そうしてやはり若菜に対する心配があったのか彼は早朝に目を覚まし、彼女のための病人食と葉月に頼まれた湯冷ましを作り自分も軽く朝食を摂った後、土井垣達を待つ。約束通り8時頃インターホンが鳴り、土井垣と葉月がやって来た。義経は二人に挨拶と礼の言葉を述べる。
「監督、宮田さん、おはようございます。それから、今日はありがとうございます」
「かまわんさ。言ったろう?俺はお前の監督だし、乗りかかった船だと。さあ、神保さんを迎えに行こう」
「はい」
 そう言うと三人は土井垣の運転で昨日の病院へ足を運ぶ。病院へ着くと、義経は飛ぶ様なペースで若菜の病室へ直行した。病室に入ると若菜はもう起きていたが、やはりまだ熱が下がっていないのかぼんやりとした表情でベッドに横座りになって、背のパイプにもたれかかっている。すぐ目の前にある床頭台に配膳された朝食はほとんど手が付けられていない。その二様を見て彼は胸が更に痛み、すぐに彼女の所へ寄っていくと、隣に座り肩を抱き寄せながら静かに問いかけた。
「若菜さん、全く食事ができていないじゃないか。…昨日は眠れたのか?」
 急に抱き寄せられて若菜は驚いた様に一瞬硬直したが、すぐに彼の香りと体温だと気付いて安心したのか身体の力を抜いて彼に寄り添うと、熱がまだあるせいか消え入りそうだったが、彼には分かる程度の声で言葉を返す。
「いいえ。…少し眠ったらすぐに目が覚めて…いけないって思ったけど…光さんがいないのが急に寂しくなって、後はうつらうつらしただけ。…ごめんなさい、私自身がしっかりしないといけないのに…」
「いや…病気の時は誰でも心細くなるから、やっぱり付いていたか…連れ帰った方が良かったかもしれないな。…まあとにかく、食事をとって帰ろう」
「いいえ、熱のせいかしら…あんまり食べたくないの。…もう今はいいわ」
「そうか…じゃあ、もう家に帰ろう。それで、食事も用意してあるし帰るまで宮田さんに世話をしてもらうから…俺が帰るまでゆっくり寝て…少しづつ食べたくなったら食べればいい。ちゃんと俺は役目を果たした上で、すぐに帰って来るから」
「…はい」
 そう言って義経は膳を戻し若菜を立たせると、支える様にして帰りの診察があるので外来まで一緒に歩こうとする。しかし彼女は熱と貧血があるせいか平衡感覚が明らかにおかしい。その様子に気づいた義経は、持っていた荷物を葉月に渡すと若菜を抱き上げた。彼女は試合前の彼にこんな事をさせては良くないと降りるために力なくもがきながら口を開く。
「だめです…試合前にこんなことしたら…よくないです…わたしは…じぶんであるけますから…」
「いいんだ。短い時間だし、俺は曲がりなりにも山伏だ。これ位でどうかなる事なんかないから。それより無理をしてあなたが余計な怪我をする方が俺は心配だ。だから…おとなしくしなさい」
「…」
 義経にぴしりと言われて、若菜は困った様な嬉しい様な複雑な表情を見せておとなしくなった。その二人のやり取りを見て土井垣と葉月は苦笑しながら付いていく。そして外来に着き、義経が若菜を待合の椅子に降ろして彼女を寄りかからせながら自分も座ると、土井垣と義経に気が付いた何人かの患者がちらちらとこちらの様子を伺っている。しかし義経は全く気にしていなかった。確かに籍を入れていない関係。しかしそれは家同士で名字をどうするかの話し合いが着いていないだけで、自分達は話がつけばすぐに入籍する親も認めた恋人というより、内縁ではあってももう夫婦であり、彼女は最愛の女房だと自分は思っている。この事がきっかけで何を書きたてられようが構わない。何か言われたら正直に話して理解を得るだけだ――そう思いながら彼は熱で脱力してもたれかかる彼女を抱き寄せて診察の順番を待った。しばらくして彼女の名が呼ばれ、今度は診察室のドアもあるので彼は彼女を支えながらゆっくり歩かせ、共に診察室へ入る。中には上村医師がいて今朝の体温と血圧測定の結果を見つつ、改めて彼女の身体を全体的に診ていくと、言葉を紡ぐ。
「とりあえず少し熱は下がったがそれでも39度。血圧は少し回復したかな。でもその様子だと多分しばらくはこの位の熱が続くと思う。言った通りとりあえずの診断は過労と貧血の疑いだから栄養と休養が主な治療だが、後身体をよく冷やして水分…なるべくしばらくは自作できる補水液か、面倒ならスポーツドリンクでもいいけど…を多めにして、飲める限りたっぷり摂らせて。でないと脱水症状を起こすから。もし飲めずに脱水症状起こす様なら自宅療養は無理だから、辛くても入院治療に切り替えだ」
「はい、分かりました」
「それから言った通り血液検査の精密な結果は月曜日の午前中に出るから、午後辺りに二人で一緒にいらっしゃい。その時の結果で加えて必要な治療の指示を出すから。確かオフだったよね」
「はい」
「最後に今の時点で出す薬は、とりあえず頓服の解熱剤だ。39度を越す限りは最低6時間空けて一日二回まで飲ませて。ただ38度台まで下がったら身体が辛くない限り飲まなくてもいい。本来熱っていうのは抵抗力が働いてるって証拠で、上がりすぎなければむしろ自然のまま熱を出させてあげて、彼女の体力を回復させる事で熱を下げるのが一番で、薬は上がり過ぎたりそれで体力を落とさない様にするための補助でしかないからね。処方箋を出すから行きやすい処方薬局でもらいなさい」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあ診察終了。とにかく食べて休んで体力を戻しなさい。義経君はそのフォローを周りに助けてもらいながらでも怠らない事。二人とも無意識に分かっている様だけど自覚する様に改めて言うよ。奥さんが病気や怪我をした時こそ旦那さんの真価が問われるんだよ。ちゃんと奥さんを支えて、奥さんはそれにちゃんと甘えなさい。旦那さんを支えるためって無理ばかりして病気になって、しかもそれまで我慢は二人のためによくないんだからね」
「…はい」
「…分かりました」
「おっと、説教臭くなっちゃったね。でも私が見ている君達の様子ならちゃんと乗り越えられる。これをいい経験にして、お互いをもっといい関係にしていきなさい」
 そう言うと上村医師は二人を送り出した。義経は彼女をやはり抱え込んで支える様に歩かせると、一旦葉月に託して会計を済ませ診断書と処方箋を受け取り、葉月に渡して再び若菜を抱き上げて運び、土井垣の車に乗せる。そして土井垣の運転でマンションに辿り着くと彼女をまた抱き上げて車から出し、土井垣が近くのコインパーキングに車をいれたのを確かめて葉月と土井垣と共にマンションへ入る。マンションへ入ると丁度そこにいた二人と面識のある主婦が四人を見て驚いた様に声を掛けてきた。
「まあ義経さん、奥様抱いて…それにそちらは監督さんだったはずだけど…もう一人女性連れ?どうなさったの?」
 義経はその主婦が噂話好きだと知っていたので『厄介な相手に会ってしまったな…』と思ったが、後ろ暗い事は何もないのでにこやかかつ正々堂々と対応する。
「おはようございます。実は昨晩妻が熱を出しまして。今病院から連れて帰って来たのですが、歩くのもおぼつかないので僕が運んでいるんです。それからこちらの女性は僕と妻の友人で看護師です。僕が今日と明日試合で彼女が丁度休日だったので、いない間の看病を頼みました」
「まあ…『お友達』…そう…」
 その口調と表情で何やらよからぬ想像をしているなと思って義経は不快な気持ちになったが、これ以上何か言える事もないしどうするか考えていると、その雰囲気を察したらしい葉月がいつもの優しい微笑みだが、そこに普段はあまり見せないきりっとした雰囲気を加えてはきはきと畳み掛ける様に言葉を重ねる。
「初めまして、M区にあるみなと病院の保健師で宮田と申します。確かにわたくしは今義経さんに紹介された通りお二人の親友ですが、義経さんとの関わりはむしろこちらにいる土井垣監督の許嫁という事からです。そういう訳でこの人の体調管理も任されている事もあって、この人から事情を話されて親友でありチームメイトの奥さんでもある彼女のピンチを助けてもらえないか、と頼まれまして。親友のためもありますが、ナースとして困っている病人を助けるのは私の使命だと思いお受けしました。看護のためにこちらで滞在する間何かとご迷惑をかける事があるかもしれませんが、よろしくお願い致します」
「そ…そうですの、こちらこそよろしくお願いします。…義経さん、奥様どうかお大事になさってね」
 その葉月の微笑んではいるが迫力のある雰囲気と畳み掛ける言葉で主婦は引き気味になり、そそくさと去って行った。それを見て土井垣はふっと笑うと葉月の頭を撫で口を開く。
「さすが『微笑みの夜叉姫』。仕事に関しての邪推は許さないな」
「私は仕事絡みで何か変な勘繰りされるのが一番嫌ですから…っと、早く部屋にお姫を落ち着かせましょう。買いに行って欲しい物もありますから」
「ああ」
 そう言うと四人は義経の部屋へ直行し、葉月は若菜をとりあえずパジャマに着替えさせベッドに寝かせると、できていた湯冷ましに塩と砂糖を入れて当座の補水液を作り若菜に与えた。若菜は少しづつゆっくり飲み干すとベッドに沈み込む。それを確認して葉月は義経に作って来た『リスト』を渡して中身を説明する。
「とりあえずこれが補水液の作り方と、最低限必要なものです。タオルとかはたくさんあるでしょうから出して下さい。後体温計とか氷枕とか氷嚢とかスポーツドリンクはこの近所に薬局と並んで大きなドラッグストアがあったの見ましたから、薬もらいがてらそこで聞いて買って来てください。氷は足りなければ食用なんでもったいないかもですが、徳用の物がスーパーとかコンビニで買えますから」
「ああ。じゃあ集合時間の事もあるからすぐに行ってくる。監督、手伝ってもらえますか」
「ああそうだな。分担すれば時間も短縮できるだろう」
 そう言うと二人は歩いて5分ほどの薬局へ向かい、義経は代理で受け取る事になったため内縁関係ゆえに手続きで少し手こずったものの何とか薬をもらい、その間にタイムロスを減らすために土井垣に頼んで葉月のリストにある物を買い込んでもらった。そして家の冷蔵庫は小さく氷が少ないので、言われた通り帰り道にあるコンビニで氷を三袋程買い込み、帰った後バスタオルを何枚かとフェイスタオルを多目に出して若菜の枕元に置く。その間に葉月は買って来た荷物から氷枕と氷嚢の準備をして、若菜を一旦起こして出された薬を飲ませもう一度寝かせると若菜の頭と腋を冷やした。
「…とりあえずはこれでひと段落です。後はゆっくり休ませてあげて水分と食事を少しづつ摂らせます。で、そのお姫の食事は…」
「そこにある鍋に卵粥を作っておいた。まずは消化のいい物だろうと思って。とりあえず昼・晩と二食分はあるが、若菜さんが食べられるだけ温め直して食べさせてやってくれ。…っと、宮田さんの食事の事を忘れていた」
「ありがとうございます。私は大丈夫ですよ。多分お姫の事で頭一杯だろうと思ったから、お弁当作って持ってきてます。ただ、途中で食事以外に間食摂るとしたらガスとか電子レンジ位は借りるかもしれませんがいいですか?」
「ああ、それは構わないが…むしろすまない、忘れていて。明日は用意するから」
「お気遣いなく、自分が食べたい物を食べますから用意はなくて平気です。…さあ、それよりそろそろ試合に行かないと。遅刻したらいけません」
「ああ、じゃあ行ってくる。お前は帰りにこいつを送りがてら俺が連れ帰るから」
「ありがとう、将さん」
「じゃあ、行く前に…若菜さんと話していいか」
 義経の想いの籠もった言葉に、葉月は優しく微笑むと、頷いた。
「少しなら話してもいいですよ。きっとお姫もその方が喜びます」
「…そうか」
 そう言うと義経は寝室に入り若菜の枕元へ行き、相変わらず浅くか細い呼吸で眠っている彼女の額を撫でながら囁きかける。
「じゃあ…行ってくる。ちゃんと結果を残して勝ってくるから…良く寝て、なるべく食べて…帰ってくる頃にはもう少しでも楽になっている事を願っている」
 義経の囁きに若菜はふっと目を開けると、弱々しげだがそれでも優しく微笑んで囁き返す。
「ええ…私もがんばるから…光さんも勝ってね」
「ああ。…そうだ、何か食べたい物はないか?帰りに買ってくるから」
「そうね…グレープフルーツとか…甘みが少ない果物なら少しは食べられるかも」
「そうか、分かった。じゃあ…行くから」
「…はい、待ってます。…行ってらっしゃい」
 そう言って微笑んだ彼女に義経は不意に顔こそ若菜そっくりだが、彼女ではない束髪崩しの少女の微笑みが幻の様に重なって見えた気がした。その幻を見た時、不意に昨夜遭遇した学生姿の『物の怪』が自分の中から浮かび上がる感覚と同時に、若菜の体調は心底から心配なのに、同時によく分からない幸福感も覚える。まるでその『物の怪』が自分で、その幻の少女をずっと探していてやっと出会えた事を喜んでいるかの様な――そんな奇妙な感覚を覚えながらも、その喜びに流された感覚と彼女を元気づけるためにという感覚半々で義経は彼女に軽くキスをした。彼女は戸惑いながらもそれを受け、幸せそうな微笑みを見せた後『さあ…行かないと』と彼を促す。義経はその彼女の気丈な送り出しに、今までの感覚を振り払って自分を律すると、その自覚を見せる様に彼女にいつもの野球選手としての芯の強い微笑みを返し、寝室を出て土井垣と試合場所へ向かった。