翌朝、義経が目を覚ますと胸の中にいる若菜のパジャマがじっとりと濡れていた。葉月が言った通り、眠っている内に汗をかいたのだろう。顔色もだいぶ良くなっているし、額に手を当てると随分熱も下がった様だ。しかしこんな恰好をさせたままでまた熱が上がったら大変だと思い、彼は彼女をそっと揺り起こす。
「若菜さん…起きなさい」
「…ん…ああ、光さん…おはようございます」
「汗を随分かいたみたいだ、このままだと冷えてまた熱が上がるかもしれないから着替えよう。後…汗を流すためにシャワー程度は浴びた方がいいかな」
「え?……本当だわ。じゃあそうね…そうするわ」
 そう言って目を覚ました若菜は起き上がって着替えを出しバスルームへ行こうとするが、熱は下がったものの身体に力が入らないのか、そのままふらついて座り込んでしまった。それを見た義経は慌てて彼女に寄って抱きかかえると、静かに声を掛ける。
「…辛いのか?」
 義経の言葉に若菜は困った様に微笑みながら応える。
「大分…辛さは減ったんだけど、急に身体から今までより力が抜け始めて…」
「…そうか」
 義経は彼女の言葉に少し考えると、照れくさいのか躊躇いがちにぼそりと口を開く。
「もしかすると熱を下げた分体力が取られたのかもしれないな。だとすると…今はまだ風呂は逆に危ないか。なら…とりあえず濡らしたタオルか何かで…身体を拭くだけの方がいいかもしれないな。若菜さんは恥ずかしいかもしれないが…俺も手伝うから」
「…」
 若菜はその言葉に顔を赤らめて俯いたが、やがて俯いたまま消え入りそうな声で応える。
「…お願いします」
「…そうか。なら…今支度するから、あなたはそれまで寝ていなさい」
「…はい」
 そうして二人は照れくさくなりながらも義経は洗面器に少し熱めのお湯を張ると寝室に持っていき、置いておいたタオルを使い身体を拭く用意をして若菜に声を掛ける。
「とりあえず…背中と腕だけ俺が拭くから…後は自分で大丈夫か?」
「はい…大丈夫です」
「じゃあ、すぐに終わらせるから…恥ずかしいだろうが、上だけ脱いでもらえるか」
「…はい」
 そう言うと若菜はベッドから降りて床に座ると彼に背を向けて、躊躇いがちにだが静かにパジャマの上着を脱ぐ。苦しくならない様に下着をつけていなかったのか、すぐに上半身のみとはいえ透き通る程白く華奢な裸身が露わになり、義経はほんの少し戸惑いながらも、まずは汗を拭かなければと湯でタオルを固く絞り、彼女の背中と腕を拭いていく。
「…熱くないか?」
「大丈夫、丁度いいくらいだわ」
そうして義経は身体を拭いていったが、元々華奢な彼女だがこうして改めて気遣いながら直に見て触れていると明らかにやつれている事が分かり、戸惑いは戸惑いとして、心配と週末だけとはいえ頻繁に一緒に過ごしていたのにこうなるまで気づかなかった自分の無神経さを後悔しながら呟く。
「随分…やつれていたんだな。あれ程一緒にいたのに…全く気づかなかった」
 義経の言葉に若菜は宥める様に返す。
「…そうかもしれない。でも、きっと今だけよ。…熱が下がってまたちゃんと食べればすぐに元に戻るから。大丈夫」
「そうあって欲しいが…この所仕事も大変そうだったし、結果こうして過労になったのだから…おそらくそれも関係しているんじゃないか?前俺があなたに言われた言葉を返す。『『自分の身体は自分が一番よく分かっている』とは言うが、本来は外から客観的に観る事も必要』なんだろう?俺に言うばかりではなく、あなた自身もそうしなければ。いくら元気でもペースは考えてくれ。仕事を辞めろとは言わないけれど…無茶な仕事の仕方はしてはいけない。あなたのためだけじゃなく、俺のためにも…誰よりあなたを待っている町の皆のためにな」
「…そうね」
「…よし、拭けた。じゃあ後はあなたに任せるから、自分で身体を拭いて着替えなさい。終わったら片づけるから呼んでくれ。その間に俺は朝食の下ごしらえをしているから」
「はい。…ごめんなさいね、本当なら私が支度しないといけないのに」
「あなたは病人なんだから休むのが仕事だよ。気にせずゆっくり休みなさい」
「…ありがとう」
 そう言うと義経は寝室を出て朝食の下ごしらえをする。下ごしらえが終わった頃に着替えた若菜がゆっくりとだが洗面器とタオルを持って寝室から出てきて、彼に渡した。
「…ありがとう、終わったわ」
「そうか。じゃあ片づけるから…あなたはベッドに戻って熱を測りなさい」
「ええ、でも…その前に、着ていたものを洗濯機にかけるわ。洗濯だけなら機械がやってくれるし全部乾燥機にかけても大丈夫なものだから…休み休みできるし」
「そうか…でも無理はしない様にな」
「はい」
 そうして義経が片づけをしている間に、若菜はゆっくりと下着などを下洗いして着ていた物とランドリーボックスに入っていた彼の洗濯物を洗濯機に入れて洗濯を始め、改めて熱を測る。熱は37度6分まで下がっていた。
「まだ少し高めだが…微熱程度まで下がったな。じゃあ俺がロードワークから帰って来るまでまた寝ていなさい。後言われた通り午後病院に行くから、それまで無理はしない様に。洗濯も辛い様だったら、恥ずかしいかもしれないがそこから俺に任せる事」
「はい、じゃあ行ってらっしゃい光さん」
「ああ」
 そう言うと義経は朝のロードワークをこなす。若菜の事が心配であったからかいつもよりペースが速くなり、若干早めにいつもの距離を走り終わった。そうして戻ってシャワーを浴び、下ごしらえが終わっていた朝食の仕上げをしていると、彼女がやって来て手伝おうとする。彼は無理をさせてはいけないと止めるために声を掛ける。
「若菜さん、いいから。下ごしらえもできているし、朝食位なら造作もない。寝ていなさい」
「いいの、手伝いたいの」
「でも」
「少しづついつもの生活に戻したいの。辛かったら言うから…手伝わせて」
「…」
 若菜の気遣いと少しでも早く身体を回復させたいという願いが込められた言葉に、義経は何も言えなくなり、しばらくの沈黙の後、諦めた様に口を開く。
「…仕方ないな。じゃあゆっくりでいいから手伝ってくれ。でも本当に辛くなったらやめなさい」
「…はい、ごめんなさいわがまま言って。…でも、聞いてくれてありがとう」
 そう言うと義経は若菜の身体に負担がかからない簡単な仕事を彼女に与える。彼女も彼の気遣いが分かっているため何も言わず彼に従う。そうして朝食が出来上がり、二人はキッチンで食べる。ご飯もお茶漬けにして昨日よりは増やしたものの、まだ普段の彼女の食事量より更に若干少なめに用意した朝食。若菜は随分ゆっくりとだがそれでも全部食べきった。それを見て彼は嬉しくなり声を掛ける。
「…まだいつも通りとは行かないが…大分元に戻って来たな」
「そうね。もう少しして普通の量食べられたら、体力も戻って全快しそう」
「でも無理をしたら逆戻りするかもしれないから、休み休みでな」
「はい」
 そう言うと二人はお茶を飲んで義経が後片付けをする間に若菜が洗濯物を乾燥機に入れ直し、彼はまた彼女をベッドへ戻すと、昨日と同じく枕元に座って優しく声を掛ける。
「じゃあ、もうしばらくここで楽にしていなさい。俺も…ここにいるから」
「…はい」
 そうして二人は彼女が疲れない程度にゆっくり話しながら時を過ごし、乾燥機が止まった所で彼女は乾いた洗濯物を片付け着替えると、彼に言葉を掛ける。
「ねぇ、少し早いけど…少し外の空気が吸いたいから、病院に向かいましょう?お昼はおそばとかなら食べられると思うし、途中の駅でゆっくり休みながら行けば…大丈夫だと思うから」
 彼女の言葉に彼は少し考え込んでいたが、この辺りから病院までの地理を思い出しながら今までの彼女の様子と考え合わせ、少し困った様な笑みを見せながら言葉を返す。
「…少しだけ心配もあるが…確かに、病院までの道のりなら駅の他に途中にいくつか公園もあったし…何とかなるかな。ただし、途中で少しでも調子が悪くなったらタクシーを使うから、その時は正直に俺に言う事。それだけは約束してくれ」
「はい」
 彼女は自分を気遣いながらも、その気持ちを考えて希望を何とか聞き届けようとしてくれる彼の返答が嬉しくて優しく微笑むと素直に頷き、二人で病院へ行く支度をしてゆっくり寄り添いながら最寄りの駅まで歩く。初夏から夏に移り変わる時期だからか少し気温が高い様な気がするが、その代わり涼しく爽やかな風が吹いているため、彼女が望んでいた外気を思い切り吸い込める事と合わせてその風は熱が高めの彼女にとっては逆に身体が楽になるらしく、気持ちよさそうに風を受けながら微笑み、彼に身体を預ける様な形で寄り添いながら歩いている。そんな彼女の様子が身体の事は心配ながらも可愛らしく、愛おしくて、彼は自分に身体を預けている彼女を更に引き寄せる様に肩を抱きながら歩を進め、途中の公園のベンチで一休みがてら二人でスポーツドリンクやお茶を共に飲み、電車に乗り病院の最寄駅で降りると途中の蕎麦屋で昼食をとる。彼女は頼んだ蕎麦をほんの少しだけ彼に分けたものの、自分で言った通りほぼ全て自分で食べきった。彼はこうしたさっぱりしたものとはいえ彼女がちゃんと食事をとれるようになった事が嬉しくて微笑む。彼女もそんな彼の微笑みの意味が分かっているのかやはり嬉しそうな、そしてそんな笑みを見せてくれる彼がいる事に対する彼女自身の幸せを伝える様に恥ずかしげにはにかむ様な笑みを返した。そうして食事を終えた後病院に足を運び、外来の受付をして診察を待つ。そしてしばらくした所で彼女の名前が呼ばれ、二人で診察室に入ると上村医師が柔らかな笑顔で出迎えた。
「…うん、熱はまだある様だけれど大分回復したみたいだね。じゃあまず診察をさせてもらうよ」
 そう言うと上村医師は手際よく視触診をしていき、血液検査の結果と照らし合わせながら状態を二人に説明していく。
「うん、血圧も112の70に回復してるし、呼吸音も心音も大丈夫。リンパの腫れもまだあるとはいえ引いてきたみたいだ。…で、血液検査の結果なんだけど、熱が出ていた事もあって炎症反応の数値が高いのと、肝機能や白血球数が若干上がってるかな。でもこの辺りはあの状態だったから回復した後下がれば問題はないと思う。で、やっぱり赤血球数とか血色素とか鉄とか貧血関係の数値が低いね。今見たら目の粘膜の色がやっぱり白いし、根本的な問題はこっちかな。あなたのその体型だと元々小食ならそれもあっての貧血もあるだろうけど、それは考えないとしたら普段の健康診断の時もこの位かな?」
 上村医師の問いに、彼女は少し考えた後応える。
「いいえ。確かに低めではあったとは思いますが、検査で何か言われる程ではなかったはずです」
「だとすると…数値がこれだけ下がってるって事は、何らかの病気が隠れていない限りは…疲労やストレスから一時的に下がった可能性があるな。やっぱりしばらく貧血に関しては治療も含めて経過観察が必要だと思う。一旦今の状態に合うだろう薬を出すからそれを飲んでみて、来週もう一度検査のために来てもらえるかな。この様子なら来週には多分最低限熱は下がってると思うからその時の結果で今後の詳しい治療や経過観察の指示と、かかりつけ医への紹介状を出せると思う。それでいいかな」
「はい、お願いします」
「じゃあ診察終了。ただ、まだ油断はできないから熱と過労に関しては完全に回復するまで無理はしない事。貧血の事もあるし、睡眠と栄養はいつもより多めに取りなさい」
「はい」
「ありがとうございます」
 二人は上村医師にお礼を言った後診察室を出て会計を済ませ、また二人で寄り添いながらゆっくりと家路を辿る。やはり彼女は少しぼんやりした眼差しだが、それでも幸せそうに彼に身体を預ける様に寄り添っていて、彼もそうした彼女を労わる様に包み込んで歩く。二人はそうして歩きながらこうして自分達が何の障害もなく一緒にいられる事の幸せを噛みしめつつ、そう望んでも叶わなかった『かつての二人』を思い、ほんの少しの胸の痛みを心に覚えていた。

 そうして出された薬を薬局で出してもらい今夜の来客分も含めた夕飯の材料を買った後部屋に着くと、丁度葉月から彼に連絡が来て夜7時頃弥生達と四人で部屋に向かうと伝えられる。彼はそれに対して待っている旨を返し、また少し手伝う彼女と二人で夕飯を作り、皆を待つ。そして約束の時間頃四人がやってきて、弥生と葉月は渡された血液データのコピーを見ながら医師から話された説明を義経から聞いた後彼が詳しく聞きたい点を補足説明し、何かあったら連絡をもらえる様に言葉を重ねると、二人は客人四人に夕食を振舞い、話しながら共に食べる。若菜は少しづつ食欲が戻ってきた事に加え友人達と食べる楽しみで食が進むのか、やはりさっぱりした品が多めではあったもののほぼ普段と変わらない量を食べていた。そしてその後もしばらく談笑した後四人は二人にジュースや果物などの土産を置いて帰る。二人はそれを見送り、友人達の心遣いに感謝しながら食事の片づけをして風呂を沸かし、彼が入った後彼女もいつもより短時間ではあったが汗を流す様に入浴し、共にベッドに潜り込むと互いに心地よい眠りが訪れるまで取りとめもなく話し、眠りの世界へ入っていった。