「…それじゃ先生、駄目だって言うんですか!?」
「当たり前です。角膜移植をするには眼球摘出をしなければいけません。眼球は視神経が脳に直結しているため手術が困難だという事もありますが、何より目は腎臓など他の臓器と違って二つ揃って初めてその能力を発揮するのをお父さんなら良く分かっているでしょう」
「う…」
「ですから、技術はともかく医学倫理上生体の角膜移植は認める訳にはいきません。元来の通り、点眼治療を続けながらアイバンクの順番を待って下さい」
「いいや、それを待っていたら守の高校時代は終わってしまうかもしれない。私の事はかまいません、手術して下さい!」
「ですから、倫理上お受けする事ができませんと何度言ったら…」

 父親と医師の何度も繰り返されている言い争いを見詰めながら、不知火は小さく溜息をついた。父親の自分を思う気持は痛い程伝わってくるが、確かに、自分の今の状態を考えると母を亡くしてから自分を必死に育ててくれた父親に、自分と同じ思いをさせるのは辛かった。彼は言い争いをしている医師と父親を見ていられなくなり、自分の病室を出て内科病棟のある個室へ向かった。彼が個室へ入ると、電動式のベッドに寄りかかった彼より少し年上の青年が笑って迎え入れる。
「…やあ、守。その格好だとまた定期の入院検査に来たんだな」
「はい、誠さん」
「それに…お父さんと先生、また一戦交えてるだろ」
「分かりますか?」
「ああ、その様子を見れば分かるさ。伊達にキャッチャーやってないからな」
「そうですか」
 そう言うと二人は笑い合った。青年の名は大久保誠、白新高校の元キャプテンで、明訓高校の土井垣と勝るとも劣らないキャッチャーとして名を馳せていた男であったが、高校二年の秋、急に病に倒れ、こうして今長期の療養をしている次第である。表向きの病名は軽度の心疾患であるが、本当は悪性の心膜炎から悪化した心筋炎。それを偶然知った時不知火は暫く荒れたが、こうして笑顔で闘病する誠に力づけられ、自分もピッチャーとしての力を磨き上げる努力を更に怠りなくする様になった。二人は暫く笑い合っていたが、やがて誠が静かに言葉を紡ぐ。
「それにしても…夏の予選の話聞いたよ。残念だったな」
「ええ、山田にこの目の事がばれなければ勝てたかもしれなかったと思うと悔しいです…とはいえ、山田はこの目を義眼だと思ったみたいでしたがね」
「まあ、そう思われるのも無理はないな。そこまで角膜が白濁しちまったら一見じゃ普通の眼球だとは思わないだろうし」
「…ええ、もう点眼治療も限界に来ているみたいです。だから父さんも焦ってるんですよ」
 不知火の言葉に、誠は申し訳なさそうな口調で口を開く。
「…悪いな。余計な事を言った」
 誠の言葉に、不知火は取り成す様に笑いながら言葉を返す。
「気にしないで下さい、本当の事ですし。それに俺は父さんの気持ち、申し訳ないと思うのもありますが、感謝しているんですから」
 そう、不知火は父の親心に感謝していた。不知火一家は仲の良い家族であったが、ある日ドライブに出た時に、酒酔いの上わき見運転をしていた車と衝突し、父は愛する妻を、不知火は母親と自分の左目を失った。しかし父はその辛さのどん底から立ち上がり、男手一つで不知火を育て上げ、また彼の目の治療のためには努力を惜しまなかった。そんな父に彼は心からの敬愛と感謝を持っているのだ。そんな思いを持ちながらも、彼は口調を悪戯っぽいものに変え更に言葉を紡ぐ。
「…まあ、あそこまでいくとやり過ぎだって思う事もありますけどね」
「それもそうだな」
 不知火の言葉に誠は笑っていたが、やがてふと静かに口を開く。
「そうだ…もし俺が死んだら、俺の角膜をお前にやろうか」
「誠さん!」
 誠の言葉に不知火は思わず声を上げる。誠はそれにも動じず、静かな口調で続ける。
「俺の身体の事は俺が一番分かってるつもりだ…もう、長くない気がするんだよ…お前の目に俺がなれたら俺は死んでもお前の目として生きて、野球も続けられるし、たくさんの物が見ていける…だから、俺が死んだら俺の目をやるよ」
 誠の言葉に不知火は胸が苦しくなったが、それでも誠を励ます様に言葉を紡ぐ。
「何言ってるんですか、誠さんの病気は軽い心疾患でしょう?後遺症も残らないらしいですし、すぐ治りますよ。そうしたら俺とバッテリー組んでくださいよ。そうしたら左目なんか見えなくても最強のバッテリーになって、山田なんかすぐに蹴散らせます」
「そうだ…そうだよな」
「だから早く良くなって下さいよ。俺、待ってますから」
「…ああ」
 不知火の言葉に誠は静かに頷いた。気まずい空気が流れる中、不知火は話題を変える様に口を開く。
「それに、俺の左目の事だけじゃなくって、もう少し采配がしっかりしていたら…と思ってしまう俺は思いあがってますかね」
 不知火の言葉に、誠は苦笑して同意する。
「…まあ、俺もあの監督の采配は詰めが甘いと思う事良くあったから、その感想は無理ないと思う…そうだ」
「何ですか?」
 何かを思いついた様な誠の様子に不知火が問い掛けると、誠は提案する様に言葉を紡いだ。
「秋の大会はお前が監督をしてみたらどうだ?お前位才能あったら一年でもチームを引っ張れると思う」
「ええ?買いかぶりすぎですよ、誠さん」
「いいや、俺の目は確かだ。伊達にキャッチャーをやってないって言ったろう?」
「…はあ」
 誠は不意に真剣な口調になって、更に言葉を紡ぐ。
「今度監督が来たら、俺から頼んでおくよ。…守、お前ならできるさ」
「誠さん…」
 誠の言葉に不知火は胸が一杯になる。そうして暖かな沈黙が続いていると、不意にその沈黙を破る様な明るいソプラノの声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん、ただいま~!…あ、不知火さんも来てたんだ。こんにちは~」
 病室に入って来た制服姿の少女が明るい声で誠と不知火に挨拶する。彼女は誠の妹の真理子であった。
「お帰り、真理」
「こんにちは、真理子ちゃん。学校帰りなのか?」
「うん!お兄ちゃんに成績見せびらかしに来たの。ほら、見て見て」
 そう言うと真理子は誠の眼前に成績表を見せ付ける。不知火もそれを覗き込んで、二人は感嘆の声を上げた。
「すごいじゃないか真理子ちゃん!オール10に近いじゃないか。先生の個別評価も褒められてるし」
「真理、良く頑張ったな」
「えへへ…」
 二人の言葉に、真理子は照れた様な様子を見せ、更に口を開いた。
「ア・テストも完璧だったし、この頑張りが続くならどの高校も楽勝だって先生太鼓判だったよ」
「だったら白新も大丈夫なんだな」
「うん、でもあたし行きたい高校決まってるからそこに向けて受験勉強するつもりなの」
「その言い方だと…白新じゃないのか?」
「うん。お兄ちゃんと不知火さんには悪いけど、市内の県立高校に行くつもり。やりたい事も決まってるし」
「そうか…真理、お兄ちゃんが動けない間は頑張ってくれよ。お父さんとお母さんを頼むな」
「うん、そのつもりで頑張ってるんだもん。任せといて」
 そう言うと真理子は明るく笑って胸を叩く。兄妹のやり取りに不知火は胸が温かくなると同時に、軽い胸の痛みも感じていた。真理子の明るさは天性のものもあるが、何より兄の病気を知ってそれを悟らせないための作られた部分もあるからだ。不知火はそれを分かっているので胸が苦しくなる。しかしそうは見せない様に真理子に倣って明るい口調で彼女に声を掛ける。
「真理子ちゃん、頑張れよ。夢が決まってるんだったらそれに向かって突き進むといい」
「うん、不知火さんも頑張ってね。あたし、応援してるから」
「ああ」
 それから三人は楽しくしゃべりあった。この楽しい時間がいつまでも続く様に願いながら――

 そして数日後、退院する前夜不意に不知火は目が覚めて起き上がった。もう一度寝ようとするが何故か分からないが嫌な気分がして眠れない。眠気を誘う様にと病院内を歩いていたら、不意に内科病棟が騒がしい状態になっているのに気付いた。走り回る看護師、早足で歩きながら別の看護師に指示を出す医師、運ばれていく様々な機械――どうしたのだろうと近付いていくと、医師が入っていったのは何と誠の病室。何があったのか聞きたくて不知火は足早に歩いている看護師を捕まえて問い掛けた。
「看護婦さん、誠さんに何かあったんですか!?」
「あなたは誰です、お身内でもない方に話す事はできません!」
「俺は誠さんの高校の後輩です。お願いです、教えて下さい!」
 不知火の必死の頼みに、看護師は諦めたのか小さく溜息をつくと手短に答えた。
「大久保さんは容態が急変したんです、今ご家族を呼んでいます。言える事はそれだけです」
「何ですって!?」
 手短に答えた看護師は足早に去って行った。不知火は誠の病室へ急ぐ。そこでは酸素吸入器を付けられた誠が今まさに運ばれようとしていた所であった。
「ICUと輸血とオペ室の準備はいいな?」
「はい!」
「家族は?」
「今こちらへ向かっている最中です」
「とにかく緊急処置だ。持ち直すかどうかは患者の気力次第だが、とにかく全力を尽くすぞ!」
「はい!」
 ICUに運ばれていく誠を呆然と見送りながら、不知火は何故かこれが今生の別れの様な気がした。しかし彼はその考えを振り払う。昨日まであんな元気な笑顔を見せて話していたんだ。だから誠は絶対に持ち直す――不知火は祈る様な気持ちで病室に戻り、眠りに就いた――

 そして朝、退院の準備をしていた不知火は医師に呼び出された。呼び出された面接室に向かうと、そこには医師だけではなく、不知火の父と誠の両親、そして真理子が同席していた。彼は全てを察してうなだれながら医師の前に座る。医師は静かに口を開いた。
「後輩の君には辛い話で悪いが…今朝午前五時五十三分、大久保誠君が亡くなられた」
「…そうですか」
「…それで、君に相談があってね…こんな事を言っては何だが、君には朗報だ。大久保君は生前、アイバンクにご両親と相談して入っていてね、とにかく彼の片目の角膜は君に移植して欲しいと名指しで手続きをしていたんだ」
「え?」
「とはいえこれは特例だ。移植には君の同意も必要だと思ったから相談したんだが…どうだい。断るなら正規の手続きで他の待機者に献眼するとご家族は言っている」
「どうする…守」
「…」
 不知火は迷う。もちろん角膜が移植されれば自分の目は元に戻り、山田達とも対等に勝負ができる。しかし、自分ばかりがいい思いをしている様で申し訳ない気持ちもあった。迷う彼に、不意にそれを見詰めていた真理子が口を開いた。
「不知火さん…移植、受けて下さい」
「真理子ちゃん…?」
「真理!これは子供が口出しする話じゃ…」
 真理子の口を封じようとする両親を遮る様に、彼女は強い口調で続けた。
「大人も子供も関係ないよ!…お兄ちゃんは不知火さんの球をずっと受けたがってた。それがかなわないんだったら、せめて不知火さんの何か役に立ちたいって言ってたの。だから…お兄ちゃんの気持ち、無駄にしないであげて!」
「真理子ちゃん…」
 真理子の言葉に不知火は言葉を失う。自分が誠に球を受けてもらいたかった様に、誠も自分の球を受けたいと思っていてくれた。そして何より自分の事を考えていてくれた――その事に彼は胸が一杯になる。誠の自分に対する想いを理解し、彼の心は決まった。そして彼はそれを口にする。
「…お願いします」
「守」
「不知火君…」
「ありがとう…不知火さん」
 不知火の言葉に不知火の父と誠の両親は目頭を押さえ、真理子は彼に向かって頭を下げた。その様子を見て医師は頷くと、静かに声を掛ける。
「そうと決まったら緊急手術だ。角膜は6時間以内に移植するのが最適だからね。不知火君、手術前の検査を始めるから準備をしてくれ」
「はい」
 そう言うと医師は立ち上がり、不知火に手術の準備をさせるため病室へ戻した。そして彼は手術を受け、左目の視力を取り戻し白新野球部に帰還する。部へ戻ると監督から呼び出され、自分がサポートをするからと秋季からの監督を打診された。どうやらこれも生前誠が監督に頼んでいたらしい。彼はその遺志を受け継ぎ、依頼を快諾した。しかし、夏季の予選の屈辱を晴らすホームランを叩き出したものの、誠の願いも彼の努力も空しく、秋季大会のみならず明訓には三年間一度も勝つ事ができずに彼は高校を卒業し、ファイターズへと入団した――