ある昼下がり。ブロッケン邸の一室で、二人の男が紅茶を飲みながら話をしていた。一人はテオドール・シュライバー、ブロッケンマンの参謀であり、もう一人はブロッケン一族に仕える執事の息子で、現在執事見習のクラウス・ベルガー…ブロッケンマンが名前を借りた男である。
「…おいクラウス」
「何ですか?テオドール」
「フランツの事だけどよ…最近感じが変わった気がしねぇか?」
「そういえば最近、少し感じが丸くなりましたねぇ…前は寄らば斬るという雰囲気だったのですが」
「やっぱりそう思うか?」
「ええ。でも当主としては、いい雰囲気になった気がしますよ。彼を怖がっていた使用人達もフランツの感じが丸くなったおかげで、大分和んできた様ですし。それより私が気になっているのは、そうなった矢先に夜の外出が多くなった事です」
クラウスの言葉にテオドールも同意する。
「そういう事だよ…しかしあいつ何やってるんだろうな。夜遊びする様な奴じゃねえんだが」
「ええ、あなたと違いましてね」
「うるせぇな…今はフランツの事だろ」
「はいはい…どちらにしても、ドイツ超人の代表といってもいい、ブロッケン一族の当主と参謀がこの様な状態では困りますね」
「だから今はあいつの事だろうが…俺の事じゃねぇだろ」
クラウスのスパイスがたっぷり効いた言葉に、テオドールは不満げな声を上げたが、すぐに気を取り直し一つの提案を出した。
「…そこで提案なんだが。今度あいつが出てったら、こっそりつけねぇか?」
「尾行して、何をしているか探るんですね。私は家庭もありますからあまり夜は外出できませんし、何より人の事を探るのはあまり気が進みませんがねえ…」
「当主の素行が悪いんなら、矯正するのも執事の役目だろうが…いいからついてこい」
「はいはい」
その夜、クラウスとテオドールの二人は、今夜も外へ出て行った自分の主人をこっそりと追いかけて、酒場のある街まで出て行った。
「…ふむ、あまり雰囲気がいい所ではありませんねぇ」
「確かにな。あいつがこんないかがわしそうな所に出入りするってのも考えられねぇ事だ」
街の様子を見ながらクラウスは渋い顔で呟き、テオドールも当主の性格を熟知しているので、クラウスの言葉に同意する。
「…ところで、フランツの野郎はどこだ?」
「そういえばどこでしょうね。仕方がありませんから、一軒一軒様子を見ていきますか」
「え~っ!?ここにどれだけ店があると思ってるんだよ!それにもしかすると、店どころかどっかの女の家に転がり込んでるって事も考えられるぜ?見つかるかどうかわかんねぇぞ!?」
不満げな声を出すテオドールに、クラウスはさらりと言葉を返す。
「私が見たところ、それは絶対にあり得ませんよ。それに、フランツが行きそうな店は大体予想がつきます。それ程の手間はかからないと思いますよ」
ある種の自信を持ったその言葉に、テオドールはため息をつきながら呟いた。
「…全く、末恐ろしい執事見習いだぜ。俺達三人の中で一番敵に回したくないのはお前だよ」
テオドールの言葉に、クラウスはシニカルな笑みを見せながら一礼する。
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
「…しかし、お前のその性格で、よく俺達の中で最初に結婚できたよな。イザベルの懐の深さに感動するぜ」
「人徳の差ですよ。…では、行きましょうか」
「へぇへぇ…」
その頃、ブロッケンマンはいつもの様に店に顔を出し、アマーリエのピアノを楽しんでいた。アマーリエは今日何かいい事があったのか、平時より楽しそうにピアノを弾いていて、それにつられてかローザの歌も今日は冴えていて、いつになく店の雰囲気も楽しく、客達も二人の音楽を楽しんでいる様であった。そんな中ブロッケンマンは、いつもの様にアマーリエの姿を無意識に見つめながらグラスを傾けていた。もちろん他の客とも話したりはするのだが、大抵はこうして一人で飲むのが彼の習慣になっていた。音楽を楽しみたいという欲求ももちろんあったのだが、彼は心の片隅にある、奇妙な感覚を持て余していたのだ。音楽を聴くのがここに来る事の楽しみの一つなのだが、それだけではない何かがこの店にある事に彼は気づいた。それがこの奇妙な感覚の原因である事も何となくではあったが気づいていた。しかし、その『何か』が何なのか考えると、全く分からない。そんな奇妙な感覚を持て余しながら他の客と話しても、あまり話は弾まない。その様な自分の態度で他の客に嫌な思いをさせたくないという思いと、また自分が『ドイツの鬼』と呼ばれている残虐超人である事が分かってしまった時に、客達に迷惑をかけたくないという事もあり、彼はなるべく他の客と接触を避けていたのだ。もちろん、相手から話し掛けてきた時にはそれなりに応対をするので、他の客も一人で飲んでいる彼を特に疎んじもせず、彼の事を変わってはいるが同じこの店の仲間として受け入れていた。そしてふと歌が途切れ、ローザが声を上げた。
「みんな、聞いて!今日はすごく嬉しい事があったの!」
平時から明るいローザであったが、こんな風に口を開く事はめったにない。不思議に思ったのであろう客の一人が、ローザに話し掛ける。
「何だよ、その『嬉しい事』ってのはよ」
「それはね…」
と、乱暴にドアの開く音がして、柄の悪そうな男達が数人店の中へ入ってきた。男達は店を見渡すと、機嫌の悪そうな声で口を開く。
「…何だよ、随分しけた店だな」
「この分じゃ酒もいいのは期待できねぇな…お?いい女がいるじゃねぇか」
男の一人が店にいたアマーリエとローザに目をつけ、下卑た表情を見せながら二人に近づいていく。
「…よお姉ちゃん、こんなしけた店にはもったいねえ位の別嬪さんじゃねぇか」
「どうだい?俺たちと遊ばねぇかい?もちろん金は弾むぜ」
下卑た表情を隠さない男達に嫌悪を抱いた表情を一瞬見せたが、それでもゲオルクは穏やかな顔で、やんわりと男達に口を開く。
「申し訳ないが、あの娘たちはそういった娘達ではないんでね。そういう事なら引き取ってもらえないか」
「じじいは黙ってろ!俺たちゃこっちの姉ちゃん達に話してんだ」
ゲオルクを男達は凄みをきかせて黙らせると、相変わらずの下卑た表情で二人に向かう。
「なあ、どうだい?悪い話じゃねぇだろう?」
男の一人がアマーリエの肩に手を掛けようとする。と、ブロッケンマンの目に信じられない光景が映った。アマーリエが厳しい顔つきで、男の手を振り払ったのだ。
「…私はあなた方とお付き合いする気など全くありませんし、何よりこのお店を侮辱する様な言葉を出す人達には、出て行って頂きたいのですが」
アマーリエの言葉にローザも続ける。
「あたしも同感。誰があんた達みたいなのに付き合いますかって。営業の邪魔よ、出て行ってくれない」
「さっすがアマーリエとローザだ!」
「いいぞ!そんな奴らなんか追い出しちまえ!」
二人の毅然とした態度に、店の客たちが喝采を送る。ブロッケンマンも内心二人に拍手を送ったが、反面この男達の様子を見てある種の危うさを感じていた。その予想が的中し、二人の言葉に逆上した男達は声を荒げる。
「…んだとぉ!こっちが下手に出ればいい気になりやがって!」
男達は二人の腕を掴むと、強引に外へ連れ出そうとする。
「痛いわね!何するのよ!」
「止めてください!」
「おめぇ達は俺たちをコケにしやがった。許せねぇな」
「その落とし前はきっちりつけてもらうぜ」
抵抗はするものの、所詮は女性の力である。二人は店の外に引きずり出されそうになる。ゲオルクを含め、店にいた男達も何とか止めようとするが、男達はかなり強く、誰も止められない。慌てているゲオルクの耳元にブロッケンマンはそっと声を掛けた。
「…もしかすると店を壊してしまうかもしれないが、弁償するから許してくれ」
「…え?」
驚くゲオルクを他所に、ブロッケンマンは二人を引きずり出している男達の襟首を掴んだ。
「…その二人から手を離せ」
「…んだとぉ!?」
振り返った男の顔面にブロッケンマンはカウンターでパンチを食らわせる。
「…の野郎!」
男達は突然現れた男に驚きながらもいきなり殴られた怒りで二人を放し、代わりにブロッケンマンに襲い掛かった。しかし相手は一見ただの青年だが、『ドイツの鬼』と呼ばれる程の実力を備えた超人である。力の差は歴然だった。簡単にあしらわれ男達はテーブルなどを巻き込んで倒れ込み、店の中をめちゃくちゃにする。他の客達はブロッケンマンの強さに感心し、彼らを避けながらも応援の声を掛けた。
「クラウス!お前、見かけによらず強ぇじゃねぇか!」
「いいぞ!クラウス!もっとやれ!」
客達の言葉に内心苦笑しながら、ブロッケンマンは男達を倒していく。と、男の一人がナイフを出してブロッケンマンの後ろから襲い掛かった。
「クラウス危ねぇ!」
客の声で振り返ったが、タイミングが少し遅かった。相手が弱かったので油断していた事を後悔しつつ、刺されるのを覚悟する。その時、急にその男が崩れ落ち、彼がその後ろをふと見ると、そこには親友二人が余裕の笑みを見せて立っていた。
「…な~に一人でこんな面白そうな事をやってんだよ。俺達も混ぜろ」
「…まったく、どこへ行ってもトラブルの絶えない人ですねぇ。あなたは」
その後は三人でやけになって襲ってくる男たちを鮮やかに倒していく。そしてとうとう戦意を喪失した男達のリーダーらしき男に、テオドールが耳打ちした。
「…まったく、あんた達は運がいいよなぁ。こいつはこう見えても『ドイツの鬼』ブロッケンマンだぜ。殺されなかっただけ幸運だと思うんだな」
テオドールの言葉に男は顔面蒼白になる。恐れおののく男に対し、さらにクラウスが耳元に囁く。
「…そうそう、この方がここへいらしているという事は、内分にお願いしますよ。もし他に話す事があったら…今度こそ命はないと思った方がいいですねぇ」
男はこれで完全に戦意を喪失し、泡を食った表情で店から逃げ出していく。男達を見送った後、店にいた客全員が歓声をあげた。
「おいクラウス!お前すげぇじゃねぇか!」
「後から来たお二人さんもすげぇや!あんた達、何者なんだい?」
「クラウス…?」
ブロッケンマンに掛けられた名前を聞いて、テオドールと本物のクラウスは怪訝そうな表情でブロッケンマンを見る。ブロッケンマンは目配せをして、二人に訴えた。それで全てを察知したのか、二人はにやりと笑って頷く。と、ゲオルクと娘二人が三人に近づいてきた。
「いや~ありがとうよ!おかげで二人を守る事ができた!心から礼を言わせて貰うぜ」
「いや…こちらこそ店をめちゃくちゃにしてしまって…弁償をしなければ」
行きがかり上とはいえ店の破壊活動の一端を背負った事を申し訳なく思い、ブロッケンマンは頭を下げる。ゲオルクはそれを遮って続けた。
「いいんだよ。俺にとっちゃ店よりもこいつらの方が大事なんだ。それを守ってくれたおめぇさん達には礼こそすれ、弁償しろなんか言わねぇよ」
そう言うと店主は笑ってブロッケンマンの背中を叩き、アマーリエとローザも三人に対して口々にお礼を言う。
「ありがとうございました。おかげで助かりました」
「ありがとうね。どうなるかって内心ヒヤヒヤだったけど、あんた達のおかげで助かったわ」
「いやぁ、そう言われると照れちまうなぁ」
「困っている人や親友を助けるのは当然の事ですよ。お礼なんていりません」
その言葉に、アマーリエは不思議そうに問いかける。
「『親友』…って事はクラウスさん、このお二人はあなたのお友達なんですか?」
その言葉に内心少し慌てながらも、落ち着いた口調で二人を紹介する。
「ああ、二人は私の親友なんだ。…二人とも、自己紹介しないか」
ブロッケンマンの言葉に、テオドールとクラウスは笑顔で挨拶をする。
「俺はテオドール・シュライバー。よろしくな」
「私は…エルンスト・シントラーです。よろしく」
「よろしくお願いします。アマーリエ・シェリングです」
「よろしくね。ローザ・シェリングよ」
二人の挨拶にアマーリエとローザも微笑んで返す。と、客の一人が一同に声を掛ける。
「おーい!店はこんなだけどよ、酒は出すだろ?飲み直しといこうぜ!」
客の言葉に、ゲオルクは明るい声で叫び返す。
「そうだな。じゃあ新しい仲間も増えた事だし、今から皆で飲み直しといくか!今日は俺のおごりだ!」
「やったね!じゃあじゃんじゃんいこうぜ!アマーリエ、ローザ、仕切りなおしに一曲なんかやってくれ!」
「はーい!」
二人は三人にお辞儀をすると客の波の中に走っていった。二人を見送るとクラウスが口を開く。
「…フランツ、あなたのした事ですから理由は聞きませんが、この借りは高くつきますよ」
「…分かっている」
クラウスの怖さを充分過ぎる程分かっているブロッケンマンなので、ここは素直に引き下がる。その夜は店はめちゃくちゃになったが、三人を含めた客達は楽しんで夜を過ごしたのであった。