そして数日後の夜、暇が出来たブロッケンマンは乾かした傘を持ち酒場へ出向いた。記憶を辿り酒場まで行くと、賑やかで楽しそうな歌声が店の中から聞こえて来る。その声に引き寄せられる様に、彼は店の中へ足を踏み入れると、入ってきた彼に目ざとく気付いた客の一人が声をかけた。
「…お?新顔だなあんた」
「ああ…まあな」
「何だよ、すかした野郎だな」
 不満げな表情を見せ絡んでくる男を適当にあしらいながら更に店の奥へ入っていくと、先日の店主が彼に気付き、笑いながら声をかける。
「よお兄さん、本当に来たんだな。約束通り今夜はしっかり飲んでいってもらうぜ」
「ああ、よろしく頼む」
 ブロッケンマンと店主が話をしていると、この間の女性も気が付いたのか、もう一人いた黒髪の女性と一緒に二人の方へ近づいてきて彼に声を掛ける。
「本当にいらしてくださったんですね。ありがとうございます」
「ああ、こちらこそこの間は助かった。ありがとう…それからこれを」
 ブロッケンマンは持ってきた傘を彼女に差し出した。
「まあ、本当によろしかったのに…ありがとうございます」
 嬉しそうな表情で傘を受け取る女性に黒髪の女性が声を掛ける。
「アマーリエ、この人がこの間言ってた人なの?それに今のあんたの態度、あんたも結構隅に置けないわね」
「何言ってるのよ姉さん。私は本当にお客としてまたここへ来てくれた事が嬉しいだけよ」
「隠さない隠さない。ここに来てくれたのがこの人だから嬉しいんでしょ?」
「もう…姉さんまでそんな事言うの?」
 二人の楽しそうな様子に、ブロッケンマンは思わず笑みがもれる。と、その時楽しい雰囲気を破るかの様に、機嫌の悪そうな男の声が響く。
「何だよ、ゲオルクだけじゃなくてアマーリエもこのすかした野郎と知り合いか?こんな野郎のどこがいいんだよ。ちょっと見で来た男に媚を売るなんざ、ここも質が落ちたよな」
 彼が声のした方を見ると、先程絡んできた男が不満げな表情でこちらを睨み付けていた。絡まれて余りいい気持ちはしないが、周囲に嫌な思いはさせたくはないと感じた彼は、どうしたらこの場を切り抜けられるか考えを巡らせる。その様子を見ていた店主は絡んだ男の方を見ると、取り成すように声を掛ける。
「おい、今日は機嫌が悪いようだな。何か気にいらねぇことをこの兄さんがしたようだが、悪い奴じゃねぇ事は俺とアマーリエが保障する。仲良くやってくれよ」
 店主は今度はブロッケンマンの方を向いて囁く。
「兄さん、こいつはアマーリエに惚れてるんだ。絡んだのは悪かったが、こいつも根は悪い奴じゃねえんだ。嫌わねぇでやってくれ」
 そう言うと店主は片目をつぶる。店主の取り成しにブロッケンマンは内心感謝しながら、絡んだ男に頭を下げる。
「いや、こちらも彼にあまりいい態度をしなかったから…申し訳なかった」
 彼が頭を下げると、絡んだ男もばつの悪そうな表情を見せる。
「まあ…そうされると俺も悪いところがあったから…じゃあ、改めてよろしくな。兄さん」
 男は右手を差し出してきた。ブロッケンマンは迷ったが、やがて微笑むとその手を取って握手した。
「ああ、こちらこそ」
「よーし、新しい仲間が出来た祝いだ!ローザ、アマーリエ、一曲やろうぜ」
「ええ。何の曲がいいかしら」

 やがて夜も更け、客の数も少なくなっていたが、ブロッケンマンはこの店の雰囲気が気に入り一人酒を飲んでいた。と、アマーリエと呼ばれていた金髪の女性が、気遣わしげな表情で声をかけてくる。
「大丈夫ですか。かなり飲んでいらっしゃる様ですけど…おじ様の言った事は気にしなくていいんですよ」
「ああ、大丈夫だ。これでも酒は強い方でね」
「そうですか…ならいいのですけど」
 微笑む女性にブロッケンマンは話し掛ける。
「ここに来た時にピアノがあった事は気付いていたが…あなたが弾いていたんだな」
「ええ。私がピアノを弾いて、姉さんが歌うんです」
「姉さん…というとあの黒髪の女性か。しかし、君はここで何故ピアノを弾いているんだ」
ブロッケンマンの問いに、女性は静かに微笑んで答える。
「私、大学で音楽を専攻していて…勉強と学費の為にここでピアノを弾いているんです。学校ではこの仕事を『音が下品になる』って嫌がる人もいますけど、私はむしろ皆に親しんでもらえる音を弾くためにはいい事だと思っていますし、何より人に喜んでもらえるこの仕事が楽しいんです」
「そうか…私は音楽はよく分からないが、あなたの弾くピアノは本当に楽しそうだと思えたし、とても気に入ったよ」
「ありがとうございます」
 ブロッケンマンの言葉に、女性は恥ずかしそうな、しかし嬉しそうな表情を見せる。
「そういえば名前を聞いてなかったな。…改めて聞いてもいいだろうか」
 ブロッケンマンの言葉に、女性は微笑んだまま答える。
「ええ、私はアマーリエ…アマーリエ・シェリングといいます。あなたは?」
「私は…」
 ふと名前を言いかけて、ブロッケンマンは口をつぐむ。世間に自分の本名は知られていないが、ふとした弾みで知られてしまう可能性はある。その時、『ドイツの鬼』と恐れられている超人がここに来ていると知れたら…。考え込んでいる彼に、アマーリエは不思議そうな表情を見せる。
「どうかしましたか?」
「いや。…私の名前は……クラウス……そう、クラウス・ベルガーだ」
 考えあぐねた末、ブロッケンマンは自分の信頼できる仲間の名前を口にする。彼の名ならば、万が一何かあっても切り抜ける事が出来るだろう。
「そうですか…ではクラウスさん、これからもこのお店をごひいきにして下さいね」
「ああ、よろしく頼む」
「お~い、アマーリエ、ビールをくれ!」
「あ、は~い!じゃあ…」
 彼女はぺこりと頭を下げると声のした方へ去って行き、彼はその姿を無意識にじっと見つめていた。

 その日から彼は折に触れこ、の酒場を訪れる様になった。この店はアマーリエがピアノを弾き、その姉であるローザや客が歌ったりする酒場であった。店には常連の客が多く、彼が周囲に気を配った事もあったが、新しい常連である彼を前からの常連の客は暖かく迎え入れてくれて、そんな雰囲気を持ったこの店に彼は惹かれていった。しかし同時に、店の雰囲気はもちろんアマーリエとその姉ローザの音楽に惹かれた事もあったが、それだけではないと言う事に彼は気付いていなかった。彼女の音楽だけではなく、彼女自身にも惹かれているということに――