――桜が舞い散る人気のない丘らしき所で、海老茶式部の少女が哀しげに微笑んで佇みこちらを見詰めている。その顔は――朝見た幻と同じく、若菜そっくりだった。そしてその『若菜』を見詰め返し佇む『自分』もあの時の『物の怪』と同じ学生服に学帽にマントという姿。一体これはどういう事だ――?昨夜と同じくこれは自分が見ている夢だとは何となく分かったが、どうしてこんな夢を見るのだろうと思いつつ、『自分』が『彼女』を見詰めていると、『彼女』が哀しげに言葉を紡ぎ出した。
――…縁談が決まりました。女学校も中退してすぐに輿入れだそうです。…もう、あなたとこうしてお会いできなくなります――
――…そうですか。分かっていた事ですが、とうとう…『この時』が来てしまいましたね――
『彼女』の言葉に『自分』が自然と言葉を返している。『義経光』としての意識は現状に狼狽しているのに、夢の中の『自分』はあくまで冷静に彼女に対している。どういう事だろう――?その二つの心に揺れながらも『彼女』との会話は続いていく。
――それで、その相手とは…――
――新興実業家の方だと。…でもわたくしより二周り以上年上で、あまり人格的にも…女性関係でも…よい評判は聞きません。わたくしを望んだ理由も…没落した身とはいえ一応持っている華族の身分が欲しいだけで、わたくしについて望まれる事は、飾り程度にはなるこの容姿と立ち居振る舞い、何より子を産むための身体だけだとも分かっています。…おそらく嫁いだら、わたくしは夫の女遊びに傷つきながら華族の身分とこの身を飾りにされ…男子を産んだ後は用がなくなり、もし産めなければ別の女性の子をわが子と偽って育てる以外には打ち捨てられる、人形の様な『実業家夫人』として生きなければならないでしょうね――
――そんな…!あなたはそれでいいのですか――
――…仕方がない事です。これがわたくしに…いいえ、女に課せられた運命だと分かっています。ですからその道は受け入れます。他の強い女権活動家の方達の様に運命に逆らう事は、わたくしにはできない事も分かっていますから。…ですが…覚えていて下さい。わたくしは今までのあなたとの逢瀬で語り合い、共に過ごした日々を胸に秘め、その日々をこれからの人生の支えとして…たとえ、形の上では嫁いで、その方の子を成して生きたとしても…そうしてわたくしの心は、ずっとあなたに捧げます。あなたが、たとえ他の方を愛して、その方を迎えられて、新たな人生を歩まれても、いつかこの身が無くなって生まれ変わっても…あなただけに――
――…僕は…あなたと一緒になれないのですから…誰も娶りません。僕の心も、生涯…いいえ、あなたと同じ様に生まれ変わっても、あなただけに捧げていますから――
――いいえ、そんな事はおっしゃらないで下さい。あなたはわたくしの様になってはいけません。ちゃんとわたくし以外の誰かを愛して、その愛と幸せを糧にして…持っている暖かで素晴らしい文才を開花させて世に出て下さい。あなたなら必ず大成できます。勝手だとは分かっています、それでも…あえてお願いします。何故なら…そうすれば、たとえ嫁いだ身でも…その作品を通してあなたをずっと…わたくしは見詰めていられますから。あなたの愛が込められ、紡がれた作品が…これからわたくしが『人形』として生きていく中で、『人』としての心をなくさないための…たった一つの支えになるのですから――
――……分かりました、約束します。ですから、どうかあなたも僕自身がこの身を憎む様に…今こうなってもあなたを奪って逃げる事ができない情けない僕を、憎んで下さい。…でも…それでも…この最後の逢瀬だからこそ…僕の望みを叶えて下さいませんか。…身勝手だとは分かっています。でも、それでも…あなたとの日々を、この身と心に永遠に焼き付けたいのです――
――はい。わたくしも…同じ気持ちです…最初で…最後だからこそどうか、あなたに――
そう言うと『少女』は『自分』に近付いてきて、両腕を自分に差し出す様に伸ばす。『自分』はその腕を引き、胸に抱き寄せると深く口づける。そこで桜吹雪が自分達を覆い隠し、何も見えなくなった――
義経は目を覚ますと、今しがた見ていた『夢』を思い、また不思議な気持ちと哀しさを覚える。昨夜の夢と同じく何故か妙にリアルな既視感と哀しみ。たかが夢、と切り捨ててしまえばいいのに、何故かそうできない自分がいる。何より、どうして自分と彼女そっくりの人間が出てくるのだろう。夢ならばそんな事関係ないはずなのに――そんな奇妙な感覚に戸惑っていると、不意に自分の胸に熱を感じる。見るといつの間にこうしていたのだろうか、自分の胸の中に若菜がいた。その熱を持った身体と浅くか細い息遣いに彼は胸が痛みつつも、彼女が自分の胸の中にいる事にふと幸福感を覚える。とはいえこの身体の熱さだとまだ熱が下がっていないとすぐに分かったので彼女が辛いのではないかと心配になり、そっと起こす様に声を掛けた。
「…若菜さん、こんな風にしていたら下がる熱も下がらない。ちゃんと一人で寝なさい」
彼の言葉に、彼女は目を閉じたまま一筋涙を零して呟く。
「…いや」
「若菜さん」
「…おねがい…もう…離れるのはいやなの。…わたしを…はなさないで…」
「…」
彼女の言葉に、もしかして自分と同じ夢を見ていたのだろうかとふと思ったが、すぐにそんな事は今はどうでもいいと思い直す。彼女が自分から離れたくないと言っている。その言葉が表す心が切なくもあったが、同時に彼女のその心で自分の魂が不意に満たされた気がしたからだ。その心のままに彼はベッドから氷枕を降ろして彼女の頭を乗せると改めて抱き締め、耳元に囁いた。
「ああ、あなたを離したりはしないから。…せめて…これは使いなさい」
「…はい」
彼女は幸せそうに微笑むと、氷枕に頭を乗せたまま彼の胸に顔を埋め、浅い呼吸だが寝息を立て始める。彼はそれを確認して、もう一度眠りに就いた――