ベルリンの人並みの中、若き日のブロッケンマンはどこへ行くともなく歩いていた。髑髏の徽章を授けられ超人となり早2年、ナチスの軍服に身を包んだその姿と試合で見せる残虐ファイトから、彼は既に『ドイツの鬼』と恐れられる身となっていた。ナチスの軍服は、ドイツの歴史の愚かだった部分を忘れさせないためと思い着たものであるし、『目の前の敵は完膚なきまでに叩き潰す』という自分の考え方に疑問は持っていない。しかしそうした自分に対する周囲の視線が煩わしくなる事もある。そうした時彼は軍服を脱ぎ、街を行く当てもなく歩き回るのを楽しみとしていた。普通のシャツ姿となった彼は鍛えられた身体と鋭い目付きが目立つものの、全体的には『どこか育ちのよさそうな青年』であり、道ゆく人々も横を歩くこの男が日々自分達が忌み怖れている男であるとは全く気づかない。それどころか気軽に声をかけてくる者さえある。リング上の自分に向けられる態度と街中で向けられる態度のギャップ――奇妙な感覚も多少あるがその差が彼には心地よかった。

「さて、そろそろ帰るか…ん…?」
 ふと見上げるとぽつり、ぽつりと雨が降ってきた。激しくはないがその分シャツをしっとりと濡らしていく霧雨。これ以上濡れるのも嫌なので雨宿りをしようと、彼は目に入った店に飛び込む。店には客の気配はなく、女性が一人掃除をしていた。
「申し訳ありません、まだ仕込みが終わっていなくて…あら?」
 二人の視線が重なる。自分をまっすぐ見詰める蒼みがかった緑の瞳に彼は一瞬吸い込まれる様な感覚に襲われ、彼女から目が離せなくなっていた。
「そうか…すまない」
「いえ…あら?どうなさったのですか?濡れてるじゃありませんか」
 女性は彼の姿を見ると、慌てて駆け寄って来た。
「え?…ああ、雨に降られてしまって…」
「まあ、それは大変でした。…そうだわ、今何か身体を拭く物を持ってきますから」
「いや、この位大丈夫だ。…それより開いてないのに勝手に入ってきてすまなかった。今出ていくから…」
「いいえ。雨宿りにいらした方を追い出す程、うちは薄情じゃありません。何もできませんが、雨が止むまでいて下さってかまいませんよ」
「しかし…」
「気になさらないで下さいな。こういう事はよくありますもの」
 そう言って微笑む彼女に彼は思わず顔を和ませ、気遣いに甘える事にした。
「…それでは、お言葉に甘えて少しだけいさせてもらおうかな」
「そうですか。それでは私はお店の準備がありますので、何か用があったら呼んで下さい」
「ああ」
 そう言うと彼女は店の奥に入っていった。彼は手近な席に腰を下ろすと店の中を見回す。店の内装からしてここは酒場らしく、店の隅にピアノが置いてある事から音楽を聞かせたりもする店であろう。店の雰囲気がどこか暖かな感じがするのは、店の主人の人柄が出ているからなのだろうか――そんな事を考えていると目の前に紅茶が置かれ、タオルが差し出される。ふと横を見ると、彼女が優しく微笑んでタオルを彼に差し出していた。
「これは…?」
「やはり濡れていると体に毒です。どうぞ」
「そうか…ありがとう」
 彼がタオルを受け取ると彼女はまた仕事に戻っていく。彼は差し出されたタオルで頭などを拭き、紅茶を一口飲む。ほのかな甘さと温かさが彼の身体に染み渡った。彼は紅茶を飲みながら今度は忙しく立ち働いている彼女を見詰める。ぬけるような白い肌に赤い唇、薄い色の長い金髪を一つに束ねたその姿は、質素な雰囲気の店に華を添えていた。初めは商売女かとも思ったが、彼が知っているそれとはどうも違う。一体彼女は何者なのか――と、不意に店の扉が開き、中年の男が入ってきた。
「いや~雨に降られちまって散々だ。アマーリエ、留守番させて悪かったな」
「おじ様、お帰りなさい。姉さんはどうしたの?」
「ああ、買い忘れのものがあるからって市場に残ってるよ。…おや」
 男は怪訝そうにブロッケンマンと彼女を見ると、にやりと笑う。
「ほう、アマーリエ。俺の知らない間にこんないい男と付き合ってたのか。常連の男達が泣くぞ」
「もう、おじ様ったら…この方雨宿りに入っていらしたからお引止めしたの」
「すまんすまん…」
 怒った様子を見せる女性に男は困った様に詫びを入れる。しかしその間に流れる暖かい雰囲気に、ブロッケンマンは顔を和ませた。ひとしきり女性と話すと、男は彼に向き直り声をかける。
「しかし災難だったな兄さん。仕込みが終わっていないから何もできないが、それでよければ雨が止むまでいてくれていいぜ」
「いやしかし…」
「な~に、困ったときはお互い様さ。気を遣いなさんなって。それにあんたは人を見る目が確かなこいつがもてなした奴だ。悪い奴じゃねぇだろうしな」
「…ありがたい。しかし…一休みもさせてもらったし、雨が酷くならないうちに帰ろうかと思っていた所なんだ」
「でも、まだ雨は降っていますよ」
「さっきも言ったがこの位で風邪をひく様な身体ではないから。邪魔して済まなかった」
「そうですか…では、ちょっと待っていて下さい」
 彼女はそう言って店の奥に入っていくと、奥から一本の傘を持ってきて彼に差し出す。
「これをどうぞ。お客様の忘れ物で申し訳ありませんが…」
 彼は傘と彼女を見比べていたが、やがて微笑むと傘を受け取る。
「ありがとう、時間はかかると思うが必ず返すから」
「いいえ、別に返して下さらなくてもかまいません」
「…おや、この店は来ようとする客を追い出すのか?」
「はい…?」
 小首を傾げる彼女に、ブロッケンマンは悪戯っぽい笑みを見せて続ける。
「私はこの店が気に入ったんだ。今度は客としてここに来よう。その時傘を返せばいいだろう?」
 彼の言葉を聞いて彼女は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに嬉しそうな微笑みを見せる。
「はい。ではお待ちしています」
「では…また来る。そうだお嬢さん、紅茶の代金はいくらだ?」
「こちらが勝手に出したのですからお代はいりません。ね、おじ様」
「ああ。今度飲みに来た時に、たっぷり飲んでもらって元を取らせてもらうからな、兄さん」
「そうか…その時はお手柔らかに頼む」
 そう言うと三人は朗らかに笑った。