そうして土曜日の朝、瑛理は家をバイクで出発し、葉月の家に向かう。途中で昼食を済ませ言われた通り差し入れを買い、山から坂道を降り、葉月の家の通りは狭いのでバイクから降り、押して家の前に置くと、呼び鈴を押す。すぐに引き戸が開かれ、葉月が微笑んで顔を出す。
「瑛理さん、良く来てくれましたね。じゃあバイクはそこの軒先に置いて、一息ついて下さい」
「あ、はい」
 瑛理は言われた軒先にバイクを置くと、葉月に勧められるまま家に入る。奥では土井垣と葉月の父である雅昭と母である六花子が微笑んで迎え入れた。
「よお、瑛理ちゃん」
「盾野さん、久しぶり。よく来たね」
「いらっしゃい。今日は盾野さんと弥生ちゃんが泊まるのね。嬉しいわ」
「はい、よろしくお願いします」
「とは言っても夜はお姫達と飲んで遅くなるから、お父さん達は先に寝てていいよ」
「そうか。じゃあ八畳に布団を敷いておくから、今日は三人ともそこで寝なさい」
「お風呂は適当に沸かし直して順番に入るといいわ。狭いから」
「うん、ありがとう。お父さん、お母さん」
「ありがとうございます、宮田さんのお父さんとお母さん」
「じゃあ、コーヒーがはいっているから飲みなさい」
「はい、ありがとうございます」
 瑛理は葉月にコーヒーをいれてもらうと飲んで一息つく。そのおいしさと暖かさが染みとおり、瑛理は喜びの声を上げる。
「おいしいです~」
「瑛理さん、そのコーヒーはお父さんがいれたの。本当においしいでしょ?」
「はい、こんなにおいしいコーヒー飲んだの、初めてかもしれません」
「嬉しい褒め言葉だね。ありがとう」
 雅昭はにっこり微笑む。そうして一息ついた後、三人は電車に乗って小田原駅へと向かう。一駅乗って降りた後、東海道線の改札に行くと、不知火が人待ち顔でもう立っていた。
「不知火さん、こんにちは」
「守さん、こんにちは」
「守、早かったな」
「いや、瑛理が迷惑掛けてないかと思ったら早く来てしまって…」
 そう言って照れ隠しの様にキャップのつばをつまむ不知火に、土井垣と葉月は微笑ましげに笑う。そうしていると続々とメンバーが集まって来る。
「はーちゃん、おひさ。今年も休暇勝ち取れたんだね」
「もちよ。これとお祭りのためだけに、いつも休み返上してまで働いてるんだから。年二回くらい我侭は言わせてもらうわ」
「そこまで言うか~?それに今年は盾野瑛理まで連れてきたんだ~…何か嬉しいな~…あ、ごめんなさいね。自己紹介が遅れて。あたしは朝霞弥生。はーちゃん…葉月さんとは高校時代からの親友で、内科と小児科のドクターをしてるわ。ちなみにあなたのファンなの。よろしく」
「あ…はい…よろしくお願いします」
 美人の弥生に気さくに挨拶されて、嬉しさと戸惑いで瑛理は口ごもる。それを見た弥生は、はしゃぐ様に声を上げた。
「あ~可愛い~!あの大胆なレーシングする盾野瑛理がこんな可愛いなんて知らなかった~!はーちゃんに感謝だ!」
「えっと、あの…」
「ヒナ、こらこら、瑛理さんは恥ずかしがりやだからあんまり騒がないでって言ったでしょ?」
「…あ、ごめんなさいね。盾野さん」
「いいえ…ええと…」
「ヒナでいいわよ。逆に名前呼ばれると恥ずかしくなりそうだから」
「じゃあ…ヒナさん…これからどうかよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ」
「弥生さ~ん、俺を無視しないでくれよ~」
 一緒に付いて来た三太郎がわざとぶすっとした口調で口を開く。その言葉に弥生は苦笑して言葉を紡ぐ。
「はいはい、三太郎君。とりあえずは二日間一緒なんだから、そんな声出さないの」
「微笑さんだ~お久し振りです」
「久し振り、盾野さん。元気そうだね」
「はい、元気ですよ」
「そりゃ良かった」
「おっ、来てるな…皆、久し振りだな」
「お久し振りです~御館さん」
「あ、柊。ありがとうね、無理聞いてもらっちゃって」
「いいんだよ。他ならねぇ葉月の頼みだ、聞いてやるよ。それにどうせ俺も今日観に行くつもりだったしな」
「ん…じゃあ後は義経さんと犬飼さんだね」
「ああ、義経は『先に行く』ってとっくに向かった。いい席取りたくてたまんないらしいな」
 三太郎の楽しげな言葉に、葉月も笑うと更に呟きながら見回す。
「だとすると犬飼さんだけか。…あ、来た来た」
 そうやって葉月が見回していると、小次郎が階段を上って、改札にやって来た。
「ついうっかりそのまま別の電車に乗っちまうとこだったぜ…すまなかったな。待たせて」
「いいえ、今大体集まった所なんで…あ、柊、ヒナも。犬飼さん初対面でしょ?挨拶しないと」
 葉月の言葉に、まず弥生が率先して挨拶をする。
「犬飼さん、初めまして。私は朝霞弥生と言って、はーちゃん…宮田葉月さんの親友で、医師をしています。よろしくお願いします」
「ああ、よろしくな」
 それに続けて柊司はにっと笑うと、小次郎に右手を差し出して挨拶する。
「犬飼、俺は御館柊司って言って、葉月の姉さんの悪友で、葉月とも幼馴染の親友だ。お前の事はよく土井垣や葉月から聞いてる。よろしくな」
 小次郎はそれを受けて握手をすると、ふと言葉を紡ぐ。
「あ、はい…よろしくお願いします。文乃さんの友人なんですか」
「犬飼、文の事知ってんのか?」
「ええ、一度土井垣と宮田と、俺の許婚と一緒に飲んだ事ありますから」
「そうなのか…ま、盾野はちょっくら引いてるみたいだが、文と葉月が馴染んでるならいい奴だな、お前」
「はあ、どうも…」
 そうして話していると、不意に葉月と弥生が慌て出す。
「…ああ話してちゃまずかった。早く行こう?」
「そうだね。早ければ早い程いいもんね」
 二人の言葉に柊司も同意する。
「そうだな…皆、行くぞ」
「え?葉月さん、ヒナさん、御館さんも…そんなに急いでどうしたんですか?」
「折角のオフなんですし、ゆっくり行きましょうよ」
「そうだな、慌てたってどうしようもないだろ」
「ところがそうもいかねぇんだよ。…まあ行けば分かるぜ」
「…?」
 首を傾げる瑛理達三人を急かす様に、葉月と弥生と柊司は一同を市民会館へと案内する。『詳しい観光案内は明日って事で…』と葉月は言って先を急がせ10分程歩くと、一同は市民会館に辿り着いた。そこで瑛理達三人は葉月達が急いでいた理由が良く分かった。もう開場を待つ人間が並んで、列整理の人間も出ていたのだ。これ程の劇団なのかと改めて驚いた様で小次郎は驚いた声を出す。
「すげえな…こんなに観たがってる客がいるのか」
「はい、ファンだけじゃなくってそれぞれ座員には多かれ少なかれ、なじみのお客さんがいますしね。全席自由だから昔からのファンの人には、お昼から並んでる様な人もいるらしいですよ」
 葉月の言葉に、瑛理も不知火も感嘆した声を出す。
「そうなんですか~」
「確かにプロ顔負けだよな、この集客は…」
「ところで義経はっと…ああ、随分前にいるな。席ついたらからかいに行ってやろっと」
「やめてあげなさい、三太郎君。義経君の純粋さ、笑ったら可哀想でしょ?」
「ま、そうだけど」
 弥生と三太郎の会話に、不知火が不思議そうに問い掛ける。
「三太郎、どういう事だ?」
 不知火の問いに、三太郎は楽しげに事の次第を話す。それを聞いた不知火と小次郎は驚きの言葉を上げる。
「じゃあ、雑誌で暴露されてた義経が選手通用口で告白したって女は、今回の芝居に出る宮田の親友って事か…?」
「そういう事です」
「本当に世間って狭いな…」
「でも、親友に紹介されたから付き合い始めるという事も、そうはないだろう。葉月だからこその縁結びの力だと思うぞ、俺は」
「確かに、葉月は人と人をつなげるのが得意だからな」
「将さん、柊も、あんまり変な事言わないで下さい」
「いいや、俺も土井垣も褒めてんだよ。お前は人一倍周りが仲良くできる様に努力するからな」
「そういう事だ」
「…ありがと」
 葉月は恥ずかしそうに微笑む。それを一同は微笑ましげに見詰めていた。そうしている内に開場し、葉月と弥生と柊司はチケットをもぎりしてもらい、土井垣と瑛理と三太郎と小次郎は名前を言って料金を払い、チケットを出してもらった後、ご祝儀を出して葉月の案内で席へつく。中央から少し前よりに案内され、席に座ると、弥生がにっこり笑って言葉を紡ぐ。
「今年もラッキーだね。いい席取れて」
「そだね」
「ああ」
「あの~ヒナさん」
「何?」
「一番前に行かなくていいんですか?」
 瑛理の問いに、弥生はにっこり笑って答える。
「一番前だとね、見上げる形になって逆に観づらいのよ。ここだと舞台丁度正面でしょ?視力さえ大丈夫なら、ここが一番見やすい席なのよ」
「そうなんですか~」
「とはいえ、熱心なファンは前に行きたがるけどね…って義経君、しっかり最前列ゲットしてるわ」
「あ、ホントだ。やっぱお姫の姿、間近で観たいんだね~…とりあえず一声掛けてくるよ」
 そう言うと葉月は前へ行ってそこに座っている義経に声を掛け、何事か会話した後戻ってきて、にっこり笑って更に口を開く。
「オッケーです。終わったら皆で飲み行くって話つけました…ちょっと義経さん渋ってましたけど」
「まあ、海外拠点の瑛理ちゃんは神保さんと話せる機会は中々ないからな。今回は義経に少し我慢してもらおう」
「…そのおゆきだけど、今年の役名、何か良く分からないよね。いつもなら名前もそうだけど、女中とか簡単に役柄の説明ついてるのに今年はおゆきだけ説明もなし…か」
「ええと、この『巫女姿の女』っていうのがそうですか?」
 パンフを葉月に見せてもらいながら、瑛理が弥生に問い掛ける。
「そうそう。それ」
 弥生の言葉に、柊司も不思議そうに言葉を紡ぐ。
「唐人お吉だろ?今年の演目。巫女が関わる様な演目でもねぇと思うんだがな…ついでに言うと、お吉とはセットの重要人物、ハリス役がいねぇってのも不思議だな」
「でも、後藤作品よ?何かしら捻ってるんじゃない?」
「そうだな。色々うまく人間模様を書く後藤作品だしな。楽しみにするか」
「後藤作品…?何だそりゃ」
 小次郎の問いに、葉月がパンフを見せて答える。
「脚本のところ見て下さい。『後藤翔如』ってあるでしょう?」
「ああ。有名な脚本家なのか?俺は芝居門外漢だから分からねぇんだが」
「いえ、この劇団の座付き作家さんだからプロではないです。でもこの劇団で永年脚本書いてて、ファンの間ではおなじみですし、その腕も確かですよ。観たらきっとびっくりします」
「へぇ…」
「それに、『とうじんおきち』って、そんなに有名な人なんですか?」
 瑛理の素朴な問いに、土井垣が答える。
「まあ、最近の若い人は知らない人が多いかもしれんし、海外暮らしが長かった瑛理ちゃんなら、尚更だな。唐人お吉は、ここから1時間程更に電車で行った、伊豆下田の有名人だ。ただ有名とは言ってもその一生は、好きな男とも添い遂げられず、その頃は忌み嫌われた外国人の世話をさせられ、らしゃめん…いわゆる外国人の愛人と言われて罵られ続け、最後は川に身を投げるという、悲劇に彩られているがな」
「ああ、それがこのタイトルになるんですね。らしゃめんって、そういう意味なんですか…」
「まあ、芝居を観れば大体分かるんじゃないかな」
 そう話していると、ブザーが鳴り、開演のアナウンスが入り、更にもう一度ブザーが鳴ると舞台が暗くなり、芝居が始まる。舞台はお吉の時代の背景の説明を下田奉行と通訳の侍の会話で説明した後、お吉をハリスの元へ送る背景を更に侍を一人加えて説明し、そこからお吉の半生を描くという手法を取っていた。ここではお吉をただの女としてではなく、恋する娘からその恋の破局によりお国のためと言われ使命感からハリスの世話係となり、らしゃめんと言われる事に反発しながら、自由の国アメリカへと胸を躍らせ渡米を夢に見、しかしその夢も叶わずその使命感を利用されるだけ利用され尽し、最後は酒に溺れてさ迷い歩き、下田に帰ってくるという維新の時代にらしゃめんと言われた女の悲劇を凝縮させて描かれていた。そしてそこに関わってくるらしゃめんになる事も抵抗がなく、あっけらかんとした雰囲気を漂わせる妹芸者、藩の重臣でありながら密かに勤皇派と通じ、お吉を利用し尽くす悪役と言っていい侍、蒸気船を作る夢に惹かれ、お吉を捨てる恋人の鶴松、昔のよしみで酒に溺れたお吉をそれと知りつつそ知らぬふりをして受け入れる料亭の女将など、それぞれの人間模様が丁寧に描かれていてそれは見事な舞台だった。柊司が『お吉とセットの重要人物』と言ったハリスが出てこない分は会話で補い、それも無理がなく溶け込んでいる。瑛理は唐人お吉の事を知らなくても、その舞台の見事さに目が離せなかった。一幕の最後でお吉と妹芸者が石を投げられ、『二度と下田なんかに戻ってきてやるもんか!』と見得を切る場面でその毅然とした雰囲気に惹かれ、そしてラストでそれとは裏腹に酒に溺れて下田へ帰ってきた場面で『どうして…下田なんかに…帰ってきちまったんだろう…あれほど厭な下田なのにさ…』と呟き、血を吐いた上に酩酊と狂乱の中で『…でもさ、あたしをアメリカにさ、連れて行って、くれるなら、ほんとにさ、らしゃめんになってもいいよ…どうなんだい…何黙ってんのさ、何とか言ったらさ…ええハリス…』と続け、一転して医者に連れて行くため戸板に乗せようとした料亭の人間を振り切り、咳き込み、笑いながら『何が他人の空似だい…お前の言う通り、お吉だよ、らしゃめんお吉だよ。文句あるかい、たんと嗤うがいい、石でも何でも投げつけやがれ!一度堕ちたらとことん堕ちてやるのがお義理ってもんじゃないか、文句あるかい!』と叫ぶ姿が更に悲劇を増幅させ、そして最後にお吉だけスポットが当てられ、その中でたどたどしく彼女が叫ぶ英語が悲劇を決定的なものにする。

――ゲラウェイ
ドントヘイトミー
ゲラウェイ
リブミアロン――

 瑛理はその英語とそれに続く哄笑でお吉の孤独、悲劇を感じ取り、思わず涙を零していた。そんな中、葉月の親友は途中のお吉がアメリカに行くのを退けられ、悪役の侍に脅されて京へ行き、ハリスの事を京の公家に話す場面で出て来て、会話によると元春日大社の巫女で、今はその公家の家に奉公しているが、どうしても巫女姿を崩さない、言う事もほぼ『仰せのままに』のみで、言ってしまえば狂人の役なのだが、その突拍子がなくマイペースかつ仰々しく見せる所作と、そのどんくささに公家がイライラするやり取りが笑いを誘い、筋とは特に関係なく、しかも一歩間違えば芝居が壊れかねない際物の役を危ういバランスで演じ、緊張感で下手をすれば重くなりがちな芝居の流れの中に、一服の清涼剤として存在していた。そうして緞帳が下り、また上がると、座長の挨拶と共にカーテンコールが行われ、役者への花束贈呈などもそこで行われる。葉月の親友には花束は一つもなかった。瑛理は心配になって葉月に問い掛ける。
「…あの、葉月さん」
「何?」
「花束…やっぱりあった方が良かったんじゃ…」
 瑛理の言葉に、葉月はにっこり微笑んで応える。
「大丈夫。後でちゃんと花束贈られるから」
「?」
 そうして座員が一礼して緞帳が下りると、葉月は弥生と瑛理に声を掛ける。
「じゃあ、ヒナと瑛理さんは楽屋へ行きましょ?早く行かないとお姫、さっさと着替え始めちゃうだろうから」
「そうね。盾野さん、差し入れのお菓子持って行きましょうか」
「え?いいんですか?」
「大丈夫、舞台上だけじゃなくって、楽屋に直接花束届ける人もいるから」
「そうなんですか…」
「じゃあ俺達はどうしていたらいい?」
 土井垣の言葉に、葉月は少し考えて応える。
「そうですね…外今日は寒いから…ロビーで義経さんも連れて一緒に待ってて下さい」
「分かった」
「じゃあ…行きましょ?」
 そう言うと葉月と弥生は瑛理を促した。