた『理由』の答えの一端を見た気がした。瑛理はこのスピアレッドが正に似合うレーシングをしているし、以前は普段もそんな雰囲気を出していたのだろう。しかし、不知火と出会って恋をして、また土井垣や葉月と出会い、彼らに色々な世界を見せてもらううちに、自分の中に隠れていたスピアレッド以外の様々な彼女の内面の『色』が表れてきて、一色のみだった自分の『色』から様々な色彩を持った自分に、そしてスピアレッドだけではない違う『赤』も似合う自分に変わったのだと。そして周囲はそれに気づかなかったとしても、この事の発端になった時の会話で、不知火は無意識だがそれに気づいていたと分かった。そして葉月やここにいる春日ははっきりと気づいて、言葉と行動で瑛理にその思いを掛けてくれたのだと――瑛理は春日や葉月のそんなさりげない優しさへの嬉しさと感謝の言葉を紡ぐ。
「…ありがとうございます。そんな風に言ってもらったのは初めてで…でも…戸惑いもありますけど、嬉しいです」
「そう」
 瑛理の言葉に春日はふっと笑うと、不意にもっと唐突な問いを浴びせる。
「そうだわ盾野さん。…あなたはまだ…おひとり?」
「え?」
 春日の唐突な問いに瑛理は思わず春日を見つめ返す。春日は複雑な笑みを見せて言葉を重ねた。
「ごめんなさい、唐突だったわね。…いえね、十年以上前にあの子の…葉月のために仕立てた『ある品』があるんだけど、全く日の目を見なくって。…もし、盾野さんが近い内に着られるなら…その前に着てあげて欲しいかしらって…つい思っちゃったのよ。あの子だけじゃなくって…あなたにも良く似合いそうだわって思ったから」
「それって…まさか…」
 春日の言葉の『意味』を察して、瑛理は何も言えなくなる。春日はその様子を見て更に複雑な笑みを見せると『見せてあげましょうか』と言って仏間の一番奥にある鍵をかけた箪笥の鍵を外し、桐箱と畳紙で厳重に包まれたその『品』を取り出して、瑛理に見せる。『それ』は見事な白無垢と色打掛。しかも十年以上前に仕立てたとは思えない程、真っ新で美しい品だった。春日は真っ新な花嫁衣裳を見詰めながら、呟く様に言葉を紡ぐ。
「これを仕立てたのは、あの子が成人式を迎えた時。随分前から祖父母同士でお金を出し合っていて、振袖と一緒にあの子には内緒で仕立てたの。その時の私と夫…後、その少し前に交通事故で亡くなられていた達吉さん…葉月の父方のおじい様ね…は、そう遠くない未来…そう、あの子が大学を卒業してすぐにも…この衣装に袖を通すって思っていたから。…でも…その『相手』は、あの子がある『事故』で負った『傷』の事を気遣って無理強いはできないって、無邪気に自分に懐いているあの子に対する自分の気持ちを抑えて、傍で優しく見守るだけ。そんな二人は傍から見てもお似合いで、実際両想いみたいなものだったのに…同時に『彼』の片想いみたいなものだった。そんな二人が歯がゆいと思っている内に、この衣装を着た姿を誰よりも見たがっていた夫が亡くなって…夫の遺志を継がなきゃって焦った私は、丁度弔問にいらした将さんのおじい様が、あの子を気に入って持ちかけた将さんとのお見合い話に乗ってしまって…それからとんとん拍子に話が進んで行って…でもあの子は結婚直前に新球団の監督になった将さんの事を考えてって言ってたけど…きっと本当は、無意識でしょうけどあの子自身が自分の負った『傷』のせいで躊躇ったんでしょうね…結婚を延期して…そうして今までずるずると。…そんな時間が経つにつれ、色々な事が糸みたいに絡まっていってしまったわ…」
「え?でも…土井垣さんと葉月さんは、確か共通のお仲間さんの縁で出会ったって…それに…元々の『相手』って…まさか…」
 春日の思い出話が自分の知っている話と全く違っているという事と、その話に隠されていた『真相』に瑛理は呆然として呟く。春日は寂しげな笑みを見せて言葉を重ねる。
「…そうらしいわね。文乃から将さんの身辺調査を頼まれて知ったって『彼』から聞いたわ。あの二人はお見合い前から出会っていて、付き合っていたそうね。でもね、私はそう言って傍で想っていてもその気持ちを気づかれなかった自分には勝ち目はないからって諦めようとしてたその『彼』に、あえて言ったの。『葉月はあなたに恋をしなかったんじゃなくって、あの子は『傷』のせいで、男女の面で睦み合う恋愛がどこかまだ汚くて生臭いものだって思っているから、小さい頃から一緒で誰よりも大切なあなたを、そんな汚い所に置きたくないだけよ。でも、もしあなたが本気であの子を愛しているなら、あの子を傷つけるのを覚悟でその汚い所に飛び込んで奪いなさい』ってね。私は知っていたから。あの子が『彼』の事を、恋愛とかを全部飛び越えた次元で大切にして…そういう意味で愛してるっていう事をね。それでも『彼』はしばらくの間、あの子を傷つけるのはどうかって躊躇ってたみたいだけど…その後を見守っていて、結婚を延期したのはあの子だったとしても、将さんのあの子の扱いは自分が傷つけるより酷いって腹に据えかねたみたいね。あえて婚約も何するものぞって奪いに行っているみたいだわ、今は」
「でも…おばあ様は…それでいいんですか?そうやってあの…二人が葉月さんを取り合ったら…二人はともかく、その…葉月さんが…苦しむんじゃ…」
 瑛理の言葉に、春日はまた複雑な笑みを見せて応える。
「そうね…現に今も苦しんでいるわね。でもね、何も知らないまま何の疑問も持たないで将さんのために『これ』に袖を通していたら、葉月はきっとその後後悔して、もっと苦しんだと思うの。『彼』の想いと、自分の中の『彼』への想いにその後で気づいてね。でも今なら、こんな事を言ったら将さんには申し訳ないけれど…もし『彼』への気持ちの方が大きくなって振り向いたとしても、やり直しがきくわ。もちろん悩んだ末に、そのまま将さんのために『これ』に袖を通したっていい。そうして苦しんで…傷ついても、そうやってちゃんと傷ついた上で、後悔しない道を選んでほしいの。私はあの子に」
「おばあ様…」
 何も言えなくなった瑛理に春日は複雑な笑みを見せたまま、静かにまた花嫁衣装に視線を落として呟く。
「あんな…『事故』さえなければ…こんな風に色々な糸が絡まる事は…なかったのかもしれないわね。けれど、きっと…あの子にはこうなる事が…必要だったのよね。そう思わなきゃ…それに、ちゃんと苦しさを乗り越えれば、その苦しさの後に…将さんと『彼』…どっちを選んでも、それぞれ違った形の幸せが、あの子にはちゃんと待っているっていう事も…分かっているし」
 春日の言葉に分からない部分がある事に気付いて、瑛理はそれについて問いかける。
「おばあ様…その『事故』って…何ですか?」
 瑛理の問いに、春日は哀しげに微笑んで答える。
「ごめんなさいね。ここまで言っていて何だけど…その『事故』の事は、簡単には口外できない話なの。『彼』はもちろん、将さんも全部知っているけれどね」
「…そうですか」
 そういえば、以前『彼』も何やら『中学の時の事』という話を『『昔話』だから聞き流してくれ』と濁していた。多分その事なのだろう。口外できない『事故』の話。自分も似た『過去』を持っているが故に、それが『事件』かそれに近い事だろうとは、うっすらとだが察する事ができた。葉月にも、そんな何か自分の様な痛ましい事が過去にあったのか――そんな事を考えて何も言えずにいると、春日は花嫁衣裳を丁寧にしまい、改めて箪笥に鍵を掛け直すと、瑛理に向き直って静かに言葉を紡ぐ。
「話を戻すけど…だから、こうやって縁ができた盾野さんにも…もしまだ着る機会があるなら、『あれ』を着て欲しいと思ったの。ずっと幸せを待っていて…色々な人の幸せを願う思いが込められた品だから…きっと『あれ』を着る女性は幸せになれると思うから。…どうかしら」
 春日の想いがよく分かるその提案に、瑛理はふと葉月と不知火の事を思う。これを着て自分と不知火が幸せになれば、その幸せが更に重なって、葉月も相手が土井垣と『彼』どちらであっても、その幸せが確かになるのではないか――そう思えた時、瑛理は静かに頷いていた。
「…わたしにも、そうした約束をした大切な人がいるので…もし、叶うなら…お願いします…でも」
「でも?」
「おゆき…いえ、若菜さんはいいんですか?わたしよりずっと、葉月さんとは縁が深いのに」
 瑛理の言葉に、春日は悪戯っぽい笑みを見せて応える。
「若菜ちゃんは自分の花嫁衣裳がちゃんとできるの。言ってたでしょ?彼女はおばあ様が着道楽だったって。咲耶さん…おばあ様の名前ね…は、若菜ちゃんのためにって花嫁衣裳を仕立てるお金と結婚する時に仕立てなさいっていう遺言を残していてね。後は仕立てるために、その『相手』が日取りの腹を決めるだけなのよ」
「そうなんですか…それに」
「それに?」
「本当にわたしがあの衣装に袖を通して、葉月さんの相手が『彼』だった場合…わたしの『相手』は、土井垣さんの元後輩ですから…もれなく土井垣さんにわたしの『彼』は殴られてしまいますね」
「まあそうなったら、その辺りはうちの『彼』に身代わりのサンドバッグになってもらいましょう。それ位は葉月をもらう対価として覚悟ができているはずよ」
「そうですか」
 そう言うと二人は笑いあう。そうして春日が『お茶をいれましょう』と言ってお茶をいれ、お茶菓子の煎餅と共に口にしていると葉月と若菜が帰って来た――